『君がくれた夏』第19話『水無瀬葵』
気づけば、時計の針は午後十時三十分を指していた。
私と葵は、それまで何度も何度も思い出を振り返っていた。
四日間の旅行で楽しかったこと。
二人で笑ったこと。
お互いが、お互いに救われたこと。
話しても話しても、話は尽きなかった。
私も葵も、この時間が本当に大好きだった。
だからこそ――離れることが怖かった。
それでも、時間は待ってくれない。
時計の針は、少しずつ進んでいく。
そんな中、葵が突然口を開いた。
「美琴……一つお願いがあるの」
「……なに?」
葵は、私たちが旅行中に買ったお揃いのものを見つめながら話し始めた。
「ペアでお揃いにしたもの……美琴が持っててほしい」
「私が……?」
「うん」
葵は少し寂しそうに笑った。
「私が持ってたら……時間が経つと、きっとなくなっちゃうと思うの」
「だから、美琴が持っててほしい……」
「葵っていう子がいたってことを、いつでも思い出せるように……」
その言葉を聞いた瞬間、涙を堪えることができなくなった。
もう、別れがすぐそこまで近づいている。
その事実が、怖かった。
昔の私なら、きっと涙を堪えていたと思う。
人に自分の気持ちを見せることもなく、何もなかったように振る舞っていたと思う。
でも、今は違う。
葵と出会ってからもらったものは、どれも私にとって大切な宝物だった。
お揃いの白いクマの人形。
ひまわりのペンダント。
写真に残った、たくさんの思い出。
そして――葵と過ごした四日間そのもの。
全部が、私の大切な思い出だった。
だから、涙を堪えることなんてできなかった。
私たちは抱きしめ合ったまま、何度も涙を流した。
そして、葵とお揃いで買ったものを、ペアになるように並べていった。
離れてしまっても、お互いを思い出せるように。
そう願いながら。
しばらくすると、時計の針は午後十一時を指していた。
その時、葵がもう一度口を開いた。
「美琴……もう一つだけ、お願いを聞いてほしい」
私は涙を拭いながら、葵を見る。
「うん……。何かな?」
葵は少しだけ迷うようにしてから、ゆっくりと話し始めた。
「私には苗字がないって、話したでしょ?」
「うん……」
「だから……」
葵は私の目を見つめた。
「私に……『水無瀬』っていう苗字をくれないかな」
その言葉を聞いた瞬間、私は何も言えなくなった。
しばらく沈黙が続いた。
私の頭の中には、この先にあったかもしれない未来が浮かんでいた。
もし、もっと長く一緒にいられたら。
もし、この先もずっと一緒にいられたら。
一緒に笑って、また旅行をして。
いつか、二人が大人になって――。
そんな未来が、あったのかもしれない。
葵も、きっと同じことを考えていた。
だから、私たちは何も言えないまま、また涙を流した。
それでも私は、涙を拭って答えた。
「もちろん……」
「私と同じ苗字でいいなら……もちろん、いいよ」
葵は涙を流しながら、それでも嬉しそうに笑った。
「ありがとう……!」
そして葵は、私に向かってもう一度、自分の名前を名乗った。
「私、水無瀬葵」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がいっぱいになった。
「……水無瀬葵」
私は、その名前を何度も口にした。
「水無瀬葵……」
「うん……」
「水無瀬葵」
「うん」
葵は涙を浮かべながら、ずっと笑っていた。
その笑顔を、私は絶対に忘れたくないと思った。
「……葵」
「うん?」
「葵がいなくなったら……私、また前の私に戻っちゃうのかな」
声が震える。
「また、生きる意味を見つけられなくなるかもしれない……」
葵は少し黙ってから、優しく答えた。
「きっと……そうなるかもしれないね」
その言葉に、胸が締めつけられる。
けれど、葵は続けた。
「でも、その時は……この短い命で、必死に生きた私のことを思い出してよ」
「私と美琴が一緒にいられた時間は、短かったかもしれない」
「それでも私は、美琴と一緒に過ごせて幸せだった」
「だから……私の分も、必死に生きてほしい」
私は涙を拭いながら、葵を見る。
「……そんなこと言われたら、必死に生きるしか……ないじゃん……」
葵は泣きながら笑った。
「うん。だから、頑張って生きて」
その言葉が、胸の奥に残った。
私たちはそれからも、たくさんの思い出を話した。
この四日間のこと。
これから先のこと。
水無瀬葵という名前のこと。
カメラに残った二人の写真。
お揃いのものを見ながら、また思い出を話した。
何度も、何度も。
同じ話を繰り返しても、二人とも笑っていた。
もっと話したかった。
もっと一緒にいたかった。
もっと、この時間を続けたかった。
けれど――
時計の針は、静かに進んでいく。
気づけば、時刻は午後十一時三十分を指していた。
日付が変わるまで、あと三十分。
残された時間は、もう少ししかなかった。
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