第十一話「助けられる妹役は、降りました」
第十一話 助けられる妹役は、降りました
『凪を引き渡せ』
カイトの声に、舞台裏の照明が白く変わる。
『彼女は世界規模公演の安定鍵だ。戻せば、削除された人間も再登録できる』
「犠牲者として?」
『そうだ』
凪が通信板の前へ立つ。
「本人です。拒否します」
『三千万人が消える可能性がある』
「だから私一人ならいい?」
『いいとは言わない。必要だと言う』
「言い方を正確にすれば、殺していいわけじゃない」
カイトは黙った。
直後、天井から白い縄が降る。
《保護対象回収班》
《救助対象――鳴海凪》
兵士たちは凪へ手を伸ばす。
「救助に来た。抵抗しないで」
「そう言われるのが一番嫌い」
凪はハサミを振る。
舞台へ持ち込んだ小道具は、一個の古い体育笛だった。
吹く。
ノークレジットの百二十七人が、一斉に別方向へ走る。
回収班の台本は、助けを待つ対象しか想定していない。
自分で逃げる相手を追えず、足が止まった。
「お兄ちゃん、右の三人!」
俺は《兄役》ではなく、指示された一人として動く。
ミオが照明を落とす。
バンが縄を盾へ巻きつけ、兵士ごと引き倒す。
凪は最後尾で人数を数えた。
「百二十五、百二十六……一人いない!」
奥の通路で、幼い少女が白い縄に捕まっていた。
凪が戻ろうとする。
「俺が行く」
「一緒に」
命令ではない。
相談だった。
二人で走る。
少女の役は《救われる子》。
助けに来た人間一人を、代わりに捕まえる罠だ。
「役を交換すれば俺が残る」
「駄目」
凪は少女へ聞く。
「何て呼ばれたい?」
「ユイ」
「ユイ。助けられるのを待つ?」
少女は首を振った。
「走りたい」
「じゃあ三人で走るよ」
凪のハサミが《救われる子》の札を切る。
俺が縄を受け、ユイが自分の足で抜け出す。
今度は凪が俺の腕を引いた。
「お兄ちゃんも走る!」
「分かってる」
最後の扉へ滑り込む。
回収班は追ってこなかった。
カイトの声だけが届く。
『零。お前はまた、全員を助けられると思っている』
「思ってない」
『では、誰を諦める』
「今、目の前にいる人を数から消さない」
『答えになっていない』
「最初から、正解が一つだと思ってない」
通信が切れた。
凪は俺の腕を放す。
「合格、一個」
「何が」
「勝手に私だけ逃がさなかった」
「あと何個」
「百二十六」
「多いな」
「三年分だから」
その夜、ノークレジットの食卓へ四人分の席が増えた。
凪が卵焼きを作る。
焦げていない。
「おいしい?」
「昔より」
「比較しないで」
ミオが一口食べる。
「好き」
「卵焼きが?」
「今は」
凪が俺を見る。
「審査、一個追加」
「勝手にしろ」
食事の途中、キューがスタッフロールを持ってきた。
百二十七人のうち、一人だけ名前が完全に消えている。
欄にはこうあった。
《役――ラスボス》
《本名――削除済み》
「この人を戻せなければ、出口は百二十六人分しか作れません」
名前のないボスが、舞台裏で目を覚ました。
◇
名前のないボスが目覚めるまで、残り六時間と表示された。
凪は校舎の地下へ俺たちを案内する。
厚い防火扉の向こうで、白い影が眠っていた。
鎖で縛られているのではない。
床へ書かれた何百人もの名前が、影を囲んでいる。
「一つでも消えると、起きる」
「なぜ名前で封じられる」
「この人、名前を食べるから。食べた名前を全部覚えてる。だから逆に、呼ばれると動けなくなる」
凪は三年間、毎日百二十七人の点呼をしていた。
忘れかけた者がいれば、好きだった食べ物や家族の話を聞く。
本人が本名を嫌う場合は、新しく選んだ呼び名を使う。
「お前、一人で?」
「最初は。今は交代制」
また一人で背負ったのかと言いかけ、止める。
「誰と交代してる」
凪が少しだけ笑った。
「聞き方、上手になった」
名簿担当は三人。
夜間の点呼は五人。
凪が寝坊すれば、ユイが起こす。
一人でなかったと知り、安心する。
同時に、三年間そばにいなかった自分が痛む。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「申し訳なさそうな顔を、仕事にしないで」
「してない」
「してる。私が元気だと安心して、傷があると自分を責める。どっちでも中心がお兄ちゃんになる」
言い返せない。
「今は、何をすればいい」
「名前を覚えて」
凪は名簿を半分渡す。
俺とミオ、バンで、一人ずつ話を聞いた。
元王子役の老人は、帰ったら小さな畑を作りたい。
魔女役だった女性は、本当は数学教師。
勇者の剣へ変えられた青年は、金属の身体が戻っても高い所が怖い。
役を聞くだけでは、人は覚えられない。
役以外の話ほど、顔が残る。
ミオは十歳の少女へ質問していた。
「好きな物は?」
「分からない」
「嫌いな物は?」
「選ぶこと」
「どうして」
「間違えると怒られたから」
ミオはしばらく考え、二つの飴を出す。
「選ばなくてもいい。両方置いておく」
少女は赤い方を取り、すぐ青い方も取った。
「両方」
「私と同じ」
元主役は嬉しそうだった。
バンは子どもたちへ怖がられていた。
悪役の黒い影が残っている。
「近づかなくていい!」
大声で言うので、さらに泣かれた。
アオがバンの頭へ乗る。
青いスライムを落とさないよう固まる姿に、一人が笑った。
「怖くない?」
「声は怖い。顔は面白い」
「複雑!」
点呼が終わる。
百二十七人。
全員いる。
それでも地下から、鎖の擦れる音がした。
名簿の最後の欄が黒く滲む。
《役――ラスボス》
《本名――削除済み》
呼ぶ名前がないため、封印へ参加できない一人。
凪が扉へ手を当てる。
「この人も、本当はノークレジットの一人」
「襲ってくるのに?」
「役がそうさせてる。だから殺さず、名前を返したい」
校舎の上で、皿が割れる音がした。
名簿から、一人の名前が薄くなる。
封印の文字が一つ消えた。
地下の白い影が、目を開けた。
◇
目を開けた白い影は、地下から出てこなかった。
代わりに、校舎中の名札が一斉に揺れる。
一人の名前だけが、封印から抜け落ちていた。
「誰?」
凪が名簿をめくる。
百二十七人いるはずなのに、数えると百二十六。
空いた席は食堂。
湯気の立つ鍋の前。
誰かが料理を作った形跡だけが残る。
包丁は濡れている。
味噌汁は温かい。
エプロンだけが椅子へ掛かっている。
「さっきまで、誰がここにいた」
全員が思い出せない。
キューの記録にも空白。
《炊き出し係 一名》
役名だけがあり、本名がない。
「ボスが食べた?」
「まだ完全には起きていません」
キューは地下の反応を見る。
「封印が弱まり、名前の薄い者から吸収しています」
凪はエプロンを手に取る。
ポケットへ、小さな唐辛子の瓶。
「この人、辛い料理が好き」
子どもの一人が言う。
「毎朝、髪を結んでくれた」
別の子。
「怪我した時、役じゃないから治せないって言いながら包帯を巻いてくれた」
記憶はある。
名前だけがない。
「役より先に、その人の話を集める」
俺たちは食堂の壁へ書いた。
《辛い物が好き》
《包帯が上手》
《感謝されると逃げる》
《眠る前に窓を二回確認する》
最後の一行を書いた瞬間、廊下の端へ女性の輪郭が戻る。
皿を持ったまま、身体が透けていた。
「誰か、私の名前を知りませんか」
地下の白い影が、鎖を一本切った。




