エピローグ
呆然自失のオルテンシア伯爵たちに、婚約破棄の申請書と離籍許可証にサインをさせたマティアスは、手際よく慰謝料の額も取り決め、エドアルドにもサインを促した。
条件として、「ネルケ侯爵家に借金のことを報告しない」としているが、王宮警備の第一騎士団――近衛騎士団に所属しているとはいえ、役職に就いていないエドアルドが借金と婚約破棄による慰謝料を払うためには、結局はネルケ家からの援助が必要となるだろう。
「公式に調停員を立ち会わせた契約は、神殿契約となりますからね。取り損ねることはありませんのでご安心ください」
神殿契約は、契約者の魔力を登録して行う。契約から逸脱した行いをすれば、大なり小なり、何らかの罰が与えられることになるのだ。慰謝料を払う、と契約してしまった以上、エドアルドの支払いが滞れば、何かしらの罰がエドアルドにも与えられることになる。
「だが、契約がなくなったということは、オルテンシア家はエルゼ嬢と完全に無関係になったということだろう? 報復される危険性はないのか?」
「契約は、ルシアン・オルテンシア伯爵とアメリア・ザイデルバスト公爵令嬢で交わされたものですから、契約そのものは生きています。契約者全員の立会いの下でなければ、契約の破棄も変更もできませんからね」
レンヴェルトの疑問に、マティアスは淡々と答える。
そう、オルテンシア伯爵だけは今後もアメリアとの契約に縛られる。『エルゼの生命を保障する』という項目があるため、エルゼに危害を加えることは出来ないのだ。
そして、契約者の一人であるアメリアは既に鬼籍に入っている。これでは契約を破棄することも変更することもできない。
「本当の意味でエルゼ嬢を尊重していれば、契約があろうがなかろうが問題はなかったはずなんですよ。契約の意味を深く考えることなく、甘い汁だけを吸おうとした報いです」
「相変わらず、厳しい御仁だ」
「相手が貴族であろうがなかろうが、公平に物事を見るよう努めてます。調停者として必要な資質ですからね」
「……あの」
目の前を歩く二人に、背後からエルゼが恐る恐る声をかける。
二人が足を止め、エルゼを振り返った。
「もしかして、お二人は元々お知り合いだったのでしょうか」
大した持ち物もなかったエルゼは、母の形見といくつかの私物をまとめてすぐにオルテンシア家を後にした。マティアスとレンヴェルトは荷造りを待ってくれて、こうしてエルゼに付き添ってくれている。その二人の会話が、初対面同士のものではないようにエルゼには思えた。
そもそも思い返せば、レンヴェルトは名乗りを上げていないマティアスの家名と役職とを初めから口にしていたのだ。
「ああ、第二騎士団は王都内のもめ事に介入することがしょっちゅうだからな。特に貴族が絡んだ案件には、エーレンが出てくることが多いから、よく会うんだ」
「私は実家が伯爵家ですからね。調停員は下位貴族が多いですし、平民もいます。高位貴族が絡む案件だと、ある程度の後ろ盾がないと対応しづらいんですよ」
なるほど、とエルゼは頷く。
母の契約に立ち会ってくれた縁で、マティアスのことは以前から見知ってはいたのだが、深く関わる機会がなかった。エルゼの状況を説明しても、特にどちらに思い入れることもなく冷静に対応してくれていたが、それはエルゼが『黒』の色を纏っていても、他の依頼者と変わりなく扱ってくれていたということだ。
「今後、エルゼ嬢はどうなさるおつもりですか? エルゼ嬢自身は契約の範囲内から外れましたので、お母上のご実家のザイデルバスト公爵家に頼るという手もありますが……」
「いえ」
片手を上げて、エルゼは否定する。
エルゼを身ごもった後、アメリアは公爵家に頼ることはなく、自分自身で契約結婚の相手を探し、オルテンシア家に嫁いだ。自分の選択のために、実家に汚名を着せたくなかったのだと生前のアメリアは言っていた。ならば、エルゼも今更公爵家に頼るべきではない。
「幸い、侍女の仕事もできますし、家庭教師ができるくらいの教養は身に着けているつもりです。しばらく宿屋暮らしをして、仕事を見つけて一人で生きていこうと思っています」
母の形見の中に、何かあれば使うようにと残された宝石類もある。何とかイザベラやリリーベルの目をかいくぐり、守り抜いたものだ。売っても高額な値はつかないだろうが、宿屋の格を選ばなければ、数週間は泊まれる額になるだろう。
「働く気なのか、エルゼ嬢」
少し驚いたようにレンヴェルトが尋ねる。エルゼは苦笑した。
「平民ですから。働かなければ生活ができません」
レンヴェルトはにやりと笑う。
「それは好都合だ。……エルゼ嬢、よければ我が第二騎士団で働かないか?」
「え!」
思わず声を上げる。
「私が、ですか。どうして……」
「一度騎士団の詰所に来ただろう? そこで団員が落とした書類をまとめ、文字が読めない団員でも可能な書類の分別方法を助言した。……君だな?」
レンヴェルトの言うことには、確かに心当たりがあった。成す術もなく拒絶された苦い思いと共に、記憶に残っている。
「ええ、私です」
こくりと頷く。レンヴェルトも頷き返した。
「第二騎士団は実力さえあれば身分に関係なく受け入れるが、その分、文字が読めないものも多い。それなのに必要な書類仕事は多岐に渡る。それらを効率的に、確実に進められる……そういう人材が欲しいんだ」
「ですが、私は大したことはしておりません。分別方法だって、誰だって思いつく程度の簡単なものです」
「だが、団員たちは君が指摘するまで、誰一人として気づかなかった。皆、書類を捌く側の能力を上げなければいけないと思い込んでいた。――書類自体を変えるという考えがなかったんだ」
「でも」
戸惑うエルゼに、マティアスが苦笑交じりに言った。
「殿下がこうまで熱心に勧誘されるのです。今後の予定がないのであれば、受けて差し上げたらどうですか? エルゼ嬢」
「エーレン様」
「今は自信がないのであれば、しばらくお試しで働いてみればよろしいのでは。心配なさらなくても、貴女が自信を持って働けると思えるまで、殿下が衣食住を保障してくださいますよ。……あの二人の不貞を証言するという約束を、反故にしかけたお詫びも兼ねて」
エルゼは反射的に上がりかけた声を飲み込む。
知らなかったとはいえ、王族に不貞の証言を頼もうとしていたとは……。
「ああ、その詫びも必要だったな。団員の宿舎には空きがあるし、もちろん騎士団で働くのが肌に合わないと思ったら、次の働き口も用意する。……どうだろうか?」
「いえ、あの……」
第二王子に働き口を斡旋してもらうなど前代未聞だが、確かに当面でも働ける場所があれば助かるし、エルゼが何気なく行ったことが評価されているのだ。もしかしたら自分が知ることで役立てることがあるのかもしれない。――何より。
(殿下が指揮をとられているのだもの。きっと、悪いところではないはず)
エルゼという人間がどうであれ、エルゼに正しさがあると知って、躊躇なく手を差し伸べてくれた。そんな誠実なレンヴェルトが治める場が、悪い場所であるはずがない。
「では……よろしくお願いいたします」
微笑んで頭を下げると、レンヴェルトが顔を輝かせる。
「こちらこそ!」
曇りのない満面の笑みで、レンヴェルトは躊躇なく片手を差し出した。
驚いたエルゼが、咄嗟にマティアスを見る。エルゼの戸惑いを正確に読み取って、マティアスは苦笑交じりに軽く頷いた。
おずおずと手を伸ばし、差し出された大きな手に触れる。
レンヴェルトの方からエルゼの手を握り、上下に振った。
「第二騎士団へようこそ、エルゼ嬢」
夕陽を背に、明るく笑うレンヴェルトの姿が。
とても眩しく、尊いもののように、エルゼには思えた。
「これで、第二騎士団からの提出書類が、不備の一切ない、差戻が必要のないものばかりになればいいんですけどねぇ」
「エーレンがエルゼ嬢を推したのはそのためか……」
二人の会話を聞きながら、懸命にエルゼは後をついていく。
オルテンシア家との縁を切り、全く新しい場所へ踏み出す。
不安がないわけじゃない。
これから何が起こるのか、自分はどうやって生きていくのか。
先は全く見えない。
それなのに、足元が軽い。心が浮き立つ。
……ああ、これが自由なんだ。
本当に、自由になったんだ。
夕焼けに染まるオレンジ色の空を見上げながら。
唐突に、エルゼはそのことが腑に落ちたのだった。




