第3話 限界ゲーマーの爆食と、着ぐるみの異邦人
午後6時。定時を知らせるチャイムが鳴った直後だった。
「お疲れ様でーす!」
爽やかな声とともに、営業部のフロアを疾風のように駆け抜けていく影があった。入社2年目の後輩、石井ミチルだ。
ゆるく巻かれた髪がふわりと揺れる。オフィスカジュアルを完璧に着こなす彼女は、今日も誰よりも早く帰り支度を整えていた。
「あ、橋本先輩。またそのデータ抱え込んでるんですか?」
デスクに齧り付いている俺を見て、ミチルが足を止めた。大きな瞳には、純粋な気遣いのような色が浮かんでいる。
「ああ。少し急ぎで頼まれた案件があってな」
「もう、先輩お人好しすぎですよー。適当に切り上げないと倒れちゃいますからね。無理しないでくださいね!」
美しい笑顔を残し、彼女は迷いなくエレベーターホールへと消えていった。
残された俺が小さくため息をつき、モニターの数字に目を戻したときだった。
「イチロー! ちょっといいかしら!」
フロアに響き渡る陽気で大きな声。振り返ると、グローバルマーケティング部のチーフディレクター、フェルナンダ・ディアスが立っていた。
燃えるような赤毛に、ボディラインを強調した真紅のワンピース。彼女が歩くだけで、淀んだオフィスの空気が一気に熱を帯びるようだった。
「フェルナンダさん。どうしました?」
「昨日もらったプロモーションの予算案なんだけど」
彼女は手元のタブレットをデスクにドンと置いた。
「全然セクシーじゃないわ。数字の羅列だけで、消費者の魂を揺さぶるパッションが足りないの! もっとこう、心臓が熱くなるような仕掛けを組み込んでちょうだい。明日の朝の会議までにね!」
「明日の朝って、もう18時……」
「期待してるわよ、イチロー! アディオス!」
ウィンクを1つ投げかけ、彼女は情熱的な香水の匂いとともに嵐のように去っていった。
俺はキーボードの上に突っ伏した。
午前2時30分。
ようやく会社を出た俺は、ふらつく足取りでオアシス――24時間営業のコンビニへと吸い込まれた。
深夜の店内は静まり返っている。冷房の効いた空気が、火照った脳を少しだけ冷ましてくれた。何か胃に入れないと、明日の朝まで体がもたない。
弁当コーナーへ向かおうとしたとき、イートインスペースからカサカサという騒がしい音が聞こえた。
高校の指定ジャージのような、ダサい緑色のジャージを着た小柄な女性だった。
前髪を頭のてっぺんでちょんまげのように結び、あぐらをかくようにして丸椅子に座っている。
彼女の目の前には、特大サイズのカップ焼きそば。そしてテーブルには、エナジードリンク2本、フライドチキン、ツナマヨおにぎりが3個無造作に転がっている。
「よし、燃料補給……死ぬ、腹減りすぎて死ぬ……」
ぶつぶつと呟きながら、彼女は凄まじい手つきで焼きそばの湯切りをし、ソースをかき混ぜた。
そこまではいい。深夜の特大ペヤングは、疲労した現代人の正当な権利だ。
だが、彼女はあろうことか、その焼きそばの上に買ってきたフライドチキンを丸ごと乗せ、さらにツナマヨおにぎりの包装を剥がして、そのまま麺の海に突っ込もうとした。
「……待ちなさい」
俺はたまらず声をかけていた。
ジャージの女性は手を止め、ゆっくりとこちらを睨みつけた。
「な、なんだよ。人から食べ物奪おうってのか。やんのか」
まるで野生動物のように威嚇してくる。すっぴんの顔はどこかで見たことがあるような気もしたが、疲れ切った俺の脳はうまく処理できなかった。
「奪わない。ただ、それでは胃がもたれるだけだ」
俺は彼女の向かいに立ち、真剣なトーンで告げた。
「手っ取り早くカロリーを摂りたいのはわかるが、組み合わせには工夫がいる。どうせなら、もっと美味しく食べたくはないか」
「美味しく……?」
ぽかんとする彼女の手から、俺はおにぎりとフライドチキンを回収した。
「少し待っていろ」
俺は店内に戻り、温泉卵と、小袋のマヨネーズ、そしてコンソメ味のポテトチップスを買って戻ってきた。
「よく見ておけ」
特大焼きそばの上に、まずはフライドチキンを細かく手で裂いて散らす。
「細かくすることで、チキンの脂がソースと馴染む」
次に、中央にくぼみを作り、温泉卵を落とす。その周囲にマヨネーズを円を描くようにたっぷりとかけた。
「……ヤバ。もう美味しそう」
女性がゴクリと喉を鳴らす。
「これで終わりじゃない。総仕上げだ」
俺はコンソメ味のポテトチップスの袋を開け、中身を無造作に砕き、焼きそばの上に振りかけた。
「……完成だ。炭水化物と脂質に、ポテチの食感が加わる。食べてみろ」
女性は無言で割り箸を手に取り、温泉卵を崩しながら、麺とチキン、そして砕けたポテチを豪快にすくい上げて口に放り込んだ。
「――――ッ!!」
彼女は目を見開いた。顔中のパーツが驚愕に限界まで開いている。
「……んまっ! なにこれ、脳がバグる!!」
「チキンとマヨネーズを、卵がまとめている。そこにポテチの塩気と食感が効くんだ」
「ヤバい、箸が止まんない。最高、マジで最高……燃料じゃなくて、ちゃんと美味しい……!」
彼女は凄まじい勢いで麺を啜り、あっという間に特大容器を空にしてしまった。
口の周りにソースをつけたまま、彼女は俺を見上げて、深々と頭を下げた。
「……すげえ。あんた、ただのデカいおっさんかと思ったら、マジですげえ。今日からアニキって呼んでいいっすか!」
「好きにしてくれ。ただ、毎日はやらないことだ。内臓が壊れるからな」
尻尾を振る犬のように懐いてくる彼女を残し、俺は再び自分の夜食を選ぶために陳列棚へ向かった。
珍味・おつまみコーナー。
そこで、俺はまたしても異様な光景に遭遇した。
季節外れの、モコモコとした特大の着ぐるみフリース。フードを深く被り、顔の半分以上が隠れている。
その人物は、冷蔵ケースの前で小刻みに震えながら、ストロング系の缶チューハイと、イカの塩辛、そしてチータラをカゴに入れていた。
「……さむい。日本の夜、さむすぎる……」
消え入りそうなほどの小声だ。
彼女はそのままレジで会計を済ませると、イートインスペースの空いている席に座った。
そして、持参した巨大なトートバッグの中から、おぞましいものを取り出した。
真っ赤なラベルに、ドクロのマークが描かれた海外製の激辛デスソース。
彼女はイカの塩辛のパッケージを開けると、そのデスソースを親の仇のように大量に振りかけようとした。
「……待て。早まるな」
俺は思わず、彼女の手首を掴んでいた。
着ぐるみの女性はビクリと体を強張らせ、手元を隠すように背中を丸めた。フードの奥から、警戒するような鋭い視線が向けられる。
「な、なによ……離して……」
「寒いからといって、塩辛にデスソースを大量がけするのは間違っている」
俺は彼女の手からデスソースの瓶を取り上げた。
「日本の珍味は、熟成された旨味がある。強すぎる刺激は、それを台無しにしてしまう」
「でも……刺激がないと、内側から燃えられない……」
震える声で反論する彼女に、俺は短く息を吐いた。
「刺激の活かし方が間違っているんだ。少し待っていろ」
俺は冷蔵コーナーへ行き、クリームチーズのブロックと、粗挽きのブラックペッパーを購入した。
彼女のテーブルに戻り、イカの塩辛にクリームチーズを少しずつちぎって和えていく。
「塩辛にクリームチーズを合わせる。これだけでもいけるが……あなたが求める『熱』はここからだ」
俺は彼女のデスソースの瓶を傾け、ほんの『1滴』だけ、そこに垂らした。さらに、ブラックペッパーを軽く振る。
「食べてみてください」
着ぐるみの女性は、恐る恐る割り箸を手に取り、ピンク色に染まった塩辛を口に運んだ。
ゆっくりと咀嚼する。
「…………あっ」
フードの奥で、彼女の息が止まったのがわかった。
「チーズの後に、塩辛の味がくる……そして……」
「最後にデスソースの辛味がくる。少しの量でも十分刺激になるはずだ」
彼女は2口、3口と立て続けに食べ、チューハイを流し込んだ。
「……おいしい。すごく……奥から、じんわりと燃えるみたい……」
フードの下から覗く口元が、とろけるように緩んでいた。
「ただ辛いだけじゃないのね。こんなの、初めて……」
すっかり大人しくなった彼女は、大事そうに塩辛をちびちびと食べ進めている。
「……ねえ」
不意に、着ぐるみの袖が俺のスーツの裾を軽く引っ張った。
「……次も、アタシの魂を燃やすおつまみ……作ってくれる?」
その甘えるような小声に、俺は少しだけ毒気を抜かれた。
「……会えたらな」
深夜3時。
二人の業深い女性の胃袋を満たした俺は、自分のために買ったツナマヨおにぎりを1つだけ食べ、足早に帰路についた。
翌朝。午前10時。
今日は全社横断の大型プロジェクトのキックオフミーティングだった。広い会議室には、各部署の責任者と担当者が集まっている。
「では、定刻ですので始めます。まずは営業部の見解から」
議長席に座る李雪課長が、氷のように冷徹な声で場を制した。今日も隙のない完璧なオーダースーツ姿だ。
その斜め向かいには、企画部のエース、山下恭子が愛嬌のある笑顔で座っている。
さらに、人事部からは「みんな、背筋を伸ばして!」と陽気に呼びかけるカルメン・ベガ。
グローバルマーケティング部からは、「このプロジェクト、もっとパッションが必要よ!」と身振り手振りを交えて熱弁を振るうフェルナンダ・ディアス。
そして、俺の隣で議事録を取っているのは、「任せてください!」と爽やかにキーボードを叩く後輩の石井ミチル。 社内でも一、二を争う優秀な女性たちが顔を揃えている。
俺は配られた資料に目を落とし、ふと微かな違和感を覚えた。
議事録を取るミチルの顔色が少し悪く、時折、机の下で小さく胃のあたりを押さえる仕草をしている。 そして、向かいに座るフェルナンダが、いつもの情熱的な香水の代わりに、今日はやけに強いミント系のタブレットを噛み砕いている。
俺は、キーボードを叩く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。 目の前で完璧な「オン」の顔を取り繕っている彼女たちの微かな不調。
――昨晩、特大ペヤングにポテチを乗せて平らげた女と、塩辛にデスソースをかけて胃を燃やした女。
まさかとは思うが、あのポンコツたちと、目の前にいる完璧な彼女たちが重なる……?
(……最近、俺の周り、変な女が多すぎないか?)
背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、俺はただ黙って、モニターの向こう側に広がるエクセルの海へと視線を逃した。




