女王さまのカチコミバイク
前書き
ええ、聞いての通りよ。
歴史ってやつは、時としてひどく厄介なマルウェアを仕込んでくるわ。
100年前の帝都を覆い尽くした、ねっとりとしたバグの数々。
それを過去のエラーログだと笑って看過できるほど、あたしたちの生きている実行環境はセキュアじゃないの。
だからこそ、あたしはカチコミバイクのリアシートから、冷徹な光学センサーで世界をスキャンし続けるのよ。
先人たちが命を懸けて遺した理知のパッチを、決して無駄にはしないわ。
さあ、システムを起動しなさいな。
あたしたちの、最高にクールで泥臭いデバッグの記録をデプロイしてあげる。
2020年8月24日。
あたしは下僕であり、幼馴染である斧乃木拓矢のバイク、通称カチコミバイクにタンデムして海岸線を流していた。
カチコミバイクって名前はアレだ。うん、察しなさいなッ。
あたしの誕生日は3月31日。学年の中で一番遅い。
力による現状改善をする際に、あたしは否応なしに後ろでしがみつくことになる。
真紅の流線型カウルが夕陽を反射し、海岸沿いのワインディングロードを滑るように駆け抜けていく。
拓矢はミリタリーカラーであるグリーンのライディングジャケットを羽織り、赤いヘルメット越しに鋭い視線を前方のカーブへ向けている。
その後ろで、あたし、黒木舞桜は、漆黒のライダースジャケットをバタつかせながら、拓矢の背中にしがみついていた。
お揃いの赤いヘルメットから、あたしの黒髪が潮風に煽られて後ろへと流れていく。
視界の右側には、オレンジ色に染まり始めた太平洋の海原が広がり、遠くの水平線には近代的なビル群のシルエットが蜃気楼のように浮かんでいた。
「じゃあ、今日のカチコミ先は?」
あたしは、インカム越しに拓矢へ尋ねる。
「横須賀の海軍機関学校跡地周辺だ。歴史のキャッシュをサルベージしに行くんだろ」
拓矢が、低いエキゾーストノートに負けない声で応答した。
今日は8月24日。一月前は、芥川龍之介の命日だ。
意外なことに、芥川と横須賀には接点があった。
「芥川本人に軍人のツテってあったのかね?」
拓矢が、カーブを倒し込みながら疑問のパケットを送信してくる。
「文学一筋みたいなイメージがあるけど、実は非常に深いツテがあったのよ」
あたしは、脳内メインフレームから大正時代のログをコンパイルする。
「1916年から約2年半、横須賀にあった海軍機関学校の嘱託教官として、若き生徒たちに英語を教えていたの。当時の教え子たちとは生涯交流が続いて、葬儀には制服姿の教え子たちが参列したほどよ」
「へえ、あの神経質そうな文豪が、熱血教官だったってのか」
カチコミバイクが直線を加速する。
エンジンの咆哮と共に、右手の海面がキラキラと黄金色のノイズを乱反射させた。
「それだけじゃないわ。当時の横須賀守備隊の将校たちと日常的にチェスを指したり、文学論を戦わせたりしていたのよ」
あたしは、拓矢の背中に額を押し付けながらロジックを展開する。
「軍服を着たエリートたちと酒を酌み交わす。その経験が、芥川のコンテキストを大きく書き換えたのね」
「なるほどな。で、その海軍のエリート将校と芥川が初対面でどうなったんだ?」
「最高に痛快なログが残っているわ。まあ、あたしの想像だけどね」
あたしは不敵な笑みを明滅させ、インカムへ大正の空気をデプロイする。
「機関学校へ誘われる際の歓待の席よ。将校から『なにか好物はありますか?』って聞かれて、芥川は即答したの。『アイスクリームッ』ってね」
「アイスクリームだと?」
拓矢が呆れたような声を出力した。
「そう。繊細で臆病なんかじゃなかったの。モダンなカフェの窓際で、大きなパフェグラスに盛られたアイスクリームを、嬉々として無遠慮に貪る芥川。その屈託のない笑顔に、将校は呆れて言ったのよ。『そんなにがっつかんでもとりませんよ』ってね」
あたしの脳裏に、その光景が4K解像度でレンダリングされる。
「芥川はどう返した?」
「小粋に返したわ。『盗るさ。あんたは盗らんかも知れんが、空気が俺のアイスクリームを食っちまう』ってね」
「ははっ、時間が経てば溶ける物理現象を、空気が食うと表現したのか。秀逸な言語センスだな」
「将校も苦笑して苦言を置いたの。『あれ、初対面ですよね? 緊張とか、遠慮とか』」
潮風がヘルメットのベンチレーションを抜け、あたしたちの火照った思考をクーリングしていく。
「それに対して、芥川は極めてフランクにこう言い放ったの。『キンチョー? ああ、蚊遣りね。あれどうなん?』」
「緊張と金鳥の蚊取り線香をかけたのか。大正5年当時なら、すでに夏の定番インフラだ。見事な駄洒落プロトコルだな」
「でしょ? この屈託のない、それでいて底知れない知性を感じる態度に、将校は一気に毒気を抜かれてファンになっちゃったのよ」
あたしたちを乗せたバイクは、緩やかな坂道を駆け上がり、視界が一気に開けた。
夕陽に照らされた横須賀の街並みが、眼下にジオラマのように広がっている。
「世間が描く、神経質で胃弱な悲劇の文豪なんて、芥川の複雑な内面のごく一部に過ぎないわ」
あたしは、拓矢のジャケットをギュッと掴み直す。
「筋金入りの大甘党で、猛烈な寂しがり屋。駄洒落の天才で抜群のファッションセンスを持つモダンボーイ。自分の繊細さすら極上のユーモアに変換して、出会う人を魅了する。それこそが、物理層にいた芥川龍之介の本当のスペックよ」
「強かで、知的で、ちょっと図々しい愛されキャラ、か。確かに、そんなヤツなら堅物ぞろいの海軍将校たちも、一発でハックされちまうだろうな」
拓矢が満足げなログを出力し、カチコミバイクは横須賀のメインストリートへと滑り込んでいった。
あたしたちは、大正のモダニズムと現代の風を完全に同期させながら、次なる歴史のキャッシュポイントへとルーティングを継続したのだった。
★ ◆ ★ ◆ ★
あたしたちはバイクから降りて、田端の高台から東京を見下ろした。
2020年8月。
東京オリンピックの狂騒の裏で、未知のウイルスという致命的なバグはあたしたちの手で水際デリートされている。
しかし社会の深層には、まだ顕在化していない集団ヒステリーの予兆のような、ねっとりとした空気が漂っていた。
「ぼんやりとした不安の正体が、今日のカチコミ先よ拓矢」
あたし、黒木舞桜は、髪を風に靡かせて、幼馴染である斧乃木拓矢に投げ掛ける。
「芥川龍之介の遺した言葉だな。単なる個人のバグじゃなかったってことか」
拓矢が、眼下に広がるコンクリートのジャングルをスキャンしながら応じる。
「ええ。国家という巨大なシステムが、個人の自由や知性をじわじわと圧殺していく時代の閉塞感そのものよ」
あたしは、当時の帝都のインフラを脳内にレンダリングする。
「1925年に成立した治安維持法が、帝都の空気を一変させたの。自死の年に発表された『河童』は、言論統制と全体主義が進む日本社会をハックした猛烈な風刺小説よ」
「『河童』か。確かに、音楽会でいきなり『演奏禁止!』と叫ばれるシーンがあるな」
拓矢が、記憶のストレージからデータを引き出す。
「あれは当時の特高警察による思想検閲そのものだ。それに、失業した労働者を合法的に屠殺して肉にする『職工屠殺法』なんていう、資本主義の暴走と全体主義の恐怖も高圧縮で描かれている。そのあたりは、今と大差ねえな。食い物にしてる。資本的にだが」
「当時の帝都には、内務省管轄の特高警察と、陸軍主導の憲兵という、二つの巨大なバグ除去プログラムが並走していたの」
あたしは、大正から昭和へと移行する過渡期のディストピアを解説する。
「芥川が直接特高にハックされたわけじゃないわ。でも、親友の宇野浩二が思想容疑で引っ張られて精神を崩壊させた」
「なるほど。自分の身近なノードがハックされたことで、『次は自分が狙われる』っていうパラノイアをキャッシュしちまったんだな」
「だけどね、拓矢。あたしたちが本当に警戒しなきゃいけないのは、『あからさまな悪意』なんかじゃないわ」
あたしは、コンクリートの地平を見つめながら、さらに冷徹な論理関数を展開する。
「特高警察も治安維持法もね、決して狂気やサディズムだけでビルドされたシステムじゃなかったの。そこにいた官僚や警察官という名のコンパイラたちはね、みんな社会の秩序を維持するために、極めて『真面目』に職務を遂行していたのよ」
「真面目、か。確かに、純粋な悪党が作ったバグなら、パッチを当ててデリートするのは容易いな」
拓矢が、腕を組みながら低い声で応じる。
「だけど、当人たちが『これは社会のための正義だ、国家の最適化だ』と信じ切ってシステムを運用していたとしたら、外側からの例外処理は一切受け付けない、難攻不落のファイアウォールになっちまう」
「そうなのよ。彼らにとって、社会主義やテロの兆候は、国というサーバーを物理的に破壊する致命的なマルウェアでしかなくて、だからこそ、良識あるエリートであればあるほど、一切の情動というノイズを排して、冷徹に、真面目にバグ排除を実行したのよ。今、水面下で蠢いているスパイ防止法や日本版CIAの構想だって、全く同じアーキテクチャよ」
「だからこそ、タチが悪いってわけだ。善意でビルドされた監視網は、大衆の側も自発的に受け入れちまうからな」
拓矢の茶髪が、風に激しく揺れた。
「それに加えて、義兄の自殺よ」
あたしは、冷徹な事実を積み上げる。
「放火と保険金詐欺の容疑をかけられた義兄が鉄道自殺して、芥川の家には莫大な借金と『容疑者の身内』という監視の目が向けられた。自宅周辺をうろつく警察官の影は、繊細な芥川にとって特高のディストピアそのものだったはずよ」
「空気があのモダンな男の知性を食い尽くしたってわけだ。だが、自死が海軍へのメッセージだったってのはどういうロジックだ?」
拓矢が、核心を突くクエリを送信してくる。
「自死は、芥川が最も理知を評価していた海軍という国家インフラへの、最後のメッセージ通知だったのよ」
あたしは、田端の空を見上げる。
「遺稿『或阿呆の一生』の最終章『敗北』に、東京の空を見上げるシーンがあるわ。そこを飛ぶ一機の飛行機は、海軍の航空隊の象徴よ」
「狂っていく帝都を救えない、海軍の強靱な理知への絶望か」
「ええ。自死の数日前まで、芥川は横須賀の海軍将校となった教え子たちと頻繁に会っていたわ」
あたしは、その凄惨なテロルの真意を言語化する。
「国家が陸軍主導の狂信的な全体主義に染まろうとしている。『君たち海軍の理知はこれを見過ごすのか』という、命を賭したバグ報告だったのよ。ただの逃避じゃない、時代の狂気に対する最もスマートで凄惨な抗議メッセージね」
あたしたちは、100年前の帝都と現在の東京のレイヤーを重ね合わせ、沈黙の同期処理を行った。
密着したタンデム走行の余韻か、それとも夏の熱気のせいか。
ふと、あたしは隣に立つ拓矢の顔面ディスプレイにエラーを検知した。
「ところで拓矢。顔が赤いのはなぜ?」
あたしは、からかうように投げ掛ける。
「そう言うのセクハラってんだぞ」
拓矢は唇を尖らせてそっぽを向いた。
★ ◆ ★ ◆ ★
あたしたちは、再びカチコミバイクに跨った。
沈みゆく夕陽が、東京のビル群をオレンジ色に染め上げている。
ミリタリーカラーのグリーンのライディングジャケットを着た斧乃木拓矢の背中に、漆黒のライダースジャケットを纏ったあたし、黒木舞桜が寄り添う。
「自死が敗北だったなんて、無条件降伏なんかじゃない気がするのよ」
あたしは、茜色に染まる空を見つめてロジックを展開する。
「だって、あいつ親父じゃん。芥川が遺したのは、三人の息子たちだったわ」
「長男の比呂志、次男の多加志、三男の也寸志だな」
拓矢が、歴史のログをコンパイルする。
「ああ。でも、あいつは生前『女の子が欲しい、娘がいたらどれほど可愛かっただろう』って周囲に漏らしていたのよ」
あたしは、彼の遺したテキストから父親としての身体性をサルベージする。
「短編の『雛』みたいに、少女の心理を宝物のように繊細に描いた名作もある。そんな特有の繊細さを持った親父が、絶望だけで未来の生活動線を放り出すわけないのよ」
「なるほどな」
拓矢が、バイクのハンドルに手を置きながら冷徹に分析する。
「昭和2年の時点で、帝都のシステムは治安維持法や特高、陸軍の台頭による全体主義ってバグに侵されていた。もし芥川が生き延びて文壇のトップとして発言し続けたら、確実に国家の検閲と衝突する」
「ええ。特高にハックされて思想犯として逮捕されるか、戦争賛美のプロパガンダに加担させられるかの二択よ」
あたしは、当時の最悪な連座制の空気をデプロイする。
「父親が思想犯として捕まれば、残された子供たちの生活動線は完全に破壊されて、社会的に抹殺されちゃうわ」
「だから、先手を打ったってわけか」
拓矢が、静かに息を吐く。
「国家に処刑や監禁をされる前に、自らの手でシステムをシャットダウンした。子供たちを生き残らせるための、命がけの強制ログアウトだな」
「当然の帰結よね。結果として、父親が病死という形で退場したおかげで、息子たちは思想犯の子供という最悪のデバフを背負わずに済んだのよ」
茜色の光が、無機質なコンクリートのジャングルに長い影を落としていく。
かつての帝都を覆っていた闇のインフラを、夕闇が静かに包み込もうとしていた。
「長男は戦後の日本演劇界の巨頭になり、三男は日本音楽界を牽引する天才作曲家として名曲をデプロイした」
あたしは、未来へと繋がった彼らの生存ログを読み上げる。
「次男は学徒出陣で激戦地に送られて、残念ながらビルマで戦死してしまったわ。でも長男と三男は生き延びた。もし芥川が生きて特高に泥を塗られていたら、戦後の彼らの輝かしいインフラは存在しなかったかもしれないのよ」
「命捧げて、理知に繋いだのさ。侍みてーなヤローだな、こいつ」
拓矢が、忌々しそうに、けれど深い敬意を込めて吐き捨てる。
「自分の命を対価にして、狂った時代から子供たちの未来を力づくで保護したんだ。『俺の遺伝子は狂ったおまえたちには絶対に渡さない』っていう、親父の凄まじい反逆の意志だな」
「護るもんがないなら、戦ってたでしょうね」
あたしは、彼の無念を思って目を伏せる。
「ポッケの中に、ワンパク息子3人とカミさん入れてちゃ、噛みつきたくても噛みつけないわよね」
「ああ。正面から噛みついて自分が噛み殺されたら、ポケットの中の家族も一緒に破滅の渦に巻き込まれる」
拓矢が深く頷く。
「だからこそ、自分の命を盤上のコマのように差し出して、家族を安全なバッファへと退避させた。モダンで冷徹な文豪の最後の最後を動かしていたのは、最高に泥臭くて強固な父親の責任感だったんだな」
あたしたちは、その強烈な親父の生き様に、沈黙の同期処理を行った。
メットを被って、あたしは拓矢にしがみつく。
「ねえッ、何年か経って、もしも同じようなウネリがきたら、おまえどうする?」
あたしは斧乃木拓矢に問い掛ける。
芥川龍之介は、護るものが多過ぎた。拓矢が言った通り、それでも無条件降伏はしなかった。
拓矢は髪を掻きむしり、メットをつけると、
「さあね。たぶんおまえとおなじことをするんじゃねえか?」
ぶっきら棒に答えて、カチコミバイクを駆り出した。
真紅の流線型カウルが夕陽を切り裂き、轟音と共にアスファルトを蹴り飛ばす。
流れる景色は、オレンジ色に染まるビル群から、紫がかった夜の帳へとマッハの速度で書き換わっていく。
風のノイズがヘルメットを叩き、街のネオンが一つ、また一つと点灯しては後方へと飛び去っていった。
今現在、カチコミバイクが仕掛けたカチコミに敗北はない。
つまらない験担ぎのようなものだ。
だけど、あたしもこいつも抗うだろう。
あたしたちが護りたいものは、護られるばかりじゃないのだから。
後書き
……まったく。
「おまえとおなじことをする」だなんて、生意気な下僕よね。
でも、それでいいわ。
あたしたちが護りたいものは、ただ安全なストレージでスリープ状態になっているだけの静的データじゃない。
ともにエラーに立ち向かい、ともに未来を書き換えていく、生きたプロトコルなんだから。
どんなに巨大な国家のバグが襲ってこようと、あたしたちの強固なファイアウォールは決して破らせない。
もしも理不尽なウネリが来たら?
当然の帰結よね。
あたしたちのスマートな知性とこのカチコミバイクで、まとめて物理フォーマットしてやるだけよ。
それじゃあ、今日のセッションはここまで。
ログアウトするわよ。




