第十話「妹から届いた弁当箱」
第十話 妹から届いた弁当箱
「凪」
名前を呼んだ。
三年間、何度も夢で練習した。
抱きしめるつもりだった。
実際には、妹の拳が腹へ入った。
「遅い!」
「二回言った」
「三年分!」
もう一発。
俺は避けなかった。
「ただいま」
凪は泣きそうな顔で言い、すぐ睨み直した。
「でも、まだ帰らない」
背後には《ノークレジット》の人々がいた。
名前を消された救助者。
途中で役を奪われた子ども。
英雄の勝利を成立させるため、死亡扱いにされた兵士。
「全員連れて帰る」
「その言葉、信用できない」
「なぜ」
「三年前も、お兄ちゃんは私に聞かなかった」
凪が弁当箱を投げる。
消えた日の朝、俺が作った弁当。
蓋を開くと、焦げた卵焼きが一つだけ残っていた。
「舞台が崩れたとき、お兄ちゃんは『兄が守る』って私を出口へ押した」
「間違ってない」
「私が先に、後ろの子を助けたいって言ったのに」
記憶が戻る。
泣く子ども。
凪が伸ばした手。
俺はその手をつかみ、出口へ引いた。
結果、舞台は凪を《保護対象》ではなく《最終犠牲者》へ変更した。
「守る役を勝手に選んで、私を助けられる役へ押し込んだ」
「……悪かった」
「謝るのはあと。質問して」
「何をしたい」
「百二十七人へ出口を作る」
「そのあと」
凪は少し迷った。
「家で、焦げてない卵焼きを食べたい」
「作る」
「私が作る。お兄ちゃんは下手」
初めて、笑った。
ミオが一歩前へ出る。
「天城ミオです」
「知ってる。元主役」
「あなたのお兄さんを好きかもしれない人」
「自分で言うんだ」
「役じゃなく確認中」
凪はミオを上から下まで見た。
「合格は保留」
「審査項目は?」
「兄を一人で犠牲にならせない」
「同意」
二人が握手する。
俺の意見は聞かれなかった。
キューが咳払いする。
「再会場面を終了してください。舞台裏の削除速度が上がっています」
壁の一部が白く抜け落ちていた。
凪は銀のハサミで空間を切り、仮設通路を開く。
固有技能《小道具持込》。
一つの舞台へ、本来ない物を一つだけ送り込める。
「この弁当箱も?」
「うん。三年かけて座標を合わせた」
「もっと強い武器を送れただろ」
「お兄ちゃんには、武器より昔の失敗が効くと思った」
正しい。
通路の先に、巨大なスタッフロールが流れていた。
名前の大半が黒く塗り潰されている。
「出口を作るには、全員の名前を現実へ戻す必要がある」
凪が説明する。
「でも、舞台迷宮はもう次の台本を始めてる」
スタッフロールの最上部へ、新しい文字が現れた。
《世界規模公演・最適配役》
《演出家――皇カイト》
《開始まで 七日》
カイトの声が舞台裏全体へ響く。
『零。凪を引き渡せ』
『一人で済むうちに、終わらせる』
◇
ノークレジットの拠点は、廃棄された学校の舞台だった。
教室ごとに暮らす人が違う。
一年一組は、名前を忘れかけた子ども。
二年二組は、役を奪われた探索者。
保健室は、身体の一部が舞台装置へ変わった人の治療室。
黒板には、毎朝の確認事項が書かれている。
《自分の名前》
《今日したいこと》
《嫌なこと》
《昨日と変わってもよい》
「凪が作った?」
「みんなで」
妹は校長室を使っていない。
用務員室の古い机で、名簿と食料を管理していた。
「リーダーなのに」
「校長室に座ると偉い役へ引っ張られる。ここは逃げ道が多いから」
机の下には、逃走用の穴が三つある。
バンが感心する。
「悪の組織の首領みたいだな!」
「あなたより評判はいい」
「痛い!」
凪は俺たちへ拠点の規則を渡した。
一人で救助へ行かない。
本人の名前を勝手に決めない。
帰りたくない者を地上へ押し出さない。
食事当番を英雄扱いしない。
「最後はなぜ」
「三日で疲れて逃げた人がいるから」
俺が厨房を見ると、大鍋が三つ空になっていた。
「今日の当番は」
「私」
「百二十七人分?」
「あと十人手伝う」
「俺も」
「客」
「兄」
「それを理由に仕事を取らないで」
言われ、包丁へ伸ばした手を止める。
「手伝ってほしい?」
「玉ねぎだけ」
指定された分だけ切る。
ミオはじゃがいもの皮むき。
バンは鍋。
キューは秤の上で食料計算。
ミオのじゃがいもは、皮と一緒に半分近く消えていた。
「世界最強」
凪が言う。
「元をつけなくていいの?」
「皮むきでは、今も最弱候補」
「否定できない」
凪は包丁を置き、ピーラーの持ち方を教えた。
「力を入れすぎ。薄く、手前へ」
「剣と逆」
「じゃがいもは攻撃してこない」
「アオは攻撃してきた」
「それはスライム」
二人だけで笑う。
俺が見ていると、凪が顎で食料庫を示した。
「お兄ちゃん、玉ねぎを取りに行って」
「そこにある」
「奥の箱」
明らかに追い出された。
食料庫へ入り、扉が閉じる。
薄い壁なので、声は聞こえた。
「兄を好きって、本当?」
凪が聞く。
「たぶん」
「さっきより後退してない?」
「好きという言葉を、自分で選んだ経験がないから。役の影響が完全にないか、まだ分からない」
「正直」
「凪は、私に兄を任せたい?」
「任せない」
即答だった。
「お兄ちゃんは自分の管理を他人へ丸投げするから。恋人ができても、その人一人に止めさせたら同じ」
「では一緒に止める?」
「それなら考える」
何の同盟を結んでいる。
「それと、私を妹役で扱わないで」
「零の妹ではあるでしょう」
「それだけじゃない。ノークレジットのリーダー。ハサミを使う人。料理はお兄ちゃんより上手」
「最後は確認済み」
「ミオは?」
問い返され、少し間があった。
「元主役。剣士。木桶使い」
「最後が強い」
「それから、今は自分の好きなものを調べている人」
「兄以外の?」
「昆布おにぎり、じゃがいも、失敗を消さない配信」
「増えてる。合格点、一つ上げる」
「兄を好きかどうかと関係ある?」
「私がいなくても、自分のものを持てる人か見てる」
凪の声が少し低くなる。
「お兄ちゃんは、守る相手がいないと自分を空っぽにする。相手までそれに付き合ったら、二人で沈む」
「分かった」
「怒らない?」
「同じ心配をしていたから」
「では、役残りが強くなった時の合図を決める」
「何がいい?」
「本人確認三つ」
凪は指を折る。
「今食べたいもの。今日嫌だったこと。明日やらなくていいこと」
「好きな人は聞かない?」
「それは私が面白い時だけ聞く」
「公平ではない」
「妹なので」
「妹役は嫌では?」
「都合がいい時は使う」
二人の笑い声がする。
俺は玉ねぎの箱を持ったまま、扉を開けた。
「全部聞こえてる」
「盗み聞き」
「閉じ込めたのはお前だ」
ミオが新しいじゃがいもを見せる。
今度は薄く皮がむけていた。
「今日食べたいもの」
「バンの鍋」
「今日嫌だったこと」
「妹と元主役に管理計画を立てられた」
「明日やらなくていいこと」
答えに詰まる。
凪とミオが同時に眉を上げた。
「百二十七人全員を、一人で助けること」
ようやく言う。
「合格」
「保留」
判定が割れた。
三年ぶりに凪と同じ台所へ立った。
話したいことは多い。
どこで寝ていた。
怖くなかったか。
怪我はないか。
全部聞けば、答える側が疲れる。
「今日は何を聞いていい」
俺が尋ねる。
凪は少し驚き、玉ねぎを刻む。
「家へ帰ったら何をするか」
「卵焼き以外で」
「お風呂。こっちは舞台用の偽物しかない」
「分かった」
「それから、学校へ戻るかは自分で決める」
「分かった」
「三年分、年下扱いしない」
「それは難しい」
「一個不合格」
食堂へ料理を運ぶ。
百二十七人が、自分の名前を言ってから皿を受け取る。
思い出せない者には、昨日選んだ仮名を確認する。
食べ始めた瞬間、校内放送が鳴った。
『零。凪を引き渡せ』
カイトの声。
窓の外へ、白い回収部隊が降りる。
凪は箸を置き、銀のハサミを取った。
「食事中に来るの、悪役より空気読めないね」
百二十七人全員が、逃走経路へ動き始めた。
◇
白い回収部隊は、校門を壊さなかった。
正門の呼び鈴を鳴らした。
「鳴海凪さんを、正式な保護手続きに基づき迎えに来ました」
「丁寧な誘拐」
凪が校内放送で答える。
「本人が拒否します。帰ってください」
「未成年者のため、保護者同意を優先します」
「保護者は三年前に死亡。兄は今ここ」
全員が俺を見る。
「本人の希望を優先する」
「兄として保護を放棄するのですか」
「兄だから決める、をやめる」
回収部隊は想定していなかったらしい。
次に学校そのものが《危険施設》へ指定された。
《保護対象を危険から救出してください》
周囲の人々が、救助役へ変わる。
助けるという言葉で、本人の拒否を踏み越える。
凪は黒板へ避難順を書いた。
歩けない人。
名前が薄い人。
子ども。
残る者。
「私は最後」
「リーダーだから?」
俺が聞く。
「通路を切れるから」
「他に切れる人は」
「二人教えた」
「なら三人で交代」
凪は一瞬不満そうにし、二人を呼んだ。
「兄に命令されたからじゃない。合理的だから」
「分かってる」
ミオは配信を開き、回収部隊の顔を映さないよう入口だけを撮る。
「救助対象本人が、拒否しています」
コメントは割れた。
《未成年なら大人が決めるべき》
《でも三年生き延びた》
《兄が洗脳してる》
《本人に話させて》
凪がカメラの前へ出る。
「私は十五歳。全部一人で決められる年齢じゃないのは分かってます」
自分から限界を認める。
「だから相談相手は欲しい。でも、結論だけ渡されるのは嫌です」
回収隊長が拡声器を下ろした。
「では、安全確認のため中へ入れてください」
「武器を置いて、二人だけ」
「承認します」
交渉が成立しかけた瞬間、カイトの声が全回線へ割り込んだ。
『交渉を中止。鳴海凪を世界安定鍵として回収する』
隊長自身が驚く。
「その命令は聞いていません」
『今、最終稿へ追加した』
彼の権限が、現場の選択を上書きする。
隊員の身体へ白い縄が現れた。
凪は笛を口へ当てる。
「今から逃げる。お兄ちゃん、助けに来る役はしないで」
「何をすればいい」
「一緒に走って」
笛が鳴った。




