したのか、家康 3
夏目次郎左衛門尉広次
「お味方、三方原にて武田軍と交戦。殿は……。殿は行方知れずになっており、その生死もわかっておりません」
あたりはすっかり闇に包まれている。
戦場から矢傷を負った伝令が、浜松城の本丸に駆け込んでくるなり、城の留守を任されている己へ告げた。
「なんだと。殿が行方知れずと……」
二刻ほど前、ここ浜松城を攻めるかと思われた武田軍が急に進行方向を西へ変じたのにたいし、殿は決戦を表明し兵を引き連れて出陣した。
徳川軍は織田の援軍も含めて八千であり、三万余りとみえる武田の大軍に挑めば負けると反対する家臣も多くいたが、殿の決意は固かった。
「夏目次郎左衛門尉を留守居とする」
己に城の守りを命じると、三方原台地の向こうへと去っていく武田軍の背を追った。
気が気ではなかった。
武田信玄はこれまでに七十もの戦をし、負けたのが三度しかないと言われるほどの戰巧者である。殿は三河一国を平定するのにも三年を費やした。
実はというと夏目広次も家康の敵として戦っていた。
三河一向一揆である。
それまでは松平元康と名乗っていた家康のもとで、何度か手柄を立てるほどに松平家の家臣として活躍してきたが、家康が一向宗に対し厳しく接するようになると、広次は反旗を翻したのである。
広次の配下の多くが本願寺門徒であり、宗徒としての権利を脅かす家康にたてつこうと息巻いたのである。
広次もこれに乗じることにした。
いや、そうせざるを得なかったのである。寝首をかかれてもおかしくないほどに配下の者たちは家康に憤っていた。
永禄六年(一五六三)から翌年にかけて一向宗は家康に抵抗し続けた。
野羽城に籠っていた広次は松平軍を大いに悩ませたが、裏では家康方の武将に内通していた。家康を裏切ったことに後ろめたさを感じていたからである。
野羽城の一向宗は広次が指揮していた。城主と言っていい。その本人が敵と内通していたのであるから野羽城はあっけなく陥落した。
捕らわれの身となった広次であったが、松平家臣のなかに昔から親しくしていた者もおり、広次の助命嘆願を彼らがしたことで帰参を許されることとなった。
この家康の寛大さに広次は人目もはばからず涙を流したものだった。
浜松城には武田軍から逃げてくる味方が次々と帰ってきていた。
彼らは敗走したことを正当化するために、あることないこと口にしていた。そのなかには家康に対する侮蔑も含まれていた。
「やはり武田の大軍に挑むなど無謀であったのだ」
「若輩者の殿さまがあの武勇を誇る武田軍に敵うはずなかったのだ」
「殿が我先にと一目散に逃げだしたというではないか。しかもすでにその首は取られたという風聞も流れておる」
「ここだけの話、殿は攻めかかってくる武田軍をみて恐ろしくなったあまり失禁したというぞ」
このような会話が広次の耳にまで届いていた。
我が身可愛さに殿より先に城へ逃げ延びた者どもが何を言うかと怒鳴りつけてやりたかった。しかし、三河一向一揆において主君を裏切った過去を持つ己にそんなことを堂々と言えるはずもなかった。
城へ落ち延びる者が最初にきてから半刻ほどが経っただろうか。
広次は居ても立っても居られなくなった。
「まだ殿は存命かもしれぬ。これより殿を探しに行く」
広次は配下の者にそう告げると、二十人ばかりを引き連れて暗闇の三方原台地へと飛び出していった。
「殿はおらんか」
矢傷、刀傷を負った味方とすれ違うたびに声をかけた。しかし、誰もが殿は見ていないという。
(あるいは、殿は本当に……)
諦めかけていた時であった。
草むらから味方と思われる男が己の近くに駆け寄ってくるなり、
「殿らしき方が、ここからすぐ近くの村にて身を隠しているとの情報を得ましてございます」
広次はそれを聞くなりすぐさまその村へと男に案内させた。
はたして、家康がいた。
しかもなんと、三十人ばかりの味方を集め、決死の突撃を敢行しようとしていたのである。
「夏目か。そちには城の留守を任せていたはずであるが……」
殿は己を見るなり目を大きく見開いて言ったが、その目に生気はなかった。
「すでに多くのものが城へ落ち延びておりまする。ここは浜松城までもそう遠くはございませぬ。急ぎ城へ参りましょう」
広次は一歩近づいた。
肥しのようなにおいがした。
ここは戦場である。血や火薬のにおいがあたりに充満している。
しかし確かにその雑多のにおいのなかに、鼻の奥深くを不快につく糞尿のそれがあった。十二月である。肥料をまくには時期が早すぎる。
(あの噂、本当だったか)
しかし、今はそのようなことを気にする暇はなかった。
広次は退却を説得するが、家康は頑として聞き耳を持たず、敵に挑む決意を崩さなかった。
「ならば、やむを得ますまい」
広次は配下に家康を力づくでも城まで送り届けるように命じると、周囲にいる味方へ告げた。
「我は徳川三河守家康である。武田信玄の首を取り、後世に名を残したい者は我に続け。我は家康なり」
十文字の槍を星空に突き上げながら叫んだ。
周りの味方は、この男が家康でないことは百も承知である。しばらくぽかんと口を開けていたが、広次の意図を察したのか、一斉に雄叫びを挙げた。
広次は駆け出した。
「待て。それは夏目次郎左衛門尉広次だ。家康はこのわしぞ」
背後で己の配下に体を押さえられているであろう殿が叫ぶのが聞こえた。
それでも広次は振り返らなかった。
「脱糞……したのか、家康」
ふいに笑いがこみ上げてきた。
これで過去の恩が返せると思うと清々しい思いがした。
頭上の月が最期の戦を見届けてやると言わんばかりに夜空に輝いていた。広次は最期の決戦の火ぶたを切るために敵を求めてどこまでも駆けていった。




