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第四話 初陣と、完全勝利

 上昇しながら、マクスードは一度だけ振り返った。



 そして、息を呑んだ。



 眼下に、国があった。



 朝陽の中、砂色の世界のただなかに、そこだけ緑の円が広がっている。


 中心に湖のようなオアシスが光り、その畔に街が密集し、水路が血管のように畑へ伸びて、外へ行くほど緑は薄れ、やがて砂に溶けて消えていた。



 人の住める場所は、あの円の中だけ。


 あの水たまりの周りだけ。



 地図では、知っていた。


 だが空から見る国は、思っていたよりもずっと――小さかった。



「見とけ、新兵ども」



 並走してきた先輩騎兵が、風の中で笑った。


 確か、第百十二期のダウド班長。


 朝の点呼で、新兵たちに軽口を叩いていた人だ。



「ありゃあ俺たちの全部だ。あれを背にして飛ぶってことを、今日、体で覚えて帰れ」


「はい!」


「返事はいい。……来るぞ。位置につけ」



 東の空、黒い点が三つ。


 もう、点ではなくなりつつあった。





 龍は、大きかった。



 訓練で聞かされた数字の通りのはずだった。


 だが数字と、空をふさぐ実物は、まるで違った。



 まず、音が来た。


 翼が大気を叩く、腹の底に響く重い音。


 次に、匂いが来た。


 焦げた石のような、乾いて熱い匂い。



 そして龍そのものが、朝の光を遮って、来た。



 灰色の鱗。


 竜の三倍はある胴。


 翼の一打ちごとに大気が唸り、離れた後衛のラアドまでが煽られてぐらつく。



 あれと、戦う。


 人類は、あれと戦ってきたのだ。



「散開――かかれ!」



 笛が鳴り、前衛の八騎が一斉に割れた。



 先輩たちの戦いは、伝記より速かった。



 二騎一組。


 一騎が正面から仕掛けると見せ、龍が首をもたげて火を溜めた瞬間、もう一騎が死角の腹の下を擦過する。


 騎兵の槍が、翼の付け根の膜を浅く裂いた。



 龍が咆え、振り向く。


 その時にはもう二騎は離脱し、入れ替わりに別の組が反対の死角へ入っている。



 正面から撃ち合わない。


 組み付かない。


 削るのだ。


 翼を、少しずつ。



 翼膜を裂かれるたび、龍の旋回は鈍り、高度は下がっていく。


 飛べなくなった龍は、もう龍狩りの敵ではない。


 地に落として、仕留める。



 一頭目が、まさにその手順どおりに高度を失い、砂丘へ墜ちた。


 地上待機の槍兵たちが取り付くのが、豆粒のように見えた。



「すげえ……」



 隣でユセフが呻いた。


 声が震えていた。


 怖いのか感動なのか、たぶん両方だった。



 マクスードは、瞬きも忘れていた。



 美しい、とすら思った。


 これが龍狩りか。


 これがサラーフの見た空か。



 二頭目が墜ちるのにも、そう時間はかからなかった。



 ――そして。



 仲間が減った空で、三頭目が動いた。



 前衛の包囲が組み直される、その一瞬の隙間を、灰色の巨体が強引に割った。


 二枚の翼が大気を掴み、加速する。



 向かう先は、西。



 オアシスの、方角だった。



「討ち漏らし、西へ抜けた! 後衛、遅滞せよ! 前衛が追いつくまで、高度を奪え!」



 笛が、鋭く三度鳴った。



 後衛。


 自分たちのことだ。



 考えるより先に、ラアドが翼を打っていた。



「――っ、行くぞラアド!!」



 加速。


 風が顔の皮を引き剥がしにくる。


 訓練で出したことのない速度に、視界の端が滲む。



 龍が、近づいてくる。


 近づくほどに、大きくなる。


 大きすぎる。



 これに、何をすればいい。


 高度を奪え。


 翼だ。


 翼の付け根。


 先輩たちがやっていた、あれを――



 龍の首が、こちらを向いた。



 目が合った。



 縦に裂けた金色の瞳に、豆粒みたいな人竜が映っているのが、なぜか見えた気がした。



 喉が、赤く灯る。



「ラアド、下ッ!!」



 言うより早く、ラアドは翼を畳んで落ちていた。



 頭上を、熱が通過した。


 髪の焦げる匂いがした。


 一拍遅れて、轟、と空気の裂ける音。



 あれが掠めたら、たぶん死ぬ。



 怖い。


 怖い、が――



「――嘘だろ」



 自分の口が、笑っていた。



 落下から反転、龍の腹の下。


 死角。


 先輩たちが使っていた、あの位置に、いつの間にか潜り込んでいた。



 ラアドが、吼えた。


 恐怖ではなかった。


 こいつも、同じだった。



 翼の付け根、日に透ける膜。


 槍を、構える。



 届く。


 届くぞ――!



 ――その時、頭上の巨体が、ぐん、と傾いた。



 見れば、龍の反対側の翼に、二条の裂け目。



 追いついた前衛の二騎が、擦過離脱していくところだった。



「新兵! 離れろ、仕留めは前衛だ!」



 ダウド班長の声。



 入れ替わりに前衛の組が次々と取り付き、龍はみるみる高度を失っていく。


 最後は為す術なく、砂丘の斜面へ墜ちた。



 戦闘、終了。



 敵龍三頭、撃破。


 こちらの損害――なし。



 完全勝利であった。





「うおおおおおおお!! 勝ったァァァ!!」



 拠点の広場に降りるなり、マクスードは吼えた。


 ラアドも一緒に吼えた。


 着地の衝撃で、広場の砂が舞った。



「見たかユセフ! 俺とラアド、龍と一対一だったんだぞ! 目が合った! 火ィ吹かれた! 髪焦げた!」


「自慢の内容が全部死にかけの報告なんだよなあ……」



 ユセフは疲れ切った顔で竜を降りた。


 後衛の持ち場で、彼は一歩も動かず、しかし誰よりも正確に周辺警戒を続けていたという。



「つーか、お前あれ、命令の遅滞っつーより特攻だったからな。前衛が来なかったらどうしてた?」


「翼を裂いてた」


「裂けるかあんなもん! 新兵だぞ俺ら!」


「いや、いけた。あと少しで届いた」


「その『あと少し』で今まで何人死んだと思ってんだよ……」



 言い合っているところへ、ダウド班長が通りかかった。



「西の龍に食らいついたの、お前か」


「はい!」



 班長はマクスードの顔をしばらく眺め、それから、にやりと笑った。



「無茶なやつだ。……が、いい追いすがりだった。遅滞は果たした。よくやった」


「――っす!!」



 頭に置かれた手の重みが、誇らしかった。


 嬉しかった。


 単純に、どこまでも、嬉しかった。





 夜、食堂は初陣を終えた新兵たちで沸いていた。



「乾杯だな、マクス」



 エミルが果実水の杯を掲げた。


 この男、後衛の位置取りが完璧すぎて、前衛の先輩から名指しで褒められたらしい。


 ウザいが、飛ばせると上手いのである。



「初陣、完勝。損害なし。……なあ、分かるか? これがどれだけ幸運なことか」


「ああ! 最高の初陣だ!」


「……まあ、お前はそれでいいよ」



 エミルは笑って、杯を合わせた。





 竜舎の水場で、ラアドが水を飲んでいた。



 長かった。



 いつまでも、いつまでも飲んで、飲み終わってからも、しばらく水面をじっと見ていた。



「……そんなに美味いか」



 マクスードが笑うと、ラアドは我に返ったように顔を上げ、それから、いつものように鼻先を押しつけてきた。



 熱かった。


 今日、この相棒と、あの空を飛んだのだ。



 その夜、マクスードは伝記を開いた。


 第四章。


 初陣の章。



 ――若きサラーフの初陣は、鮮烈であった。



 分かる。


 分かるぞサラーフ。


 俺の初陣も鮮烈だった。



 龍と目が合った。


 火を躱した。


 あの巨体の、腹の下まで潜った。



 なあ、あんたもあそこで笑ったか。


 俺は笑った。


 怖かったのに、笑ってたんだ。

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