3話
三月下旬
四階の窓から学校の敷地沿いに生えている桜の木が見える。四月が近づいてきて次々と開花を始めた桜の木はたくさんの花を咲かせていて、その花は昨日よりあきらかに増えていた。
ひよりは、手にパンパンのビニール袋を提げて部室に向かって歩き出した。
四つほどの誰もいない教室を横切る。昨日まで自分がいた教室を見てひよりは胸にぽっかりと穴が開いた気分になった。
昨日先生が言っていたことを思い出す。四階の教室は今年から生徒減少のせいで使われなくなるらしい。クラスの友人たちともう会えないわけではない、だけどそこであった思い出が何かに否定されたそんな気分だった。ひよりはすがるような思いで、引き戸に手をかける。当然といえば当然、それは開くことはなかった。
部室に行くまでの道のりは、昨日までの自分が足枷のようにまとわりついた。
部室に近づいていくと、『オカルト研究会』のネームプレートが見えてくる。そのネームプレートはひよりが書いたもので、昼休みに勝手に侵入する男子生徒がいたため仕方なく設置したものだ。
部室の扉はすんなりと開いた。
「ひよちゃん、おはよう」
「先輩、おはようございます!」
黒瀬先輩に挨拶して、ビニール袋を中央のテーブルに投げる。先輩はそのテーブルの右、手前で難しそうな本を読んでいた。
部室はいつも通り埃臭くて、いつも通り黒瀬先輩がいる。ひよりにとって部室は帰るべき場所だった。
「ツインテールにしたんだ、可愛い。ずっとそれにしときなよ」
黒瀬先輩は本を開いたまま、だけどこっちを見て言う。
顔が紅潮する。ここ最近、長い髪を生かしていろんな髪型にするのが好きで、いろいろな髪形を先輩に見せてきたが「ずっとそれにしときなよ」みたいなことを言われるのは初めてだった。
「あ、ありがとうございます」
その声は消え入るような声だった。
「どういたしまして」
先輩はにこっと笑う。
ひよりは頬をパチパチと叩く。気を取り直して、先輩の向かいに座り、中にたくさんの物が入ったビニール袋を引き寄せて、そのままひっくり返す。机の上に広がる、ラムネ、ポテチ、グミ、その他諸々の菓子たちに思わずにやける。ポテチの袋を破裂させないように慎重に開け、手を汚すことに何の抵抗も見せずにポテチの袋に素手を突っ込んで口に運んだ。あふれる塩気に口内が水分を求める。テーブルの上を一瞥するとコーラがない。
ひよりは愕然とした。コーラの買い忘れ。まさか自分がこんな初歩的なミスをするなんて思いもしなかった。
「せ、先輩、飲み物買ってきますけどなんかいりますか?」
「わさび・スパークリングお願いしていい?」
先輩から500円を貰って買ってきたコーラと先輩の希望の物をテーブルの上に置く。
「それ、うまいんですか?」
「うん。おいしいよ?飲む?」
先輩がペットボトルの蓋を外した瞬間、炭酸がはじける音が耳に響いた。
「ひよちゃんには特別に一口目をあげましょう」
誇らしげに、いたずらに先輩は言う。
差し出されたペットボトルの飲み口からは邪悪なにおいがする。反射的に顔をそむけると、先輩が「ほらほら」とペットボトルを顔に近づけてくる。その邪悪が近づいてくるにつれて、わさびのツンとした感じに、甘ったるくて酸っぱいものを足したような臭いが高まっていった。
のけぞるひよりに、黒瀬先輩は体を乗り出す。ペットボトルがひよりの口にさらに近づく。
「や、やめっ」
ひよりは必死に抵抗する。だがそんな努力もむなしく、ついに、ペットボトルがひよりの口に到達する。口に挿し込まれたそれは、今がチャンスだと言わんばかりに傾けられた。途端に流し込まれるわさび・スパークリング。
先輩の飲み物をこぼしてはいけないと、反射的に飲み込む。
一生忘れられない味だった。
「そうだ、今度心霊スポット行こうよ」
黒瀬先輩は満足そうに切り出した。
「いやですよ」
コーラで口直しをしたひよりは言う。
いらだっていた、というか拗ねていた。
「一人で行けばいいじゃないですか」
「そんな辛気臭いこと言わないで行こうよ」
「いーやーでーすー」
ひよりは意地になって言った。
実際はそこまで嫌じゃなかった。黒瀬先輩となら行ってもよかった。
「…そっか」
先輩は寂しそうな目をした後、何事もなかったかのように、また本を広げて本の世界に没入していってしまった。
あの日以降、先輩は部室に姿を現さなくなった。もちろん、先輩の家まで何回も行ってインターホンを鳴らして、電話もメールも何度もした、結果はどれも同じだった。
そのまま始業式の日が来た。
その日は、学校で目が覚めた。アイマスクをとって、ソファのリクライニングを起こし、目にかかった髪をどかす。あくびをしてそのまま伸びる。
ケータイが8時15分を知らせたようだ。
毛布をどけて立ち上がると、お気に入りのバンドのCDを流して、だる着から制服に着替える。部室にある水道を利用して、顔を洗い。簡単な化粧をする。
鏡を見ながらツインテールを作る。再び伸びをした後、つけっぱなしのテレビを消す。
机の上の飲みかけのわさび・スパークリングを一気飲みした。
ラジカセを切った後、飲み干したペットボトルとスクールバックをもって部室を後にする。
廊下には足音だけが響いた。
教室に到着し、自分の席へ向かった。すると、どこからともなく破裂音が鼓膜に響く。あたりを見回すと、数人の友人たちがひよりを囲んでタスキのようなものをかけられる。そして、次々と手のひらサイズのラッピングされた物を渡された。おめでとう。そんな言葉がまだ破裂音でキンキンしている耳に届いた。
そういえば、私、今日誕生日だった。
「みんな、ありがとうね」
ひよりは笑顔を作って見せた。
始業式は退屈だった。
校長や生徒指導教員の長い話はうんざりだった。ひよりはその間、三年が集まっているブロックを観察したが、ひよりのいる前のほうの場所だと十分に見ることができなかった。
ようやく退屈な講釈が終わって、始業式が行われた体育館から退場する。校舎と体育館をつなぐ渡り廊下は駐輪場と地つなぎになっていて、そこから校舎へ生徒全員が渡る。
ひよりは、途中で校舎へ行く列から抜け出して、数歩離れたことろで校舎へ向かう生徒を凝視する。クラスの列から外れるときにクラスメイトに声をかけられたが、適当にいなした。
続々と出てくる三年生の顔を一人も逃さず、頭の中の人物と照らし合わせる。黒髪ロングの生徒が通るたび心臓の圧が強くなった。なかなか見つからない。見過ごしてしまったのかとさえ思う。焦った。歯をかみしめた。数々の生徒に指をさされるが、ひよりにはそんなことを気にしている余裕はなかった。
たくさんの生徒が次々と無慈悲に流れていく。そしてついに、生徒の列は終わってしまった。空っぽの渡り廊下を見る目の焦点がブレる。
体中が一気に冷たくなって、喪失感が止まらない。まるで全身の血液が一瞬で無くなってしまったかのようだった。
その後、体育館から教員たちが出てくるまで、その場で立ち尽くしていた。
カーテンを閉め切っていて薄暗い部室はひよりを温かく受け入れた。
先輩がいつも使っている席、つまり部室に入って右側の手前に腰を下ろす。
「なんで来ないんだろう…」
ひよりは机の上で頭を抱えた。
来ない理由…わからなくてとっくに考えるのをやめていた。いや、とっくにわかっていたのかもしれない、それを私自身が認識したがっていないだけ。怖いだけ、自分に責任がかかってしまうのが怖いの?
そう。怖い、私のせいで黒瀬先輩が来なくなった、もしくは居なくなった。そう考えると潰されてしまいそう。自分を自分で壊してしまいそう。
黒瀬先輩から心霊スポットに誘われた日、家でそこのことについて調べたの。そこは大昔に掘られたトンネルだった。
細かい話はおいておいて、神隠しがあるって書いてあった、実例つきで、しかも大きな赤文字でね。そういう話は信じないのだけれど、次の日もその次の日も黒瀬先輩はやってこなかった。家にも行ったけど、誰もいない。メールとか電話もたくさんしたけど結果は同じだった。私はひどく動揺した。もちろん、最初は神隠しなんて信じてなかった。
でも、徐々に本当かと思い始めてきた。だってあの人がメールをこんなにも返さなかったことはなかった。
そうしたら、もし私があの時、一緒に行っていたらこんなことにはならなかったのかもしれないと思うと自分が死ぬほど憎かった。
だから、始業式まで待つことにした、優等生な先輩は絶対始業式には来る、学校にはくるって。家の事情とかで旅行に行ってたとかそんな理由に決まっていた。神隠しとかではなく現実的な理由で、これなかっただけだと信じた。自分を守るために。
でも黒瀬先輩は来なかった。
黒瀬先輩は私を助けてくれた。この場所をくれた。黒瀬先輩は私にとってヒーローだった。
額に押し当てた手から、涙がこぼれた。ひよりは声をあげて泣いていた。手をつたって涙は制服の裾を濡らした。
前方で物音が聞こえた気がして。赤くてぐしゃぐしゃになっている顔を持ち上げる。そこには人がいた。涙が視界を妨害していてよく見えない。カーテンの隙間から漏れる光が瞳の中できらりと光る。
手の甲で目をこすって再び前を向いた。
いままで、つぶれて息もできなかった体がふっと軽くなって宙に浮いた。体についためちゃくちゃな折り目がアイロンをかけたように平になり、再びひよりは泣いた。
それは歓喜の涙だった。あふれて止まらない涙を手の甲で何度もすくい上げる。何か言おうと努力するが言葉にしようとするとしゃくりあがって上手く音にならない。
どれくらい、そうしていたのかはわからない、ただ、声にならない声を上げて、そこで何かをしているその人を、黒瀬先輩を涙越しに見ている。
そうしていると、ついに、ちゃんとした声が出た、それは本当に見るに堪えないものだったと思う。
「おか…えり、!」
ただ、その返事は帰ってくることはなかった。




