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2話

 白石先輩に握られた手首は赤く変色していた。部室を出たころから手首を気にしていたが、元に戻る様子はない。


 よくホラー映画などで、幽霊に足や手をつかまれたとき、こうして跡となって残る描写がされることがある。が、まさか自分がこの状況になるとは思いもしなかった。


 部室でのことを思い出す。頭の中で回想すると、なかなかに腹が立ってきた。「触るな」「黙れ」「邪魔」彼女の鋭い言葉が頭の中を駆け巡る。その言葉がよぎるたびに砂消しゴムで体が削られている気がした。そうして、彼女に心のリソースを割いてしまっているのが嫌だった。


 部室のある四階から下る階段は人生で初めて重いものとなった。



「災難だったね」

 先輩はいつもの調子だ。

「最悪でしたよ…手も痛いし…」

 ジンジンと痛む手首を先輩の目の前に差し出す。先輩はそれを見るなり、「うわっ」とわざとらしい演技で驚いた。

「ごめんちゃい」

 両手をパンと合わせる彼女を見て大きなため息が出た。

「許しません」

「もーごめんて」

「絶対に許しません」

「…わかった。ジュースおごるから!許して」

 元々そこまで怒ってはいなかったが、恒一はおごられることにした。

 

「なにがいい?」

 白石先輩は自販機の前で仁王立ちして聞く。

「僕は、コーラでお願いします。先輩は何にするんですか?」


 先輩は迷いなくボタンを押した。


「ふっふっふ、わざわざ四階に戻ってきたということはこれしかなかろう!」

 取り出し口に手を突っ込んだ先輩は手に持ったものを見せびらかす。

 緑色のパッケージと中にあるドス黒い緑の液体が自販機の光に照らされて不気味に光っている。

「…わさび・スパークリング…?うまいんですか?それ」

「クッッソまずいよ」


 六時を過ぎた四階は切れかけの蛍光灯が弱々しく点滅していた。まだ完全に暗くなったわけではないが、外は分厚い雲のせいで夜といっていいくらい暗い。そこには炭酸が空気に溶ける音と自販機が唸る音しかなかった。


「黒瀬先輩はね、前まではあんなじゃなかったんだよ」

 静まった廊下に白石先輩の声が響く。

 肩が跳ねる。突然話しかけられてびっくりした。首をかしげると白石先輩が続ける。


「ほら、黒瀬先輩ってザ・清楚って見た目じゃん?先輩が二年の時はその通り清楚だったんだよ、見た目も性格も。ちょっとあれな時もあったけど、おしとやかで上品な感じ。」

 黒瀬先輩が清楚、そんなこと信じがたい。優しいほほ笑みを浮かべた黒瀬先輩が頭に浮かぶ、その黒瀬先輩が口を開くと、無表情になってさっきの冷たい攻撃的な言葉を吐いた。

「それってマジですか?」

「マジなんだって。春休み明けてから人が変わっちゃったみたいになってさ…」

「なんで変わっちゃったんですか?」

「………それがわかんないんだよねー」

 白石先輩は遠い目をした。


 春休み中に何かあったというのは明らかで、何かがあったにしてもそれは、並大抵のことではないのだろう。


「何かあったなら力になりたいんだけどね、教えてもらえないというか、まともに話せないから…」

「そうですね…」


 恒一は自己嫌悪した。自分勝手な都合で黒瀬先輩に話しかけて、勝手に傷ついて、先輩のことをちゃんと知ろうともせず、関わらないということを心の中とはいえ決めてしまっていた。


「ていうか、もう帰ろう?雨降ってきそう」

 先輩は窓のクレセント錠を外して外の様子を窺う。窓を開けた途端、梅雨の生臭いような臭いが体にまとわりついた。


 今にも降り出しそうな、今降っていてもおかしくない空気だが、まだ雨は降っていないようだ。


 同意すると、先輩はほぼ満タンの「わさび・スパークリング」を手に提げて、歩き出した。


「私、ここ嫌い」

 先輩は部室で見たホラー映画が尾を引いているのか不安な目をした。

「まさか、怖いんですか?」

「コウくんは平気なんだっけ」

 先輩はムッとした声を出した。

「僕はもちろん平気ですよ。心霊スポットにだって行きますからね、余裕ですよ」

 恒一は得意げに言う。


 実際心霊スポットにはよく行った。だが、恒一はかなりのビビりだった。心霊スポットを満足に楽しめた試しがない。現に今も、恒一はこれでもかというほど手汗をかいている。だが、それはこの瞬間を楽しんでいるとも言える。。


 ここを怖い場所、幽霊が出るかもしれない場所と脳が切り替わると途端に寒気がしてくる。そう認識させたのは白石先輩だった。



 O字型の校舎の合流点に階段はある。階段の頭上にある蛍光灯は比較的新しいのか、力強く辺りを照らしている。そこに近づくたびに恒一の心臓は平静を取り戻していった。


 二人は教室ひとつ分歩いたら階段、というところまで来た。となりからは「ふぅ」と胸をなでおろす音が聞こえる。それを聞いた恒一も胸をなでおろすことができた。


 突然、白石先輩が立ちどまった。


 恒一は白石先輩から何歩か進んだ時ようやく気がつく。先輩が止まったことに気づいたのではない。


 恒一はそれを見ると、先輩と同様に反射的に立ち止まった。幽霊とか、そういうのではない。


 それは、黒瀬先輩だった。 


 黒瀬先輩は上方向の階段へと向かっている。彼女の上履きと廊下が接地する甲高い音が廊下に響いた、その後ろ姿は何も変ではない、むしろ普通だった。だが、あきらかな違和感がある。


「屋上?」

 白石先輩が沈黙を破った。


 ここ四階の上は屋上しかない。だが、屋上はカギがかかっているはずだった。恒一は入学当初に身をもって知っていた。


「追いましょう」

「何言ってるの…!」

 先輩は前進しかけた恒一の肩をつかむ。

 

「もしかしたら、何にもわかんない黒瀬先輩のことが少しは知れるかもしれないんですよ。もしかしたら今の先輩になってしまった原因もわかるかもなんですよ。行くしかないでしょう!」


 黒瀬先輩に興味があった。春休みに何があったのか知りたかった。そのためにはこの機会は逃せない、この機会を逃したら先輩のことは二度とわからない。恒一は確信していた。


「…しょうがないなぁ」

 白石先輩は頭を掻いた後、しぶしぶと言った表情で承諾した。


 恒一はここで白石先輩が首を横に振っても一人で行くつもりだった。


 

 物音と足音を立てないようにと、荷物と上履きを下に置いてきた。上履きを脱いだその足は、靴下越しに地面の冷気が伝わってくる。


 二人は階段の踊り場にいた。正確に言えば、踊り場のひとつ下の段。そこから顔を出して上の様子を伺っている。


 屋上に向かう階段は暗い。蛍光灯は完全に切れていて、四階の明かりだけが頼りだ。階段の先を見ると壁がある。その右に屋上へとつながる扉があるはず、だがここからは見えない。そして、黒瀬先輩の姿はなかった。


「いない?」

 白石先輩が極めて小さい声を出す。


 恒一が胸の前でバツを作ると、先輩に肩をブンブン揺さぶられる。いないなら早くいけ、と言わんばかりだ。その手は揺さぶるのをやめると、小さく小刻みに揺れているのが分かった。


 一歩踏み出すと、肩に置かれたままの手は不安そうに恒一をつかんだ。白石先輩のほうを見るが、暗闇のせいで輪郭くらいしかわからなかった。


 音を出さないように、転ばないように、慎重に一歩一歩踏みだす。足を前に出すたびに何もない奈落に足を突っ込んで行くような気分だった。


 次に見るべきところは、踊り場からは死角だった扉の前だ。恒一は唾を飲む。最上段から三段下がったところから用心深く顔をのぞかせる。


 そこには闇しかなかった。


 振り返る。そして、背後で待っている白石先輩にバツをして見せた。いつの間にか肩から手は離されていた。


 階段を上がりきると銀色だと思われる扉が暗闇の中に浮かんでいた。


「黒瀬先輩、いないですね」

 恒一は小声で話す。


 ここにもいないということは、可能性はあと一つしかない。


「行きましょうか」

 白石先輩は「うん」とだけ言う。


 ドアノブに手をかける。簡単に回った。やはりカギは開いていた。


 扉をゆっくりと開けると、生暖かい空気が室内に駆け抜けた。屋上に足を出そうとすると怯む。室内とは明らかに違う、何かが違う。何が違うかは恒一にはわからなかった。ただそれは屋内か屋外かの違いどころではない、決定的な何かだ。


 屋上に足をつき、もう一方の足を出す。屋上の淀んだ空気に全身が浸った。吐き気を催す。開放的な屋上がなぜか人ひとり入るのがいっぱいの窮屈な空間に錯覚した。


 その原因はすぐに分かった。屋上に出てすぐに左を見るとそれはあった。


 広々とした空間に火のついたロウソクが円状に並んでいて、その中心には正座をしているような影がロウソクの火にに照らされている。


 その影は、微動だにしない。


 恒一は無風の屋上で立ち尽くす。白石先輩が後ろから追いついてきたようで、視界の端で先輩を捉えた。


 その影は、支えがなくなったように倒れた。


 恒一は白石先輩が走るのを見た。


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