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第2話 裏庭の密会

「……オルテンシア嬢?」


 重ねて尋ねられ、エルゼははっと我に返る。

 ガゼボに視線を向けて、咄嗟に騎士の腕を掴んだ。

「こっちに!」

 潜めた声で告げ、騎士の腕をひいて物陰に隠れる。いきなりのことだったからか、騎士は微かに目を見張ったが、エルゼはそれに気づかなかった。

 ガゼボまでは距離があるが、静寂に満たされているためか、あちらの会話はきちんと聞こえてきた。


「……エド? どうしたの?」

「いや、話し声が聞こえた気がしたんだが……気のせいだったようだ」

「夜会は盛り上がっている時間だもの。わざわざこんなところに来る人なんていないわよ。……私たちみたいに、こっそり二人きりになりたい、秘密の恋人同士でない限り、ね」

 ふふ、と婚約者――エドアルドの腕に抱かれた女が笑う。あの耳障りな甘ったるい口調。聞き間違えるはずがない。

 義妹、リリーベル。


「ねえ、それよりもよく見て。このドレス。貴方が贈ってくれたものよ。似合っているでしょう?」

「ああ、よく似合う。『あの女』は金をかけてやっても所詮『黒』だからな。それに比べて、君は飾りがいがある。――綺麗だよ、リリィ」


(……そういうことか)

 すべてが腑に落ちた。

 エドアルドに女性の影があることは、何となく気が付いていた。

 政略結婚なのだから、ある程度は許容することも仕方ないと思っていた。だが。

 強く、両手を握りしめる。

(よりにもよって……あの子なんだ)


「このドレス、お義姉さまに見せつけてやったのよ。本当はエドからの贈り物なんだって教えて、あのすました顔が歪むのを見たかったんだけど。……宝石だって、ちゃんと貴方の瞳の色に合わせたものを身につけたかったのに……」

 拗ねたように唇を尖らせたリリーベルが、ぎゅっとエドアルドに抱き着いた。それを受け入れて抱きしめ返すエドアルドが、宥めるようにリリーベルの背中を撫でた。

「エルゼとの婚約を解消するわけにはいかないからね。僕がオルテンシアを継いでしまえば、どうにでもなる。もう少しの辛抱だよ」

 そんなエドアルドを見上げ、リリーベルは楽しそうに笑った。

「そうねぇ。他に何の役にも立たないんだから、せめてお義姉さまには、これからも私たちの金の生る木でいてもらわないと」

 笑い合う二人を遠目に見つめながら、エルゼの胸に何とも言えない不快感が沸き上がってくる。



(どこまで人を馬鹿にするんだろう)

 確かにオルテンシア伯爵家にとって、エルゼの存在は異端だ。

 家族の中で唯一血の繋がりがない長女。黒色を纏って産まれ、魔力を持たず、貴族社会から弾かれる。


「……幸せ」

 エドアルドの腕の中で、リリーベルが微かに呟く声。遠く微かな声のはずなのに、何故かはっきりとエルゼの耳に届く。


(あの人たちは、私を踏みつけて幸せを謳歌しているのに、何故私は幸せじゃないんだろう)

 オルテンシア伯爵家の当主とエルゼの母との間には、遠い昔に結ばれた契約がある。

 それは、病弱だった母がいなくなってもエルゼが不幸にならないよう、エルザを守るために母が準備した契約だ。

 互いに不利益がないように、オルテンシア伯爵も条件を理解した上で結んだ、対等の契約であるはずだ。

 それなのに父と呼ばれる人は、いつも契約を嘆いている。

 契約がもたらす利を余すことなく搾取しながら、自由にならない、利が足りないと不満を言う。

 そして、その不満をエルザにぶつけるのだ。

 ……本当は、エルザにだって、その契約は必要ないものなのに。


 記憶の中に遺っている、大切な声。

(私のせいで、ごめんなさいね。エル)

(幸せになってね)

 細い指で、優しい声で。

 躊躇わずに漆黒の髪を撫でてくれた、暖かな掌。

 繰り返し聞かされた、母の願い。


 幸せになるということが、分からなかった。

 だから、母が遺してくれたものに縋った。

 エルザを守るための契約――今では唯一、母との繋がりを残すものだ。

(契約なんていらない)

(だけど契約を守ることで、最低限守られているものはあった)

(そこから自由になるために、何かをしたことが、そもそも私にあっただろうか)

 仕方のないことだと諦めていた。

 魔力がないから。

 血の繋がりがないから。

 ――契約があるから。

 理由を見つけて、動き出すことから逃げていた。

 本来はエルゼを守るはずのものが、いつのまにか自分を縛り付けるものに変わってしまってからも。

 変化しなければ、エルゼ自身も確かに安寧の上に立つことができていたから。

 ――そこに、自分の心の平穏はなかったとしても。



(もう、諦めるのはやめよう)

(――ちゃんと、幸せになるんだ)

 ――そうだ。本当はエルゼだって知っている。

 『あの世界』でも、今、生きている世界でも。

 エルゼは何も持っていなかった。

 けれど、母に愛されていた日々は、短くとも確かに『幸せ』だった。

(まずは、『自由』になろう)

 今ではもう、エルゼにとって不利益しかもたらさない、このいびつな契約から。

 目を閉じて、開く。

 ――するべきことは、決まった。


 ガゼボの二人の会話を聞いて、諫めるためにか、傍らから動き出そうとした腕を、エルゼは咄嗟に引き留めた。

「……オルテンシア嬢」

 不快感を滲ませつつエルゼを見下ろした騎士に、エルゼは首を横に振る。

「どういう理由があれ、ネルケ侯爵令息は貴女の婚約者だろう。不貞を追求して、きちんと責任を取らせるべきだ」

 まっすぐな騎士の言葉に、ほんの少し喜びを感じながら、エルゼは繰り返し首を横に振った。

「……ここからあの場所まで、距離があります。あちらに気づかれずに近づくのは不可能です。二人が離れてしまえば、偶然で済まされてしまう」

「偶然なわけがない。こんな人気のない場所で、二人きりだなんて」

 眉間に皺を寄せる騎士に、エルゼは軽く息をついた。

「……義妹なので」

「……は?」

「あの女性の方。あれ、私の義妹なんです。将来の義兄と義妹が偶然ガゼボで会って、話していた。……言い逃れができる状況です」

 騎士は再度ガゼボに視線を向ける。エルゼの言ったことが真実だと分かったのだろう。「……成程」と力を抜いた。

「リリーベル・オルテンシア……伯爵家次女か。元々あまりいい噂を聞かないが、まさか義姉の婚約者と不貞を犯すとはな」

 エルゼは微かに唇の端をゆがめ、苦笑する。

 我儘に育った義妹は、高位貴族のマナーを知らない。教えるための教師はついていたが、授業からしょっちゅう逃げ出していた。

 外面はいい義妹なので、デビュタント前から令嬢たちのお茶会の誘いは届いていた。そこでエルゼの無能さについて、いつも悪評を広めている。

 だが、義妹自身の不作法を知る人も、きちんといるということだ。

「義妹であれば余計に咎めなくていいのか?……ネルケ侯爵子息も子息だ。義妹の方に心があるのならば、さっさと婚約を解消してから婚約を結びなおせば済むものを」

 そのとおりですね、と心の中でエルゼは頷く。

 単なる政略結婚なのであれば、表向きは同じ伯爵家の姉妹……どちらでも問題がないと考えるだろう。

「……それには事情がありまして。ネルケ侯爵子息の相手は、私でなければならないのです。本人は不貞を認めないと思いますので、今のままでは婚約解消には至らないと思います」

 本来なら、今ここでエドアルドとリリーベルに詰め寄り、不貞を明らかにして婚約を解消する場面だろう。

 だが、エドアルドはエルゼとの婚約を「解消してはいけない」し、「したくない」。

 そしてはっきりと不貞をしているという客観的証拠もない。ただ、エルゼが目撃をしただけだ。これでは婚約解消の書類にエドアルドが署名することは決してないだろう。

「ならば、許すのか?」

 気遣いを含む藍色の瞳が、エルゼを見つめる。

 エルゼはその目をまっすぐに見つめ返す。

「いいえ。完全な婚約破棄に持ち込みます」

 解消であれば、婚約関係がなくなるだけで、双方に不利益は生じない。

 だが、ここまで馬鹿にされたのだ、きちんとエドアルドの有責で慰謝料をもぎ取りたい。


 そして、エルゼにはもう一つ、なしえたいことがある。

 ――オルテンシア伯爵家との縁を切るのだ。


 エルゼを縛る契約には、期限がある。

 元はといえば、エルゼを守るための契約なのだ。

 母はきちんとエルゼに逃げ道を用意している。


 ――エルゼが成人の年齢を迎えるまでにオルテンシア伯爵家が用意した貴族との婚約が結ばれていなければ、自立することができる。

 そして、エルゼが成人を迎える十八歳の誕生日は、十日後に迫っていた。


 夜の闇に染まる裏庭に、微かに鐘の音が響いた。

 夜会の終わる合図だ。

 身を隠したまま様子を伺うと、ガゼボの二人が会場に戻る気配がする。

 まだエルゼに優しい婚約者の仮面を見せたままのエドアルドが、帰宅するためにエルゼを探しに来てしまう。


「騎士様」

 傍らの騎士を見上げる。深い藍色の瞳が、まっすぐにエルゼを見返した。

「私は、ネルケ公爵令息との婚約を破棄したいのです。だが、不貞を問いただしてみても、彼は認めないでしょう。……彼には、私との婚約が必要だから」

 詳しいことは分からないはずだが、騎士は鷹揚に頷く。

 仕草で続きを促され、エルゼは両手を胸元で握りしめた。

「正式な場で今日のことを説明しても、証拠がないと突っぱねられるでしょう。立会人に直接不貞の現場を見てもらえれば一番ですが、それは難しい」

「回りくどいな。何が言いたい?」

 腕を組み、首を傾ける騎士に、エルゼは静かに告げた。

「私はこれから立会人に依頼して、婚約破棄の話し合いの場を設けるつもりです。でも、私一人が不貞を訴えても、立証が難しい。証拠がないと言われれば、それまでです。――でも、それが二人分の証言ならば有益なものになるかもしれません」

 一度言葉を切り、エルゼは騎士を見上げる。

「婚約破棄の交渉の場で、貴方が今夜見たことを証言していただけないでしょうか」

「……私が、か?」

「ええ。二人の密会の場を実際に目にしたのは、私と騎士様だけですから」

 しばらく、無言で見つめ合う。

 エルゼの中の何かを見つけようと、逸らさずに騎士はエルゼを見つめ続ける。エルゼはその強い眼差しを、懸命に受け止め続けた。

 やがて、表情を緩めたのは、騎士の方だった。

「なるほど、合理的ではある。だが、今夜会ったばかりの『俺』に頼むのは、貴女に不利益を生むとは考えないか?」

 言うなればこれは『醜聞』だ。貴族社会に身を置く立場としては、身分もよく分からない人物に情報を委ねることで、足元をひっくり返される可能性を考えなければならない。

 試すように尋ねてくる騎士に、エルゼは首を横に振る。

「貴方は、「咎めないのか」と私の意志を尋ねてくださいました。魔力なしの「黒」持ちであれば、高位貴族に婚約をしてもらっただけでも贅沢……そう思われるのが当然なのに、です」

 騎士がわずかに目を見開く。

 エルゼは静かに告げた。

「私の立場がどうであれ、目の前で起こったことを起こったままに捉えてくださる方だとお見受けしました。貴方にご負担がなければ、ぜひ協力をお願いします」

 エルゼは深々と頭を下げる。

 口元に手の甲を当て、騎士はしばらく迷っていた。

 この騎士の協力が得られなければ、婚約破棄を勝ち取ることは難しくなる。エルゼは固唾を呑んで騎士の返答を待った。

「……分かった。協力しよう」

 顔を上げ、騎士がそう告げる。

 エルゼは身を起こし、ほっと安堵の息を吐いた。

「婚約破棄の手続きをするのはいつになる? 場所は?」

「詳細は立会人に依頼してから決めますが、おそらく十日後にオルテンシア伯爵家で行うことになると思います」

「では時間が決まったら、第二騎士団の詰所に連絡して欲しい。受付で「レン」と言ってもらえれば分かる。手紙では俺に届くまで時間がかかってしまうから、詰所に直接訪ねてきてもらえると助かるが」

「大丈夫だと思います。……レン様、ですね」

 騎士は家名を告げない。身のこなしから、高位貴族の出だろう。

 エルゼと深く関わる気はないのかもしれない。

 ――それで、よかった。

 エドアルドが迎えに来る。もう帰らなければならない。

 帰って、父であるオルテンシア伯爵に――婚約破棄を申し出る。

「よろしくお願いいたします」

 再び丁寧に頭を下げると、ふと片手を騎士の手に掬い上げられた。

 指先に触れない位置に、儀礼的に唇が落とされる。

「貴女の決意に、敬意を」


 生まれて初めて受ける、敬愛のキス。

 その敬意に、自分の決断を認めてもらえた気がした。


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