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第3話 婚約破棄を望みます

 帰りの馬車は行きと同じような静寂に包まれていた。

 違うのは、エドアルドが視界に入るたびに先程の義妹との密会のことを思い出し、何とも言えない不快感が湧いてきたことだ。

 表情は動かさないようにしていたが、それでもわずかな不機嫌さが伝わったのか、エドアルドが何度か「具合でも悪いのか」「夜会は楽しくなかったのか」と尋ねてきたので、エルゼは短い返事をしてそれをやり過ごした。

 エルゼのことを気にしているように見えても、それ以上エドアルドは追求してこなかったし、労うような言葉もない。

 今まではあまり気にしたことがなかったが、あの騎士とやり取りをした後では、いかに彼がエルゼに興味がないのかがよく伝わった。

(私だって、興味なんてない)

 ネルケ侯爵家の三男。見目麗しく、近衛騎士団に所属。社交界の評判も悪くはない。

 表向きには、非の打ちどころがない人物だが、エルゼは彼が持つ裏の顔を知っていた。

(外から見れば、『魔力なしの黒』には過ぎた縁談に見えるんでしょうけど)

 そもそもオルテンシア伯爵が、エルゼに有益な縁談など持ってくるはずがない。


 誰もいない暗い廊下を規則正しく進む。こつん、と重厚な扉の前で靴音を止めた。

 エルゼは正面に立ち、ドアをノックした。しばらく待ってみるが、返答はない。

 もう一度、少し強めにノックした。

「……入れ」

 くぐもった、不機嫌そうな声がようやく答えた。「失礼します」とドアを開け、中に踏み込み――充満する酒の匂いに、エルゼは微かに目を細めた。

「……お前か」

 ソファにだらしなく座っているのは、この屋敷の主人――ルシアン・オルテンシアだ。

 ちらりとエルゼを認めて面倒そうに息を吐く。

 テーブルの上に転がった空いた酒瓶はそれなりに値が張るもののはずで、散財する人物がここにもいる、と家計をやりくりする立場としては頭が痛いことこの上ない。

「あまりお酒が過ぎますと、明日の仕事に差し支えます」

「うるさいな。お前にあれこれ指図される覚えはない」

 エルゼはこっそり息をつく。こちらだって、言っても無駄なことは分かっている。しかも、この男は書類仕事が大の苦手で、すべてエルゼに押し付けている。仕事らしい仕事はしていないのだ。

(それでも何とか帳尻を合わせてぎりぎりのところで持たせている家計を、こうも無駄に扱われると、嫌味の一つでも言いたくなるのよね)

 嫌味として正しく捉えられているのかどうかは分からないが。

「で、こんな遅くに何の用だ? ……金が足りないなどの苦情は聞かんぞ。お前が援助金の増額を『あの家』に頼んでくれば済む話だからな」

 戸籍上の父親、義母、義妹……オルテンシア伯爵家の面々はとにかく金遣いが荒く、彼らの浪費がしばしば家計を圧迫する。そのたびに、伯爵はこの言葉を口にする。

 契約の項目の中に、『エルゼをオルテンシア伯爵家に受け入れる代わりに、エルゼの生活費は実母の生家である、ザイデルバスト公爵家が負担する』というものがあるからだ。

 エルゼが生活費が足りないと公爵家に訴えれば、おそらく契約の名のもとにもっと高額な援助金が支払われる。

 そのため、オルテンシア伯爵家はエルゼには最低限のものしか与えず、公爵家からもっと援助金を引き出そうとしていた。だがエルゼは実母の生家に今以上の負担をさせる気はない。もし、エルゼが訴えてみても自分の生活水準が向上するわけではなく、オルテンシア伯爵家の散財が悪化するだけだということが分かっているからだ。

「お金の話ではありません。……エドアルド様との婚約を、破棄したいのですが」

 淡々とエルゼが告げると、何を言われたのか分からなかったのか、ルシアンはぽかんと呆けた顔をする。構わずに、エルゼは続けた。

「エドアルド様は、私よりもリリーベルの方が好ましいようです。私にとっても、この婚約は愛するお二人を引き裂いてまで続けたいものではありません。喜んで破棄させていただきます。ただ、こちらの意志がどうであれ、これは貴族間の契約です。それを破った責任は、きちんと取ってもらいたいと思っています」

「待て!……待て、待て……!」

 ルシアンは片手を上げてエルゼの言葉を制する。もう片方の手で眉間を押さえながら、身を起こした。

「急になんだ! エドアルド殿とリリィがどうしただと?」

「本日の夜会で。裏庭の人気のない場所で。二人きりで密会されておられましたが」

「うるさい! お前の言い分のみを聞く気はない!」

 自分から聞いたのではなかったか――エルゼは溜息をつく。

 ルシアンは、テーブルの上のベルを乱暴に鳴らす。すぐに慌てた様子の家令がやってきた。

「何か御用でしょうか、旦那様」

「リリィを連れてきてくれ。こいつが可笑しなことを言い出した」

 家令は一礼して部屋を出ていく。しばらくして、もう寝支度を整えていたリリーベルが、専属侍女を従え不機嫌そうに部屋に入ってきた。

「ねぇ、何なのお父様。夜会の後だから疲れてるのにぃ」

「ああ、リリィ。疲れているのに呼び出してごめんよ。……こいつが可笑しなことを言い出したんだ。……お前とエドアルド殿が今日の夜会で密会していたと」

 エルゼが静かに様子を伺っていると、驚いたように目を見開いたリリーベルがほんの一瞬、頬をひきつらせたのが分かった。

「……そんなわけがないじゃない。急に何を言い出すのよ、お義姉さま」

「裏庭で二人で仲良くしているのを見たもので。ええと、何でしたっけ。ドレスはエドアルド様からの贈り物で、本当は装飾もエドアルド様の色に合わせたかったんでしたっけ」

 ひく、とリリーベルが喉を鳴らす。

「私はお金をかけても所詮『黒』だから、飾りがいがないそうで。でも、金の生る木でいてもらわないと困るんでしたっけね?……随分と都合のいいことをおっしゃられるなと思ったので、よく覚えています」

「で……でたらめだわ!」

 リリーベルが大声を上げる。エルゼはただその姿を見返した。

「私は別にエドアルド様をどうとも思っていません。リリーベルと彼が想い合っているのであれば、喜んで婚約は破棄するつもりです。ただ、その際には貴族間の契約を蔑ろにした責任はきちんと取ってもらいたいと思っていますし、そもそもこの婚約が成立しなければ、私はオルテンシア伯爵家から離籍できますよね」

「なっ……!」

 ルシアンとリリーベルは絶句する。

 これまでのエルゼは従順だった。

 魔力がないことや、エルゼの置かれた特殊な事情から、家族や使用人からの嫌味や暴言は当たり前、生活水準や教育は貴族令嬢としては最低限のものであったし、ひどい暴力そのものは受けなかったが、しつけと称して鞭で打たれたり体罰を受けることはあった。

 15歳を過ぎたころからはルシアンの仕事を押し付けられ、義母や義妹に言付けられて下女の真似事をさせられることもあった。それでもエルゼが折れずに何とか生きてこられたのは、あの夢の中の世界に生きた自分を知っているからだった。

 あの世界では、すべてを諦めてしまうほど辛かった。

 それに比べれば――まだ耐えられる。

「ねえ、ちょっと待ってよ! 私がエドアルド様と不貞してた証拠でもあるっていうの!?」

「そ、そうだ! 二人が不貞をしていたというのは、お前の言い分でしかないだろう!」

「確かに、裏庭でエドアルド様にお会いしたことは認めるわ! でも、外の空気を吸いに行って、偶然お会いしただけ。少し世間話をしただけよ。将来お義兄様になる方ですもの。それくらいは当然でしょう?」

(やはり――)

 予想通りの反論に、エルゼは目を閉じる。

 言いながら自信が出てきたのか、リリーベルの言動には余裕が生まれてきた。笑みを浮かべ、いつもの甘ったるい口調に戻る。落ち着いた視線が、エルゼを見つめた。

「エドアルド様だってそうおっしゃると思うわよ。お義姉さまのために、義妹と仲良くしようとしていたんだって。不貞を疑われたと知ったら、エドアルド様が悲しまれるわぁ」

「せっかく高位貴族との縁談を調えてやったというのに、お前は何が不満なのだ! 魔力なしの上に、父親がどこの誰とも分からん、醜聞にまみれたお前には、過ぎた相手だと分からんのか!」

 ルシアンの言葉に、ふとエルゼが目を開く。

 冷ややかな眼差しで、ひたとルシアンを見据えた。

 ルシアンは蔑むように鼻で笑う。

「そもそも、父親の分からない子を身ごもった『醜聞令嬢』を引き取ってやった私に、もっと感謝すべきだろう! 公爵家から金を引っ張ってくるくらいしか能がないくせに、生意気なことを言うな!」

 エルゼの表情は変わらない。ただ、怒りで震える両手を、爪が食い込むほど固く握りしめた。

 一瞬静まり返った部屋で、ぽつりとエルゼが呟く。

「……十日後」

 二人がエルゼの方を見た。

「私が成人する日に、調停を依頼します。その時に、私の言ったことが真実だと分かれば……婚約を破棄し、慰謝料を支払い――オルテンシア伯爵家から、離籍させていただけますね?」

 冷えた目で、まっすぐに二人を見つめ返すエルゼに、ルシアンは笑った。

「いいぞ。……不貞が証明できれば、な」

「失礼いたします」

 綺麗なカーテシーを見せ、背筋を伸ばしたエルゼは、ルシアンの部屋を後にする。ドアを閉めた向こう側で、ルシアンたちが何事かを言い、笑い合う声が聞こえてきたが、気にしなかった。


 証人は、いる。

 彼に――あの騎士に、会いに行く。

 二人の不貞を証明する。そして――


 自由になるために。

 必ず、この家を捨ててみせる。


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