第1話 氷の女帝と、深夜2時のアメリカンドッグ
午後3時。オフィスの空気は、何台ものPCが吐き出す排熱と、社員たちの隠しきれない疲労感でわずかに淀んでいた。
手元のキーボードを叩きながら、橋本一郎は小さくため息をついた。モニターに表示された細かいエクセルの数字を追いたいのだが、どうしても自分の分厚い胸板が視界の下半分を占領してしまう。185センチの身長と、それに伴う無駄にがっしりした骨格。既製品のスーツは肩周りが弾け飛ぶため、しぶしぶオーダーメイドで仕立てている。
これだけ図体が大きいと、さぞかし豪快な性格だろうと思われるが、中身はただの気の小さい一介の営業マンだ。モニターに向かって背中を丸め、どうにか気配を消そうとしているのに、同期からはよく「熊がキーボードを叩いているみたいだ」とからかわれた。
「イチロー! また姿勢が崩れてる!」
唐突に、広い背中をバンッ、と平手で叩かれた。
振り返らなくても、その陽気な声と容赦のない腕力で誰だかわかる。人事部で社員の健康管理を担当しているカルメン・ベガだ。
「ほら、立って! 今すぐスクワット10回。血流が滞ってるわよ!」
「いや、カルメンさん、今ちょっと明日の資料を……」
「ノー。健康な体にしか良いアイデアは宿らないの。ワン、ツー!」
有無を言わせぬラテン系のノリと、物理的な力に押し切られ、俺はオフィスの通路でスーツ姿のままスクワットをする羽目になった。彼女の言うことは正論であり、社員の健康を本気で案じてくれているのもわかるのだが、今の俺にはその明るさが少しばかり眩しすぎる。
「橋本さん」
スクワットが7回目に差し掛かったとき、背筋が凍るような声が降ってきた。
動きを止め、そちらを向く。
そこに立っていたのは、営業部の李雪課長。俺の直属の上司だ。
艶やかな黒髪をきっちりとまとめ、知的な切れ長の目が真っ直ぐにこちらを射抜いている。体にフィットしたタイトなスーツを着こなす姿は、誰もが振り返るほどの美貌だが、その周囲には常に零下数度の空気が張り詰めていた。
「体操は終わりましたか。終わったのなら、昨日のC社への提案書について確認したいのですが」
「あ、はい。すぐ行きます」
「3ページ目の原価計算、前提条件が甘すぎます。これでは先方の調達部門に突っ込まれたら5分で破綻する。今日中に根拠となるデータを揃えて、再提出してください」
淡々と、しかし的確に弱点を突いてくる。感情的な怒鳴り声は一切ない。ただ事実だけを鋭利な刃物のように突きつけてくる。それが「氷の女帝」と社内で恐れられる所以だ。
「申し訳ありません。すぐ修正します」
「それと、企画部の案件も手伝っているそうですね。自分の数字も達成していないのに、他部署のカバーをしている余裕があるんですか」
「あれは、その、どうしても今日中と言われて……」
「優しいのは結構ですが、それは単なる非効率です。プロなら優先順位をつけてください。……明日の朝イチで確認します」
反論の余地もない正論を叩きつけ、李課長は去っていった。
俺は大きなため息をつき、再び縮こまるようにしてデスクに向かった。まったく、胃の痛くなる職場だ。
午後11時。
結局、自分の修正作業と企画部から押し付けられた作業を終わらせた頃には、終電の時間が迫っていた。
午前2時。
最寄り駅に着き、人気のない夜道を歩く。
心身ともに疲労困憊だ。革靴がアスファルトを擦る音だけが、やけに大きく響く。胃の中は空っぽだが、ここから自炊をする気力などとうの昔に枯れ果てている。冷蔵庫の中にはミネラルウォーターと、いつ買ったかわからない賞味期限切れの卵しかないはずだ。
だが、俺には帰るべき場所があった。
暗い夜道の中で、煌々と白い光を放つ24時間営業のコンビニエンスストア。
自動ドアが開く音と同時に鳴る、無機質なチャイム。冷房の効いた店内に一歩足を踏み入れると、おでんの出汁と、微かにアルコールの混ざったような独特の匂いが俺を出迎えてくれる。
ここは、砂漠の中のオアシスだ。
ゆっくりと深呼吸をして、店内を見渡した。限られた予算と、既製品という制約。その中で、いかにして最大のカロリーと背徳感を得るか。一日の終わりに課された、俺だけのクリエイティブな時間だ。
今日は何で胃袋を満たすべきか。
惣菜パンの棚からカップ麺のコーナーへ移動しようとしたとき、視界の端に異様な動きをする人影を捉えた。
女性だった。
エンジ色のジャージを着ている。高校生が体育の授業で着るような、芋くさいデザインだ。しかも、よく見ると膝や肘のあたりに細かい毛玉が無数についている。
髪はプラスチックのクリップで雑にまとめられ、すっぴんの顔には度の強い黒縁メガネが乗っている。
彼女は、まるで何かに取り憑かれたように、陳列棚を睨みつけていた。
見知らぬ客だ。普段なら気にも留めない。だが、俺の視線は彼女の持っている買い物カゴに釘付けになった。
激甘のチョコチップ入りメロンパン。
真っ赤なパッケージの、激辛激盛りカップ焼きそば。
そして、特濃の飲むヨーグルト。
……なんだ、あれは。
俺は自分の目を疑った。
仕事のストレスでジャンクフードを欲しているのはわかる。深夜に炭水化物を重ねるのも、背徳感を得るための正当な手段だ。
だが、あの組み合わせは狂っている。
血糖値を急上昇させるメロンパンに、舌の痛覚を破壊する激辛ソース。それを洗い流すどころか、胃壁にねっとりとへばりつかせる乳脂肪分。明日の朝、内臓が焼け焦げるのは火を見るより明らかだ。味覚のテロ行為、いや、自傷行為に近い。
彼女はふらふらとした足取りで、さらにレジ横のホットスナックに手を伸ばそうとしていた。
だめだ。
普段の俺なら、絶対に見ず知らずの他人に干渉などしない。会社の人間関係だけで十分に擦り減っているのだ。だが、「食」に関してだけは、どうしても見過ごせなかった。
「……あの、すみません」
気づいたときには、声をかけていた。
ビクッ、とジャージの女性が肩を跳ねさせた。振り返った彼女は、俺の大きな体を見上げて、少し怯えたように後ずさる。
「な、なんですか」
声は掠れていて、ひどく疲れ切っているのがわかった。
「変なことを言うようですが、そのカゴの中身……本気で一緒に食べるつもりですか」
「は……? ええ、そうですけど」
黒縁メガネの奥の目が、不審者を警戒するように細められた。
「やめたほうがいい。それは暴力です」
「暴力……?」
「疲れ切った胃と脳に、極端な甘さと激辛を同時に叩き込むのは、ストレス発散どころか内臓へのただの攻撃です。明日の朝、必ず後悔しますよ」
一歩近づき、真剣なトーンで言った。
女性はぽかんと口を開けたまま、俺と自分のカゴを交互に見た。
「でも、私……甘いのも、辛いのも、ガッツリしたのも食べたい気分で……」
「思考力が低下している証拠です。あなたが今本当に求めているのは、油と糖分、そして適度な塩味の『調和』のはずだ。カゴを貸してください」
思わず手を伸ばし、彼女のカゴからメロンパンと激辛焼きそばを拾い上げ、元の陳列棚へ戻してしまった。
「あっ、ちょっと……」
「こっちへ」
あっけにとられている彼女を促し、レジ横の保温ケースの前へ向かう。
深夜2時。ケースの中でオレンジ色のライトに照らされているのは、数時間前に揚げられたであろう数種類のアメリカンドッグと、フライドチキンだけだった。
「アメリカン、ドッグ……?」
「そうです。深夜のジャンクフードの王道にして、完成された芸術品」
店員にアメリカンドッグを2つ注文し、財布から小銭を出した。
「いいですか。アメリカンドッグの真髄は、その衣にあります。外側は油を吸ってカリッとしているが、内側はほんのりと甘いスポンジ状になっている。そこにソーセージの塩気と肉汁が加わる。これ1つで、あなたが求めていた『甘さ』『塩気』『脂質』がすべて満たされる」
受け取った紙袋から1つを取り出し、彼女へ差し出した。袋越しに、揚げたての温もりがじんわりと伝わってくる。
「あ、お金……」
「いいです。俺の勝手なお節介ですから。それより、これを受け取ってください」
そして、レジ脇に置かれているディスペンパック――パキッと折って絞り出すタイプのケチャップとマスタードの容器――を2つ手にした。
「ただ食べるだけじゃない。重要なのはソースの配分です」
自動ドアを抜け、店外の少し薄暗いスペースへ移動すると、実演を兼ねて自分のディスペンパックを構えた。
「多くの人は、このソースを上から下まで均等にかけてしまう。だがそれは素人のやり方だ。まずは上部3分の1に、ケチャップだけを厚めに塗ります」
「ケチャップだけ……?」
「そう。最初の一口は、衣の甘さとケチャップの強烈な酸味のコントラストを楽しむ。そして中間層。ここにマスタードを集中させる。食べ進めて少し飽きが来そうなタイミングで、マスタードの鼻を抜ける刺激を入れるんだ。最後の根元の部分は、何もかけない。ソーセージの肉汁が一番溜まっている場所だからだ。衣と肉の旨味だけでフィニッシュする」
一気に語り終え、彼女の手元へと視線を移した。
女性はメガネをずり落ちそうにしながら、呆然と俺の話を聞いていた。
「さあ、冷めないうちに。言った通りにかけてみてください」
彼女は言われるがままに、ソースの容器をパキッと折り、不器用な手つきでケチャップとマスタードを配置した。
そして、小さく口を開け、上部の3分の1をかじった。
サクッ、という小気味良い音が深夜の空気に響いた。揚げたての油の香ばしい匂いが、ふわりと広がる。
彼女はゆっくりと咀嚼を始める。
その瞬間、強張っていた彼女の肩から、ふっと力が抜けたのがわかった。
黒縁メガネの奥の目が丸くなり、わずかに開いた口元が、ゆっくりと弧を描く。
「……あ」
声にならない吐息。
それは、昼間の会社では絶対に見ることのできないであろう、美味しいおやつを与えられた子供のような、無防備で純粋な笑顔だった。
「……おいしい」
ポツリとこぼれたその声には、深い安堵が滲んでいた。
「…甘くて、しょっぱくて……なんだこれ、めちゃくちゃ美味しい……っ」
「でしょう。マスタードの部分もいってみてください」
促されて彼女は2口目をかじり、今度は小さく身悶えした。
「ん……っ。辛いけど、これ、すごく合います。なんか、頭の奥のモヤモヤしたものが、すーっと晴れていくみたい……」
彼女は一心不乱にアメリカンドッグを食べ進め、あっという間に串だけにしてしまった。
「……ごちそうさまでした。なんだか、すごく生き返りました」
満足そうに息をつく彼女を見て、俺も自分のアメリカンドッグを頬張った。いつもの味だが、他人に美味いと言ってもらえたせいか、今日は特別美味しく感じた。
「あの、お代……」
「いいって言ったでしょう。じゃあ、気をつけて帰ってください」
片手を軽く上げて、駅の方角へと歩き出す。
見ず知らずの女性との、深夜のわずかな交流。名前も知らないし、おそらく二度と会うことはないだろう。だが、あの壊滅的な組み合わせを未然に防ぎ、真っ当なジャンクフードの喜びを伝えられたことに、俺は確かな満足感を覚えていた。
翌朝。
俺はいつものように、猫背でデスクに向かっていた。
「橋本さん。昨日の修正案、見ましたよ」
背後から、凍てつくような冷気が首筋を撫でた。いや、正確には、声だ。
李雪課長だ。
今日も隙のないスーツ姿で、鋭い視線を俺のモニターに向けている。
「計算根拠は揃えましたが、やはりこの利益率では厳しいですね。午後までに、別のアプローチで再計算してください」
「はい……承知しました」
「それと」
李課長は少しだけ声を潜めた。
「昨日、企画部の案件を手伝ったせいで、終電になったそうですね」
「あ、はい……」
また怒られる、と俺は首をすくめた。
李課長はわずかに目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「……目の下のクマ、ひどいですよ。仕事を引き受けるのはあなたの勝手ですが、それで自身のパフォーマンスを落としていてはプロ失格です。休息も業務の一環と考えてください」
「は、はい。気をつけます」
ツンとした態度で、李課長はヒールの音を一定のリズムで響かせながら自分の席へ戻っていった。完璧に糊付けされたシャツの襟と、一切のシワを許さないタイトスカートの後ろ姿を見送りながら、俺は内心で冷や汗をかきつつ、大きなため息を一つ吐き出した。
(やっぱり、李課長は怖いな……)
ふと、昨夜のコンビニで見かけた、あのジャージ姿の女性を思い出した。あの見事なまでの無防備な笑顔と、目の前で冷たい空気を放っている直属の上司。
人間、どこでどうストレスが爆発するかわからない。あの女性も、昼間は李課長のように厳しい世界で戦っているのだろうか。
そんな益体もないことを考えながら、俺は再び丸い背中をさらに丸め、エクセルのセルへと視線を落とした。




