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第1話 黒を纏う令嬢

「お義姉さまぁ、準備は整いまして?」


 軽いノックと共に、聞き慣れた声が響く。

 鈴のように軽やかな声。なのに語尾に無駄な余韻を残す、耳障りな甘ったるい口調。

 反射的にエルゼの動きが止まった。

 無遠慮に扉を開いたのは、義妹であるリリーベル・オルテンシア。

 赤みがかった茶色の髪が、緩く波を描く。目じりは甘く垂れているのに、色味が強いオレンジの瞳。

 鮮やかな色彩は魔力が豊富な証――この世界で価値を持つ色だ。

 リリーベルは躊躇いなく部屋に踏み込み、陽の入らない狭い室内を見渡して露骨に顔をしかめた。

「相変わらず、辛気臭いお部屋ねぇ。……真っ黒なお義姉さまにぴったり」

 丁寧な口調に潜ませた棘。

 エルゼはわずかに眉を寄せるだけで、何も言わない。

「私の準備は終わっているわ。貴女は……」

 視線を向けて、エルゼは言葉を呑む。

 また、新しいドレスだ。

 目に鮮やかな紅。フリルとリボンを重ねた、リリーベルらしい可憐な意匠。だが、デコルテや腕などに露出が多く、デビュタントにふさわしいと言えない。

 エルゼは自分のドレスに視線を落とす。

 母の形見の白いドレス。流行には合っていないが、品のある落ち着いたデザインだ。

(私は、こちらの方がいい)

 本来なら、デビュタントには父や婚約者がドレスを用意するものだ。

 だが、エルゼにはどちらからも贈られることがなかった。――落胆はしない。

 そもそも、最初からあの人たちに期待なんてしていない。

(それにしても、どこからドレスの資金を出したんだろう)

 父ではない。父はエルゼに領地経営を丸投げしている。そのため、エルゼはオルテンシア家の財政状況を理解していた。

 これほどの豪奢なドレスを購入するには、家の資金を動かす必要がある。だが、予算が動いた形跡はない。他に考えられるのは婚約者からの贈り物という線だが、リリーベルにはまだ婚約者がいないのだ。

 不審からエルゼがじっとドレスを見つめていると、何を勘違いしたのか、リリーベルが満面の笑みで優雅にドレスの裾を翻した。

「素敵でしょう? 王都で有名なお店のオーダーメイドよ」

 更に自分の髪に触れ、豪奢な装飾品を見せつける。

 リリーベルが纏う紅の色彩に合わせた、ルビーを散りばめた髪飾り、同じ意匠で揃えたイヤリングやペンダント。

 反してエルゼの身を飾るのは、母の遺した白いリボンだけ。

「まあ、お義姉さまにはこの良さが分からないかもね。地味なドレスが似合いだもの。――よく、その格好で夜会に出ようだなんて思えるわね。私にはとても真似できないわぁ」

 私だって、貴女みたいに場違いで派手なドレスで人前に出る勇気なんてないし。

 ふと反論が浮かんだが、思うだけに留めておく。

「そのドレスを買う資金は、いったいどこから? オルテンシア家にそんな余裕は……」

 口をついて出た疑問に、リリーベルはふと表情を消した。

「ないのよねぇ。お義姉さまへの援助が少ないせいで」

 冷たく呟き、すぐに笑顔に戻る。

「でも大丈夫よ。私にドレスをプレゼントしてくれる殿方は、いくらでもいるんだから」

 リリーベルがくるりと背を向ける。

「それなのに、どうして私には婚約者がいないのかしら。魔力のない、無能なお義姉さまにですらいるっていうのに」

 吐き捨てた義妹が去っていく。

 閉じる扉を見つめながら、エルゼはほっと胸を撫で下ろす。

(よかった、あの程度で終わって)

 いつもならもっと長く、義妹の嫌味と愚痴が続くのだが、さすがに今夜は夜会が控えている。さすがの義妹も自分の鬱憤晴らしの時間よりも夜会を優先したのだろう。

(夢見も悪かったし、嫌な予感がしていたんだけど……)

 静寂の戻った狭い室内に小さく息をつき、濁った古い鏡を見つめる。

 化粧気の少ない、表情が抜け落ちた自分の顔が、映っている。

 うっすらと隈の残る無表情の奥に、慢性的な疲労と不安、ほんの少しの安堵が含まれることは、きっと自分自身以外には伝わらない。







 婚約者として最低限の義務は果たすつもりがあるのだろう。エドアルド・ネルケ侯爵令息は、侯爵家の紋が入った馬車でエルゼを迎えに来た。

 型通りの挨拶は交わしたが、馬車の中ではほとんど無言だった。

 一言だけ、「そのドレス、似合っているよ」と社交辞令を呟かれたが、質はいいものの、どう見たって流行から外れているドレスに対してそれを言うのは、むしろ高度の嫌味かな?とエルゼは内心しらけつつも、こちらも「ありがとうございます」と定型文の礼を述べるに留めた。

 そして、デビュタントの夜会は華やかに始まった。

 入場のエスコートを務めたエドアルドは、国王の口上が済むとすぐに、役目は終えたとばかりに「友人たちに挨拶を」とエルゼの手を離し、どこかへと去っていった。

 引き留める気はない。

 彼とダンスをしたいとは思わないし、貴族の子息子女が通う学園にも行ったことがないエルゼには、雑談するような友人もいない。

 ひとり壁際に身を寄せ、静かに果実水を口に運ぶ。

 懸命に気配を殺しているのに――方々から好奇の視線が容赦なく刺さる。

 一目でわかる漆黒の髪と瞳の『魔力なし』。

 魔力が豊富とされる貴族社会では異質な存在。

 しかも、実母の過去を知っている貴族も多いはずだ。

 悪い意味で注目されることは、仕方がないと分かってはいる。

 だが。

(居心地が悪いし、メインの行事も終わっているし……長居は無用だ)

 エドアルドもこれだけの好奇の視線を浴びるなら、確かに自分の隣には立ちたくないだろう。だからと言って、一人で帰るわけにもいかない。

 暇の意を告げようと、エドアルドを探すことにした。


 会場を見渡し、テラスへ。

 そこに姿を見つけることはできず、念のため休憩室にも足を運んだ。

 どこにもいない。


 エルゼは裏庭に向かう。

 季節の花が咲き誇る裏庭には、いたるところにランタンが吊るされている。

 ほのかで暖かな明かりが庭の風景を浮かび上がらせていた。

 奥のガゼボに視線を向けると、人影のようなものが見える。

 見間違いか、と数歩近づいてみると、その影は微かに動く。間違いなく誰かがいる。

 しかも――複数。

(……まさか)

 それは、どうやら男女の影のようだった。目を凝らすと男の横顔が灯りに照らされて浮かび、エルゼは思わず指先で額を押さえた。

(場所くらい選びなさいよ)

 男は、間違いなくエドアルドだった。

 心を通い合わせて結婚するわけではない。貴族なら当然の政略結婚で、エルゼたちも例外ではない。

 だが、政略結婚であるからこそ余計に、最低限の配慮はするべきなのではないか。

 誰にも見つからないように、気づかれないように。――それが礼儀というものではないか。

 こんな、いつ誰が外の空気を吸いに来てもおかしくない、裏庭で密会するなんて。

 更に女性の方を見て、エルゼは目を見張る。

 深い溜息とともにさらに頭を抱えた。


 その時――

 「私の見間違いでなければ、あそこにいるのは『貴女』の婚約者では?」

 突然、低くひそめた声が響いた。


 エルゼはびくりと肩を震わせる。

 ――気配を全く感じなかった。

 恐る恐る振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。


 さらりと風を受ける、美しい銀髪。深い藍色の瞳。

 程よく筋肉が付き均整のとれた身体を押し込んだ黒地の衣装。

 夜会に溶け込むよう、軍服ではなく儀礼服を身に着けている。腰には剣を帯びているから、おそらくは警備に就いている騎士だろう。

 深い夜の空に似た瞳が、まっすぐにエルゼを射抜いた。


「違いますか? エルゼ・オルテンシア伯爵令嬢」

 

 凛と響く声に、エルゼは思わず息を呑んだ。


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