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深夜に餌付けした限界OL、実は俺の冷徹女上司でした  作者: 伊達ジン


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第2話 ダイエットの葛藤と、堕ちたウェルネス

 午後1時。オフィスは、コンビニ弁当の温まった匂いと、午前中の業務で消耗した社員たちの微かな疲労感が入り混じる独特の空気に包まれていた。


 営業部のフロアの片隅で、俺――橋本一郎は、デスクの影に隠れるようにしてチキン南蛮弁当の蓋を開けようとしていた。身長185センチ、無駄に厚い胸板と肩幅のせいで、どんなに縮こまっても隠れきれていない自覚はある。だが、今は少しでも静かにカロリーを摂取したかった。


「橋本さん、お疲れ様です。お食事中すみません、3分だけお時間いいですか?」


 甘く、それでいて決して耳障りではない絶妙なトーンの声が降ってきた。

 顔を上げると、企画部の山下恭子が立っていた。完璧にセットされたゆる巻きの髪に、トレンドを押さえたオフィスカジュアル。誰にでも愛嬌のある笑顔を向ける、社内のアイドル的存在だ。


「あ、山下さん。どうしました?」


「明日の役員会議に出す新サービスの企画書なんですけど、営業部側の直近の顧客データと突き合わせたくて」


 彼女は小脇に抱えていたファイルを、俺のデスクの端に広げた。そこには細かく付箋が貼られ、競合他社の動向から市場予測までがびっしりと書き込まれていた。


「この条件でのデータ、あの面倒な社内システムから抽出しないといけないんですけど……橋本さんなら、すぐに必要な数字だけパッと出せますよね?」


 上目遣いで、小さく首を傾げる。

 彼女の専門外であり、かつ俺が得意とする面倒なデータベースの操作だけをピンポイントで頼みに来ている。俺の「お人好し」な性格を完全に計算した上での無茶振りだ。


「あー……その条件なら、午後イチで抽出して送りますよ」


「本当ですか! 助かります! 橋本さんがいてくれて本当に良かったです」


 花が咲いたような笑顔を残し、恭子はヒールを鳴らして去っていった。

 小さくため息をつく。「ちょろいおじさん」として扱われている自覚はある。だが、あの付箋だらけの資料を見せられると、彼女が裏でどれだけ泥臭い仕事をしているかが透けて見えてしまい、どうしても無碍に断ることができないのだ。


 気を取り直して、再び弁当の割り箸に手を伸ばす。


「イチロー! ストップ!!」


 フロアの端から、よく通る陽気な声が響いた。

 声の主は、人事部でウェルネス・福利厚生を担当するカルメン・ベガだ。地中海の太陽を思わせるオリーブスキンの肌に、スポーティなウェア。社内の健康増進をミッションとして掲げる、歩くパワースポットのような女性である。


「またそんな茶色いお弁当を食べてるの!? 揚げ物にタルタルソース、さらに白米……血管が泣いてるわ!」


「いや、カルメンさん、午後からの外回りのためにカロリーを……」


「カロリーなら良質な脂質から摂りなさい。はい、これ!」


 ドン、とデスクに置かれたのは、深い緑色をしたドロドロの液体が入った大きめのマイボトルだった。


「私の特製、オーガニック・ケールとチアシードのスムージー。無農薬、グルテンフリーよ。これを一気飲みして、午後もヘルシーにいきましょう!」


 有無を言わさないラテンのパッションと、太陽のようなビッグスマイル。

 逆らっても無駄なことは痛いほど知っている。俺は抵抗を諦め、ボトルの蓋を開けた。青臭い草の匂いが鼻を突く。息を止めてドロドロの液体を流し込みながら、俺の胃腸は静かに絶望していた。


 結局、自分の業務に加えて恭子から依頼されたデータの抽出作業、さらには別の同僚のカバーまでこなしているうちに、時計の針は午前1時を回っていた。


 午前1時45分。

 俺は、近所の24時間営業のコンビニエンスストアに足を踏み入れた。

 自動ドアが開き、いつものチャイムが鳴る。深夜の静寂の中、蛍光灯の光と陳列棚に整然と並ぶ商品たちが、すり減った神経を少しだけ落ち着かせてくれる。


 昼間の無味乾燥なスムージーのせいで、胃袋は強烈な飢餓状態にあった。

 惣菜コーナーを抜け、スイーツ棚の前に差し掛かったとき、ふと足を止めた。


 そこに、一人の女性が立っていた。

 大きめのロゴが入ったグレーのスウェットにレギンス姿。前髪はプラスチックのクリップで適当に上げられ、すっぴんの顔には大きめの伊達メガネがかかっている。


 彼女は、左手に低カロリー春雨スープとサラダチキンを持ちながら、右手に握ったスマホの画面と、目の前の陳列棚を交互に睨みつけていた。


「……シュークリーム、280。脂質20。エクレア、250……これを食べたら、今日のサラダチキンの我慢が全部パーになる……でも、もう無理、頭がおかしくなりそう……」


 ブツブツと呟く声は、ひどく切実だった。彼女は春雨スープを握りしめたまま、スイーツ棚の前で小刻みに震えている。


 普段なら素通りする。だが、昼間に理不尽な健康食を強いられた身として、あの飢餓感は他人事とは思えなかった。


「……その春雨スープでは、どうにもなりませんよ」


 気づけば、背後から声をかけていた。


「えっ!?」


 女性はバッと振り返った。伊達メガネの奥の目が、見知らぬ大男への警戒で丸くなっている。


「だ、誰ですか、急に」


「中途半端なものを胃に入れても、脳は満足しません。明日以降に反動が来るだけです。今夜は、振り切るべきだ」


 俺は彼女の手から春雨スープとサラダチキンをそっと抜き取ると、元の棚に戻した。


「ちょっと、何するんですか!」


「こっちへ」


 呆然とする女性をレジ横のホットスナックコーナーへ促し、店員に注文した。


「フライドチキンを1つ。それから、パンコーナーにあるたまご蒸しパン、最後にこの個包装のメープルシロップを」


 会計を済ませ、イートインスペースの隅へ移動する。

 深夜2時のコンビニ。他に客の姿はない。


 買ってきたばかりのたまご蒸しパンを袋から出し、横半分にスライスするように割った。それを備え付けの電子レンジに入れ、数十秒だけ加熱する。

 ふわりと、卵とバターの甘い香りが立ち上った。

 温まった蒸しパンの間に、先ほど買ったばかりのフライドチキンを挟み込む。そして、上からメープルシロップをとろりと垂らした。


「な……何ですか、それ……」


 伊達メガネの女性が、後ずさりしながらも目を釘付けにしている。


「甘みと塩気、そして脂。この3つを同時に叩き込まないと、今のあなたの飢餓状態はリセットされません。……さあ、冷めないうちに」


 完成した塊を、紙ナプキンに包んで彼女に差し出した。


 女性はゴクリと唾を飲み込んだ。


「……こんなの、食べたら絶対に後悔する……」


 口ではそう言いながらも、限界を迎えていた彼女の手は無意識にそれを受け取っていた。そして、震える手でそれを口に運び、小さくかじる。


 サクッ、じゅわっ。


 衣が弾ける音と同時に、彼女の動きがピタリと止まった。

 伊達メガネの奥の瞳孔が開く。


「……っ」


 息を呑む音がした。


「なにこれ……甘くて……しょっぱくて……」


 彼女はもう、カロリーのことなど完全に忘れていた。

 一心不乱にチキンと蒸しパンにかぶりつき、指についたシロップまで舐めとる勢いで、あっという間に完食してしまった。


 大きく息を吐き出し、口元を手で拭う。

 その顔には、抗えない快楽に屈した敗北感と、深い安堵が入り混じっていた。


「……あーあ、食べちゃった。こんな夜中に」


 彼女は恨めしそうに俺を睨んだ。


「また太っちゃうじゃないですか! 今日の私の我慢を返してよ!」


 文句を言いながらも、その表情はどこかスッキリとしていた。


「今日のあなたには、それが必要だったんだと思います。おやすみなさい」


 俺が短く告げると、彼女は「明日から本気で絶食しますから!」と謎の宣言を残し、足早に店を出ていった。


 嵐が去ったような気分で、俺は自分の夜食を選ぶために再び陳列棚へ向かった。


 スナック菓子のコーナーを曲がった瞬間、思わず足を止めた。

 そこには、先ほどの女性とは全く別の、異様なオーラを放つ人物がいた。


 季節外れのダボダボの黒いウインドブレーカー。目深に被ったキャップに、顔の半分を覆い隠す黒いマスク。完全に周囲を警戒している不審者スタイルだ。


 彼女は、棚の影に隠れるようにして、手元の買い物カゴを覗き込んでいた。


 俺の視力は、そのカゴの中身を的確に捉えた。

 真っ青なエナジードリンク。ショッキングピンクの着色料で染まった海外製のグミ。そして、パッケージの成分表がカタカナの羅列で埋め尽くされている、ジャンボサイズの濃厚チーズスナック。


「……早く帰って食べなきゃ……誰かに見られたら終わりよ……」


 マスク越しに、荒い息遣いと独り言が漏れ聞こえてくる。


 なぜこの時間のコンビニには、こうも業の深い人間ばかりが集まるのか。

 だが、あのラインナップを見過ごすわけにはいかなかった。


「……そのチーズスナック、そのまま食べるつもりですか」


「ヒッ!」


 不審者はバッと顔を上げ、数歩飛び退いた。キャップの下から、怯えたような目が覗く。


「ち、違うの! これは、友達に頼まれて……私が食べるわけじゃ……!」


「嘘をつく必要はありません」


 俺は静かに一歩近づいた。


「普段、健康的な食事で自分を縛り付けている人間ほど、こういうケミカルな味を求めるものです」


「あなた……誰なの……?」


「ただ、そのジャンクな欲求を満たすのに、袋からそのまま食べるだけではもったいない」


 俺は彼女のカゴから濃厚チーズスナックを取り上げると、冷蔵コーナーへ歩き出した。

 とろけるスライスチーズ。それから、調味料コーナーのマヨネーズと、ハラペーニョソースを手に取る。


 商品をレジに通し、再びイートインの電子レンジ前へ。

 耐熱の紙皿にチーズスナックを敷き詰め、その上にちぎったスライスチーズを乗せた。さらにマヨネーズを網の目状にかけ、ハラペーニョソースを数滴垂らす。


 それをレンジに入れ、チーズがドロドロに溶けるまで加熱した。

 チーズとマヨネーズが混ざり合い、暴力的な匂いを放ちながらグツグツと煮え立っていく。


 チーン、という音と共に、それを取り出す。

 黄色とオレンジ色が入り混じった、強烈な物体が完成した。


「さあ、食べてみてください」


 不審者は、マスクを顎までずらし、恐る恐るドロドロになったスナックをつまみ上げた。

 そして、口に運ぶ。


「…………ッ!!」


 彼女は目を見開き、その場に崩れ落ちそうになった。


「オー・マイ・ゴッド……」


 ひどく掠れた声が漏れる。


「これ……ヤバい……」


 彼女は泣き出しそうな顔で、指についた溶けたチーズを舐めとった。


「ダメ……こんな人工的な味……でも、止まらない……」


 あっという間に紙皿を空にした彼女は、ハッと我に返り、周囲を見回した。

 そして、すがりつくように俺のウインドブレーカーの袖を掴んだ。


「お願い。私がこんなの食べてるってこと……絶対に、誰にも言わないで……!」


 その必死な瞳には、切実な響きがあった。


「安心してください。俺も、ただの夜食好きですから」


「……共犯者ね……」


 彼女はその言葉を反芻するように呟き、深く頷いた。


 店を出ていく黒いウインドブレーカーの背中を見送りながら、俺はようやく自分の夜食――シンプルな塩おむすびと豚汁――を手に取った。


 激務と、深夜の連続した出会い。

 他人の胃袋を満たしている間だけは、仕事の疲労を忘れることができた。


 明日はまた、厳しい上司や同僚たちに囲まれる日常が待っている。

 塩おむすびをかじりながら、俺は夜の冷たい空気を深く吸い込み、家路についた。

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