したのか、家康 2
成瀬藤蔵正義
「いまからでも遅くはございませぬ。急ぎ全軍を浜松城まで退かせましょう」
無二の親友である鳥居四郎左衛門忠広の口からこの言葉を聞いたとき、藤蔵は絶句した。
(話が違うではないか)
頭に血が上り思わず叫びかけるのを、腹に力を込めてとどめておくのがやっとであった。
「武田の大軍を前に臆したのではあるまいな、四郎左衛門」
どういうつもりだと眼で訴えながら言う。
西へ進軍していると思われた三万の武田軍が、突如として三方原台地の頂上に現れたのも束の間、味方めがけて攻めくだってきたのである。
のんきに幔幕を広げて軍議を開いていた徳川諸将は、あんぐりと口を開けて暫くそれを呆然と眺めていたが、次第に切迫した空気へと変わった。
この雰囲気を打ち破るかのように四郎左衛門が浜松城への撤退を進言したのである。
猶予はなかった。
しかし、なぜだか発言者の四郎左衛門が狼狽したようなそぶりをしていた。主の徳川家康と己を交互に見やりながら落ち着かない。まるで悪戯を親に隠している子供のようであった。
己は続けた。
「殿、弱虫の言うことになど耳を貸してはなりませぬ。ここで退いては後世の笑いものとなりましょう」
「弱虫呼ばわりされては黙っておれぬ。ここは敵から見て坂の下になりお味方の不利になりますゆえ、一度城まで退いて再度出陣してはいかがかと申したまで。決戦とならば仕方あるまい。藤蔵、どちらがより多くの首級を挙げるか競おうではないか」
己に言い返す四郎左衛門の顔はどこか安堵した表情をしていた。
鳥居四郎左衛門忠広と親しくなったのは、家康が本拠地を岡崎城から浜松城へ移した頃からであった。
浜松城を家康が築城したのは元亀元年(一五七〇)のことである。
もともと曳馬城と呼ばれていたこの城は今川領であったが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、今川家は没落の一途を辿った。それを機に徳川家康は独立を果たし、三河国を平定したのちに遠江へ侵攻。曳馬城を我が物としたのである。
家康に従って岡崎から家臣たちが浜松へ移住することとなり、各々に屋敷が割り当てられた。その際、四郎左衛門と己の屋敷が隣同士となったのである。
きっかけは行水であった。
家の敷地の間に設けられた井戸を共同で使用していた。
朝目覚めると体を清めるために井戸端へ行くのが己の習慣であったが、決まって四郎左衛門が行水していた。
(またおるわい)
はじめのうちは、己より若いくせに無骨で朴念仁のようなこの男のことが好かなかった。
しかし、毎朝のように顔を合わせていると自然と口を利くようになり、気がつけば互いに何でも腹を割って話しをするような仲になっていた。
「わしは武田に寝返ろうと思うておる」
突然思いつめたような顔で四郎左衛門が己に打ち明けたのは、元亀三年(一五七二)十一月中旬のことであった。
まさか堅物で忠義心と武勇だけが取り柄のこの男が徳川を離反するとは想像もしていなかった。
「おぬしの兄も、同意のうえか」
素っ頓狂な声が出た。
四郎左衛門の兄、鳥居元忠は家康の側近中の側近であり、己や四郎左衛門が背信するのとはわけが違った。
己の問いに四郎左衛門が首を横に振る。
藤蔵は長考の末、深く肯いてみせた。
一月ほど前から甲斐の武田信玄は、徳川領である遠江へ侵攻を開始しており、すでに高天神城や見付城、勾坂城といった東遠江の城を次々と陥落させていた。武田軍は破竹の勢いで浜松城へと迫ってきていたのである。
信玄によって家康が遠江から追い出されるのも時間の問題であるのは誰の目から見ても明らかであった。
それから毎朝武田へ寝返る密談を四郎左衛門と重ねた。
本隊同士の決戦となったならば、どちらか一方が機をみて家康の首を取り、一方は武田軍をいち早く家康本陣へ案内することに決めた。
「我らの背信を疑われているやもしれぬ」
ある日、四郎左衛門がそれとなく己に告げた。
武田内応のこと、勘付かれたのかもしれぬ。
己たちの屋敷の周囲に怪しい人影が、時折屋敷の中の様子を探っていたのに藤蔵も気づいていた。
そこでひとつ、芝居を打つことにした。
師走に入り、朝の寒さも身にこたえるようになっていた。
いつものように中庭に出ると四郎左衛門が中間に言いつけて湯を沸かさせていた。
普段から首を洗っておくのが真の武士というもの、隣の腰抜けとは心構えから違うのよと四郎左衛門は大きな声で言う。
それに対し、中間に持ってこさせた井戸水を浴びながら、湯で行水など弱虫のすること、真の武士は湯など使わず水でするものぞと応戦した。
これを聞いた四郎左衛門。今度は氷水に体を沈めながら、これに暫く体をつけておくと垢がよく落ちる、隣の腰抜けが同じことをできるとは思えぬが、とのたまいながら体を手拭いでこする。
これには、隣の弱虫は手拭いなんぞで垢が落ちると思うておるらしい、これでこすらねば頑固な垢は落ちぬよ、と砂のついた縄を四郎左衛門に投げやる。
さすがにこれには怒ったようで、先ほどから弱虫、弱虫と聞き捨てならぬわと、縄を投げ返してきた。それがぴしゃりと己の顔面に命中。
おのれ、いい加減にしろと脇に置いてあった刀に手を伸ばした己に、上等だと四郎左衛門も刀を持ち出す。
これを見ていた中間たちは、家の表に飛び出すと助けを求めた。
「これこれ、四郎左衛門、藤蔵、いかがいたしたのじゃ」
そこに現れたのはなんと、徳川家重臣、酒井左衛門尉忠次。
「二人ともやめぬか。いまは家臣同士で争うている場合ではない。近々、武田との大戦がある。その時、どちらが敵の首を多く討ち取れるかでこの喧嘩の勝敗を決めたらよい」
酒井忠次の仲裁でこの場は丸く収まった。
おそらく屋敷の周辺を嗅ぎまわっていたのも彼に違いなかった。
無論、事前に打ち合わせていた通りの芝居である。
こうして鳥居忠広と成瀬正義は殺し合いかねぬほどに互いに憎みあっているという噂が徳川家中に広まったのである。
火の如く武田軍が東遠江にある徳川方の城を次々に占拠し、天竜川を渡り浜松城の眼前の追分というところまで進軍してきたのは十二月二十二日の昼過ぎのことであった。
藤蔵は家康の下知に従い、浜松城にて籠城の仕度を整えていた。
しかし、あろうことか三万の武田軍は浜松城の目と鼻の先にまで進軍してきたかと思うと、突如として進路を反転。
浜松城ではなく、さらに西へと進路を変じたのである。
「我々を挑発しておるのか」
家康は歯噛みした。
三十を過ぎたばかりの家康に比べ、年齢と共に戦の経験を重ねた信玄の貫禄はけた違いである。これまでの戦歴でたったの三つしか黒星をつけたことがないという。
西進する信玄の狙いは徳川の本国、三河国であると家康はみた。
それを阻止すべく、決戦あるのみと言い張る家康に対し、家臣の多くが味方の兵の少なさを理由に反対した。
武田軍は三万、こちらは織田の援軍と合わせても八千であった。
「我が屋敷を無断で踏み入ろうとする者を屋敷の内にいながら咎めない者があろうか。敵が多勢だからと出陣して咎めないなどということがあってはならぬ。これは徳川の体面を保つ戦である」
家康の決心は揺るがなかった。
徳川軍は浜松城を出陣すると武田軍の背を追うようにして進軍した。
三方原台地を下ったときこそ決戦の火ぶたを切るときと、機を見計らいながら進んだ。
その台地に差し掛かる手前で再度軍議が開かれた。
天からは粉雪が舞っていた。
太陽も西へと傾き始めており、一刻もすれば周囲は闇に包まれるであろう。
夜襲の算段を話し合い、意見がまとまりかけたときである。
西日を背にその燃えるような赤を纏った軍勢が、三方原台地の頂上に現れた。その敵勢は鬨の声と共に、味方に一気に攻めかかってきたのである。
幔幕内にいた諸将はそれを呆然と眺めていた。
四郎左衛門が、問題の発言をしたのはこの次の瞬間であった。
いや、それまでに少し間があったように思う。
その一呼吸の間に、変事が起きた。
家康のいるあたりからくぐもったような低い放屁音。その直後に漂った肥しのような異臭。
この一瞬の出来事をなかったかのような言動をする四郎左衛門。
「いまからでも遅くはございませぬ。急ぎ全軍を浜松城まで退かせましょう」
これに真っ先に反対したのは己であった。
猶予はなかった。
即座に家康によって野戦の決断が下された。
徳川陣営は予想だにしなかった武田軍の急襲に備えようと、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
「鶴翼に展開せよ」
伝令が飛び交う。
藤蔵の陣所は本陣のすぐ前であった。
四郎左衛門は味方の最前線。
(あやつは己との約束を果たす気があるのだろうか)
先ほどの発言から、約束を反故にするのではないかと藤蔵には思われた。
(己のみでも武田に寝返るか)
背後にいるはずの家康の周囲は旗本衆で固く守られており、その首を取る機会はそうそう訪れそうにはなかった。
目の前を何人かの伝令が本陣の幔幕を出入りしている。
伝令の声は藤蔵のところまで辛うじて聞こえた。
はじめは、戦闘が開始された旨が家康に報告されていたが、時がたつにつれて戦況を伝えるものへと変わった。
「鳥居四郎左衛門殿、敵本陣近くまで攻め寄せているよしにございます」
前方で銃声と喧噪が聞こえ始めてから半刻ばかりがたった頃、家康にこう告げる伝令の声が藤蔵の耳に入った。
(四郎左衛門、武田にはつかぬ気か)
先ほどの軍議での発言。何かを隠すかのようであった。藤蔵はあの時の状況を思い出す。
丘の上に突如出現した敵の軍勢。驚きのあまり茫然と立ち尽くす諸将と家康。次の瞬間に聞こえた放屁音と不快な匂い。その異様な雰囲気をごまかすかのような四郎左衛門の発言。
「脱糞……したのか、家康」
無性に気になった。
先ほどまで遠くのほうでしていた合戦の音が間近に迫りつつある。
「武田の将、馬場美濃守が本陣めがけて攻め寄せて参ります」
伝令が周囲に叫びながら後ろの本陣へと駆けて行った。
(家康の首を取るならばそろそろか)
周囲の味方はすでに浮足立っている。全軍撤退も間もなくと思われた。
藤蔵は決心を固めると、本陣の幔幕へと駆けこんでいった。
家康はちょうど馬に跨ろうとしているところであった。幾度か家康の乗馬姿は見てきたが、やはりいつもに比べその所作に違和感があった。
家康はこちらに気が付いていない様子である。
(脱糞したところを味方に裏切られ討ち取られるとは、なんとも滑稽な大将ではないか)
馬上の家康に恐る恐る近づきつつ、鯉口を切った。その時、
「鳥居四郎左衛門殿、お討ち死に」
伝令が駆け込んでくるなり、そう告げた。
「何、だと」
家康ではなく藤蔵が答えていた。
「敵将、土屋右衛門尉昌続との一騎打ちの末に、その首討ち取られたよしにございます」
どうして……。
どうして四郎左衛門は最後まで寝返らなんだか。
あの発言の時、なにを思って撤退を提案したのか。
ふと藤蔵は家康を見上げた。刺し殺そうとしていた男である。
やはり近寄ると異臭がする。
ふと、四郎左衛門がなぜあの発言をしたのか、なんとなくわかった気がした。
「成瀬藤蔵。なぜそちがここにおる」
家康がいぶかしむように声をかけてきた。
「敵勢、ここ本陣近くまで迫ってきております。速やかに兵をおひき下され。ここは己が殿の身代わりとなり敵の進軍を食い止めまする」
そう言い残すと、幔幕の外へと飛び出していった。
己を呼び止める殿の声が背後から聞こえたような気がした。
本陣の正面を守っていた己の隊は、いままさに敵と交戦を開始しはじめたところであった。
腰の刀をすらりと抜く。
「徳川三河守家康である。手柄が欲しくば己に挑んでくるがいい」
あたりは暗くなりはじめていた。
(四郎左衛門と、討ち取った首の数をあの世で勘定し合うとするか)
藤蔵は雄叫びを上げながら、赤備えの軍勢の真っただ中へと駆け出していった。
空には粉雪が舞っていた。




