第6話 さようなら、伯爵家
「第二王子がお見えです!」
家令の声に真っ先にルシアンが立ち上がる。落ち着かない様子の家令に、大慌てで詰め寄った。
「どういうことだ! なぜ突然、殿下が我が家にいらっしゃる!?」
「ぞ、存じません! ただ、ご主人様にお会いしたいとだけ仰られて……」
室内の全員がそれぞれに呆然とする中、真っ先に我に返ったのはリリーベルだった。ソファから立ち上がると、顔を輝かせて両手を合わせる。
「ねえ、お父様! 第二王子殿下って、まだ婚約者がいらっしゃらなかったわよね? もしかして、私が夜会で見染められたのではないかしら!」
「まあ、きっとそうだわ! リリーベルは誰よりも可愛らしいもの。殿下の目に留まったとしてもおかしくはないわ」
イザベラがリリーベルと笑い合う中、エドアルドは不快そうな表情をしている。
リリーベルとは恋仲のはずだ。いくらエルゼに知られてはならないとはいえ、こうも素直に喜ばれては複雑なのだろう。
「だが、確か殿下は夜会には参加していなかったはずだ。警備の数が足りないとかで、騎士団の仕事の方を優先されたとか……」
首を傾げるエドアルドに、リリーベルが弾んだ声で言った。
「それでも、会場内にはいらっしゃったでしょう? どこかで私を見つけたに違いないわ!」
(……まさか)
一つ、エルゼの胸に小さな光が点る。
グリュツィン王国の第二王子は変わり者との噂だ。
第二王子としての公務は最低限。
剣術と魔術の扱いに優れ、そのカリスマ性を持って数百人と言われるグリュツィン王国第二騎士団――別名、魔術騎士団を率いる騎士団長。
思考を巡らすエルゼの耳に、玄関の方から規則正しい靴音が響いてくる。隣に座っていたマティアスがすっと立ち上がり、左胸に片手を当て、軽く頭を下げる。
エルゼもそれに倣い、その場に立ち上がる。深く頭を下げ、ドレスの裾を持ち上げた。
「こ、こちらです」
震える侍女の細い声。エルゼの聞き覚えのある声がそれに応じた。
「案内、ご苦労」
落ち着いた、深く艶やかな、低い声。
……ああ、何故気づかなかったのだろう。
魔力を持つ者は、属性の色を目や髪に纏う。
火の属性を持つリリーベルやルシアンは、オレンジや赤の色。
地の属性を持つエドアルドやイザベラは、茶や緑の色。
そして、金や銀の色彩を持つ者は限られている。
このグリュツィン王国の――王族だ。
「礼は必要ない。顔を上げてくれ、エーレン調停員。そして――オルテンシア伯爵令嬢、エルゼ殿」
促され、マティアスとエルゼは身を起こす。
そこにいたのは、間違いなく、夜会の日エルゼと約束を交わした、あの騎士だ。
長い銀の前髪の間から、強い藍色の瞳がまっすぐにエルゼを見つめた。
「遅くなって申し訳ない。……詰所で、面会ができなかったことも含めて。ちょっとした手違いがあってね」
堂々と室内に踏み入り、あの時の騎士――エルゼに歩み寄ったレンヴェルトが軽く頭を下げる。
王族に頭を下げさせてしまった。その事実にエルゼの血の気が引く。
「はい、あの、いえ。レンヴェルト第二王子殿下……レン様が、ですか?」
「ああ。……あの日の約束を、果たしに来た」
にこりと笑い、レンヴェルトはエルゼの隣に立ち、ルシアンたちに対峙する。状況が分かっていないリリーベルが、飛びつかんばかりにレンヴェルトの腕に手を伸ばした。
「初めましてぇ、レンヴェルト殿下! 私がオルテンシア伯爵家のリリーベルですわ」
「私に触れるな」
リリーベルの指先が触れる前に、レンヴェルトは一歩下がり、腰に帯びた剣に手をかける。冷ややかな眼差しでリリーベルを見据えた。
「断りもなく王族に触れようとするな。不敬罪で、斬るぞ」
「なっ……!」
「リリィ、こちらに! 座りなさい!」
慌てたルシアンがリリーベルの腕を掴み、自分の傍に引き戻す。突然の王族の来訪の理由が分からないまま、戸惑ったり、拗ねたりしたオルテンシア伯爵家の面々とエドアルドがソファに腰を下ろす。
王族を立たせたまま先に腰掛ける常識のなさに、エルゼは思わず額を押さえた。
「……エルゼ嬢」
隣で立ったままのマティアスが、潜めた声でエルゼを呼んだ。
「もしかして、殿下ですか? 不貞の証言をしてくれるというのは」
視線は動かさないまま、エルゼにしか聞こえない声でマティアスが尋ねてくる。小さく息をついて、エルゼは頷いた。
「……はい」
調停の依頼をした際、マティアスには不貞を目撃した人物はもう一人おり、証言が得られる予定だと伝えていたのだ。
「それは僥倖」
マティアスが目元を和らげる。
瞬きのうちに感情を消し去り、ルシアンたちに向き直る。目線でレンヴェルトの了承を得、エルゼとレンヴェルトに座るよう促した後、自分もソファに腰掛けた。
「エルゼ嬢の待ち人が来たようです。調停を続けましょう。……再度確認いたしますが、ネルケ侯爵令息、リリーベル嬢。お二人の間に、本当に不貞の事実はなかったのですね?」
「はい」
「ありませんわ」
エドアルドが頷き、リリーベルが笑う。リリーベルの視線は、ずっとレンヴェルトに注がれたままだ。
そのリリーベルの熱い視線を気にすることなく、ソファに深く腰掛けたレンヴェルトが、両腕を組んだ。
「それはおかしいな。先日の夜会の際、私は貴公らが裏庭で密会している場面をこの目で見たのだが」
エドアルドとリリーベルが、それぞれ声にならない声を上げる。リリーベルが血相を変えて立ち上がった。
「……で、でたらめだわ!」
「ほう」
ソファに背を沈めたレンヴェルトが、冷えた眼差しでリリーベルを見つめる。
「王族の発言に異を唱えるとは、随分豪胆な令嬢だ。……では、聞こう。私の証言がでたらめだと言い切れる、その根拠は?」
「そ、それは」
目元に指先を当て、レンヴェルトは不敵に笑う。
「先に言っておくが、こちらは魔獣との戦いを日常にしている。視力には問題がないし、王族の端くれとして、配下の貴族の顔と名前を間違えるはずもない。あの夜、裏庭で抱擁し、口付けを交わし、このエルゼ・オルテンシア伯爵令嬢のことを悪し様に貶していたのは、確かにこの二人だった」
目の前の四人の顔色が、見る間に青ざめていく。
それを見つめながら、エルゼの身体から張りつめていた力が抜けた。
安堵なのか、歓喜なのか、何とも言えない感情に心が満たされていく。
ただ一つ分かるのは……とりあえず窮地を脱したということだ。
「エルゼ嬢」
マティアスが静かに声を上げる。皆の視線がマティアスに向けられた。
「エルゼ嬢はネルケ侯爵令息との婚約破棄を希望されていますね? この婚約が成立しないとなると、オルテンシア伯爵とザイデルバスト公爵令嬢との神殿契約の項目にも抵触します」
レンヴェルトに恐縮し、俯いていたルシアンとイザベラがはっと顔を上げる。マティアスはまっすぐにエルゼを見つめた。
「『瑕疵がない貴族との婚約』……ネルケ侯爵令息の不貞が間違いないのであれば、この条件が守られていないということになります。エルゼ嬢はこのままオルテンシア伯爵家の娘として生きるか、それとも伯爵家から離籍するか、選択できるということになりますが」
「ま、待て! 不貞が真実だとしても、一時の気の迷いということもある! この娘の一存で、婚約の破棄を決めさせるわけにはいかん!」
「そうよ、魔力なしの娘が嫁ぐのに良縁であることは間違いないのよ! 私たちはきちんと契約を果たしているわ!」
身を乗り出すようにしてオルテンシア夫妻が言い募る。
マティアスがちらりと視線をレンヴェルトに流すと、レンヴェルトは心得たように頷いた。
「では、その『瑕疵がない』という部分に否定材料を加えてやろう」
レンヴェルトは数枚の紙片を取り出し、目の前のテーブルに並べていく。
「これは……?」
「目を通すといい。……身に覚えがないとは言わせないぞ、ネルケ侯爵令息」
皆がそれぞれ紙片に書かれた内容に目を通し……それぞれが、息を飲んだ。
それは、賭博場の借用書だった。決して少なくはない金額を、数度に渡って借り入れた人物の名は……エドアルド・ネルケ。
「な、何でこれが、こんなところに……!」
「ネルケ家の名を担保に派手に遊び歩いていたようだな。何度も返済期日を反故にされて、取り立てに行くと家名をチラつかせて追い返される。それなのに来るたびに負けを重ね、借金だけが膨れ上がる。……賭博場の管理者が困り果てて第二騎士団に訴えてきたんだ。仲裁に入って、借金を返済させてくれってな」
「同様に、衣装屋や宝石店からも神殿に調停の申請が来ています。貴方はこう答えていたそうですね。……結婚すれば、金が手に入ると」
マティアスが補足する。
青ざめて冷や汗を浮かべるエドアルドが、テーブルの上の借用書をぐしゃりと握りつぶした。
リリーベルが呆然とエドアルドに視線を向ける。
「……ねえ、もしかして、あの夜会のドレスとアクセサリーって……」
「ああ、そうだよ。後からオルテンシア家に払ってもらうつもりだった」
夜会の時のドレスだろうか。確かに王都で人気の店のオーダーメイドだと言っていた。
「……そもそも! 僕にエルゼはふさわしくない! 魔力はないし、見た目は地味だし、何よりどこの誰の血が入っているのか分からない、醜聞令嬢の娘じゃないか!」
立ち上がったエドアルドが、エルゼを睨みつける。
「僕にふさわしいのはリリーベルの方なんだ。それなのに、貰い手のない役立たずな娘を引き受けてやろうとしたんだ。感謝して金くらい払うのが当然だろう!」
エルゼは、その言葉を冷静に受け止める。
「……それが、エドアルド様の本音なんですね」
確かにこれまで、エドアルドはエルゼを面と向かって非難することはなかった。オルテンシア伯爵家の人たちとは違い、当たり前の対応をしてくれていたし、初めて会った時には、この人と結婚すれば、もしかしたら幸せになれるのかもしれないと考えたこともある。
だが、どうしても心を開くことができなかったのは、どんなに取り繕われたとしても、根の部分で彼がエルゼを蔑んでいることが、普段の言動に滲み出ていたからなのだろう。
「私のことをどう思われていても、もう構いません。不貞と借金……エドアルド様の有責で婚約を破棄するのには、充分ですよね?」
エルゼの視線を受け、マティアスがしっかりと頷く。
慌てたのはオルテンシア夫妻だった。
「ま、待て、エルゼ。……まさか本気じゃないだろう? オルテンシアから離籍するなんて……」
「そうよ、離籍したならば貴女は平民になるのよ? 貴族令嬢が平民として生きていけるわけがないでしょう」
エルゼは冷めた視線を二人に向ける。
「不貞が立証出来たら離籍を認めるとおっしゃったのはオルテンシア伯爵です。そして、ご心配なく、イザベラ様。貴女とリリーベルのおかげで、平民の暮らしは充分に経験しております」
狭い部屋に追いやられ、侍女も付けずに屋敷中の雑務を『教育』の名の下に押し付けられた。『貴族令嬢としての生活を保障する』という神殿契約に抵触していた可能性があるが、今後必要になる知識かもしれないと、エルゼは敢えて受け入れていたのだ。
「エドアルド様も、本意ではない婚約を押し付けてしまったこと、申し訳なく思います。ですが、安心してください。私は今後一切貴方たちと関わるつもりはございません。リリーベルとお幸せになってください」
そこで、エルゼは一つ息をつく。
(散々馬鹿にされたんだもの。一言意趣返ししたって、許されるでしょう?)
「……私が離籍したら、オルテンシア伯爵家にはほとんど資金がなくなってしまいますけどね」
「……は?」
呆然と呟いたエドアルドから、表情が抜け落ちる。
領地経営をまともにしない、なのに浪費癖のあるオルテンシア伯爵家の財産はほぼないに等しい。むしろ、負債の方が多くなってしまうだろう。
それを何とか維持していたのが、エルゼの手腕と、教育費として母の実家・ザイデルバスト公爵家から支払われていた援助金だ。
エルゼのための援助金なので、当然エルゼが離籍すれば、伯爵家に払われることはなくなる。
「元々、エルゼ嬢が成人するまでの援助金ですからね。結婚が成らなければ、そのまま止められる収入です」
マティアスが補足する。彼はルシアンとアメリアが神殿契約を結んだ時の立会人でもある。二人が交わした神殿契約を熟知していた。
「ああ、エルゼ。お前の言葉を信じずに済まなかった。これからは、もっとお前を大事にすると約束しよう。だから……」
「ぼ、僕が悪かった。さっきの言葉も決して本心じゃない。混乱していたんだ、分かるだろう?」
ようやく、自分たちが何を失おうとしているのかに気が付いたのだろう。ルシアンとエドアルドが、弱々しくエルゼに訴えかけてくる。
あの夜、希望を与えられた時から、この日を想像していた。
どんな言葉で、どんな顔で、仮の両親、妹、婚約者を切り捨てようかと。
母を失った日から、この屋敷で幸せを感じることはなくなった。
愛想がないと揶揄されても、楽しくもないのに笑うことは出来なくて。
いつしかエルゼは笑わなくなった。
だから、ずっと決めていた。
「エルゼ・オルテンシア伯爵令嬢。神殿契約に則り、貴女が成人を迎える『本日』、ルシアン・オルテンシア伯爵が結んだエドアルド・ネルケ侯爵令息との婚約を破棄し、オルテンシア伯爵家から離籍するということでよろしいでしょうか」
マティアスの言葉に、エルゼは両目を閉じる。
口角を上げる。開いた目じりが、柔らかく綻ぶ。
――この言葉は、満面の笑みで告げてやるのだと。
「私、エルゼ・オルテンシアは、エドアルド・ネルケ様との婚約を破棄し、オルテンシア伯爵家から離籍いたします」
それは、母であるアメリア・ザイデルバストが醜聞令嬢と呼ばれるようになる前。
『社交界の薔薇』と呼ばれていた頃の笑みにそっくりな、艶やかな笑顔だった。
エルゼはこの日、エルゼ・オルテンシアではなくなった。
ただの『エルゼ』となり――自分自身の人生を取り戻したのである。




