閑話:星と恋
読んで字のごとく。前話と次話の間のこと。
~常山のとある村~
漢の北部に位置する冀州の中で、さらに北部に位置するこの地にも、季節というものは存在する。
今の季節は夏。四季の中で最も暑い季節だ。大地には緑が繁り、空には太陽が燦々と輝いている。もう少し南に行けば、遠くに陽炎を見ることも叶うだろう。
そんな暑い中で、一人黙々と鍛練を行う少女がいた。彼女が鍛練を始めたのは朝日が登り始めた頃で、今は日差しが真上から降り注いでいる。それだけの時間、槍を振るっているのにも関わらず、少女の槍捌きが鈍っている様子はない。むしろ、鋭さを増しているほどだ。
「シッ!!」
穂先が霞んで見える程の鋭い突き。常人が見れば、槍を突き終わった姿しか見ることの出来ないそれを、少女は絶えず繰り返す。
「……ふぅ」
最後にその日一番とも言える渾身の突きを繰り出して、少女は一息つく。昼の鍛練は、これで終わりだ。
「……今日も戻らず。ですか。」
槍で体を支えながら、少女が村の外を見つめる。何処までも広がる広い大地。どれだけ目を凝らしても、そこに動くものなどない。ただ広いだけの平原の姿がある。
「……遅すぎだよ、終兄ぃ。」
何時もと変わらない景色を見た星は、今日も待ち人である兄貴分が来ないことを予感し、不貞腐れた様子で小さくため息を溢すのだった。
終が星と約束を交わして、既に三年と半年が経過していた。彼からは何の音沙汰もなく、また戻ってくる気配もない。彼が約束を破らないことを星はよく知っているため、何かあったのだろうと察することは出来ていた。
(戻ってきたら、絶対に文句を言ってやるんだから。)
察してはいたが、星は心配していなかった。彼が尋常ではなく強いことを知っていたからだ。あれからさらに熱を入れて行っていた鍛練の成果もあって、大の大人でも叶わないほど強くなっていたが、それでも最後にあった時の終より強くなったと思えなかった。そう思えるほどに終の強さは強烈で、だからこそ星は彼の無事を信じていた。
「雲姉ちゃん!」
しばらくの間平原を眺めていると、村の方から少年が駆け寄ってきた。村の中では、星の次に年長者となっている少年だ。
「どうした、夏候賛」
「夏候蘭だ!何時になったら覚えるんだよ!?」
「おお、すまない。それで何のようなのだ?夏候蓮」
「夏!候!蘭!だ!」
噛みつかんばかりに怒りを露にする少年、夏候蘭。そんな彼の姿を見て、少しだけ気が晴れた星は、くつくつと笑い声を上げる。その態度にさらに怒りそうになる夏候蘭だったが、終わることのない弄られ地獄に落ちるのは目に見えていたので、さっさと用件を告げて流れを断ち切ることにした。
「……趙華さんが呼んでるよ。話があるみたいだった。」
「母上が?」
まだまだ弄り足りなかった星だが、母が呼んでいるとなれば止めざるを得ない。
「ふむ、わかった。」
星は、ほんの少しだけ残念そうな様子で帰路に着く。その後ろに、夏候蘭も着いていく。彼の家と彼女の家は隣同士であるため、一緒に戻るとなると必然的に同じ道を行くことになるのだ。
「……竜兄ちゃん、今日も帰ってこなかったな。」
「……ああ」
星が終の帰りを待っていることは、この村に住むものなら誰もが知っていることだ。彼女が態々村の外まで出て鍛練を行っているのも、彼の帰りを逸早く知ることが出来るからである。
「きっと、何処かで寄り道してるだけだろうけど、流石に遅すぎだよな。」
「全くだ。正確に期日を定めておきながら、それを破るなど……会ったら必ず折檻せねば。」
「その時は、俺も手伝うよ。」
理由があるにせよ、約束を破っているのは事実。こうして、終の知らぬところで弟妹分からの折檻が確定されても仕方ないと言えば仕方のないことだ。
「……夏候蘭」
家が目に写る範囲まで来て、星が夏候蘭の名前を正しく呼んで立ち止まる。夏候蘭もまた、星に合わせて足を止める。彼女が自分の名を間違えずに呼ぶときは、真剣な話であることを知っていたため、自然と表情は引き締まっていた。
「私は、強くなっているか?」
長い沈黙の後、星はようやくその問いを口にする。
最後に見た背中にすら追い付けない今の自分が、本当に強くなっているのか。堂々と彼の妹分であると名乗れるようになっているのか。かつての終より弱いという不安が、そのまま言葉になって出ていた。彼女が珍しく漏らした、弱音なのだ。
「勿論だ。この近辺で姉ちゃんに敵うやつはいないよ。」
夏候蘭は即答する。実際星は強くなっている。この村どころか、近隣でも並び立つものなどいないほどに強くなった。彼女が一人で延々と鍛練を行っているのも、彼女と競い会えるほどの相手がいないからだ。
「雲姉ちゃんは強い!今の姉ちゃんなら竜兄ちゃんにも勝てる!絶対!」
「……そうか」
他人事なのに、何故か自分のことのように胸を張って言い切る夏候蘭に、星は嬉しそうな笑みを浮かべる。精一杯元気づけようとしてくれているのが分かったからだ。弟分とも言える存在から、そのようなことをされて嬉しくないはずがない。
「な、なんだよ!?」
「大事な弟分を、可愛がっているだけだ。そう恥ずかしがることもあるまい。」
「普通恥ずかしがるっつうの!!」
星は徐に手を伸ばすと、夏候蘭の頭を撫で始める。夏候蘭は、それに驚きながら抵抗するも、身体的にも実力的にも彼が星に叶う部分はない。抵抗虚しく、楽しげに笑う姉貴分が満足するまで一頻り撫でられるのだった。
「だああああ!!もう!!!俺は行くからな!!!」
頭から手が離れると同時に大声でそう言うと、逃げるように自身の家に駆けていく夏候蘭。その顔は羞恥心で真っ赤に染まっていた。
(いくつになっても可愛い奴だ。)
星は、そんな何時までも変わらない弟分の姿を微笑ましく思うのだった。
「母上、ただいま戻りました。」
「お帰りなさい。」
星が家に帰ると、彼女の母である愛が何時ものように微笑みながらそこにいた。何年経っても変わらない、若々しい容姿は姉妹と言っても通るほどで、星から見ても母と呼ぶのは近頃違和感を覚える程だ。
「今日も終君は帰ってこなかった?」
「ええ。全く、何処をほっつき歩いているのやら……」
愛の確認に星は、不機嫌そうな顔をする。帰ってこないことへの不安はないが、不満は溜まりに溜まっている。約束の期日から半年も過ぎ、未だに帰ってくる気配すらないとなれば、その不満の大きさは押して測れる。
「そうね。会ったら少しお話をする必要はあるわね。」
愛はそんな星の様子を見て、そう呟いた。まずは話を聞いてから。それで、納得出来る理由を終が言えなかった場合の話は、ここではしないでおこう。
「ところで、何か話があるとのことですが……」
「ああ、そうだったわ。」
終の話で逸れかかったが、星が帰ってきたのは愛が呼んだからだ。当然、話すことがある。
「明後日、晋陽に行くことになったの」
終が旅に出始めた辺りから、愛は定期的に晋陽に赴くようになっていた。頻度はそれ程多くは無く、それなりの期間を置いてから行くのだが、今回の出立は今までと比べると少し速い。
「…わかりました、留守はお任せくだされ。」
理由は聞かなかった。聞いても教えてくれないのだ。なにか大事な用があってのこととは分かるがそれ以上のことは分からない。分かっているのは、自分はいつも通り留守番をさせられるだろうということだけ。ならば、先んじて大丈夫であると、そういう意図を込めて言ったのだ。
「あなたも一緒に来るのよ。」
「はっ?」
そんな星の予想は裏切られた。彼女にとっていい意味でだ。
「終君が旅に出てしばらくになるわ。あなたもそろそろ、外の世界を見てもいいんじゃないかと思ったの」
星は、この村で産まれてから、一度も村から外に出たことがない。時折村を訪れる旅人や、村の大人達から伝え聞くだけで、自らの目で外を見たことがない。ほぼ世間知らずと言って差し支えない状態だ。
外に対する憧れが薄れたわけではない。むしろ、日増しに強くなっている。それでも留まっているのは、終との約束があるからだった。何時帰ってくるか分からない、だが必ず帰ってくるだろう彼のことを待ち続けているのだ。
「別に無理に来いとは「行きます!行かせてくだされ!」
しかし、それも限度があった。
既に終が旅に出た年と同じになる。背も伸びたし、槍の腕もかつてと比べるまでも無いほど上がっている。だが、まだ帰ってくる気配もない。もう彼女の我慢も限界が近く、終のことを待てなくなっていた。
「ふふ、わかったわ。なら、今のうちに準備を済ませなさい。」
「はい!」
バタバタと忙しなく準備をする星を、愛は優しげな表情で見つめている。
約束を先に破ったのは終である。少しばかり待たされることになっても文句は言えまい。
〜晋陽〜
「ここが、晋陽」
数日後。愛達は并州の州都、晋陽にたどり着いていた。州の都であるだけあってその規模は村とは比較にならない。道には人が溢れ、うるさいと感じるほどの喧騒が場を賑わしている。故郷では決して見られない光景に、星はただただ驚いていた
「どう?始めてきた州都の感想は」
「……兎に角、凄いとしか言えませぬ。何もかもが、故郷と違う。」
人の流れ、建物の大きさ、それ等を囲み護る城壁
村を出たことがない彼女には、目に映るもの全てが目新しいもので、興奮が一周回って落ち着いてしまうほどの衝撃を受けていた。
(終兄ぃの帰りが遅くなるのも納得だ。)
例え何事もない順調な旅路を送っていたとしても、これほど興味を引くものに溢れていれば、どうしても寄り道をしてみたくなるものだ。自身の兄貴分の性分を知っている星は、彼なら間違いなく興味のままに動くだろうと確信していた。それでも、約束だけは絶対に忘れないし破らないとも確信しているので、恐らく期限を過ぎてしまっている理由ではないとは思っている。
もし、これが理由であった場合は冗談抜きで終の身の保証は出来ない。そんなもしの時を想像していると、星はふと視線を感じた。
「ん?」
自身に向けられた視線を感じて星は辺りを見渡す。敵意のない、だが明確に視線を向けてきた者を探そうとした。だが、周囲には人が多く、見つけることは叶わなかった。
「どうしたの?星」
「いえ、なんでもございません。」
そう言っている間も、星は自身に向けられる視線を感じていた。しかし、悪意と呼べるほどの不快なものではなく、特に危険性も感じなかったので、そのまま無視して愛のあとに続くのだった。
その後、二人は城内にある小さな建物の前で止まった。中からは何かをすり潰す音が聞こえ、漢方薬特有の何とも言えない独特な匂いが漏れ出ている。どうやらここは薬屋らしい。
「ちょっと待ってて。すぐに戻ってくるから。」
そう言って愛は中に入っていった。星も薬にはあまり関心がなかったため、特に文句もなく外で待つことにした。
「むぅ」
待つことにはしたものの、ただ待つというのは退屈だ。中に入る気はないが、かと言ってジッとしているのも面白くない。さてどうしたものかと星は唸る。
(どうせなら、視線の主を見つけてみるか。)
まだ、視線は感じる。どうやら付けてきたらしい。先ほどと変わらず警戒を抱くほどのものを感じないが、そろそろ鬱陶しくなってきていた。何より、ただ待っているのは暇で仕方ない。
少しこの場を離れるくらいなら
「おまえ」
「のわぁ!?」
そう考えているところに声をかけられた。それもすぐ隣。吐息がかかるほどの至近距離からだ。そんな近くで気配もなく突然声を掛けられれば誰でも驚く。事実、星は驚いて変な声を出している。大きく距離を取るというおまけ付きだ。
そこに居たのは、深紅の髪と瞳を持つ少女だった。少女は少しだけ首を傾げて、無表情に星を見つめている。
少し離れていた場所から感じていた視線はもうない。目の前の少女以外に、意識を向けるものの存在は感じない。星は、この少女が自身に視線を送っていた人物であると確信した。
「い、いつの間に?」
「……おまえ、終のなに?」
驚く星の言葉を無視して、少女は改めて問いかける。星は自分の驚きを無視して一方的に質問を投げかける少女に対して少しムッとするも、その問いかけの中に自分が待ち続けている人物の名が出て、先ほどとは別の意味で驚く。
「……兄上のことを存じているのか?」
「兄?」
微かに驚きを表に出した少女は、上から下へと星を観察する。その間に、少女の顔には、分かりにくくはあるが疑いの色が浮かび始める。
「……似てない」
「それはそうだ。血の繋がりはないのだからな。」
少女は星を一頻り見つめると、ぽつりと言葉を零す。別段気にすることでもないので、星は肯定の意を示し、血縁関係にないことを教えた。
「なら、なんで?」
少女が首を傾げる。純粋に単純に疑問に思っているのが見て取れる。その様が何処か小動物を彷彿とさせ、星は癒やされる気持ちになった。
「あの人が私と同郷で、私よりも年上だからだ。義兄妹と言ったところであるな。」
「……そう」
星の補足を聞いて、少女はようやく得心がいったようで、傾げていた首を元に戻した。これでも見るものが見ればコロコロと表情を変えているのが分かるのだが、星の目には一貫して無表情のまま反応しているように見え、本当に理解してくれたのか若干不安だった。だが、出会ったばかりの相手が何を考えているかなどわからないので、分かってくれたと思うことにした。
「そういうあなたは、兄上の何なのだ?」
「恋は……」
そこまで言って口を閉じ、カクンと首を傾げた。どう言えばいいか迷っている感じの仕草だ。
「…?どうしたのだ?」
顔を俯かせて考える仕草をする少女に、星は何か難しいことを聞いただろうかと思いながら声を掛ける。それに対して反応はない。少女は考えている。この時点で星は、この少女がどのような人物なのか大まかに理解していたため、黙って彼女が口を開くのを待つ。
しばらくして、少女は頷いて顔を上げた。納得のいく答えが見つかったようだ。それを見た星は、どのような答えが出てくるのかと、少しだけ期待していた。
「恋は、終の、お嫁さん。」
「………はっ?」
完全に思考が停止していた。友であるなら無難な線、恋仲であるなら終を弄るネタになると考えていたところに、さらに一足飛びで嫁宣言である。流石に冗談ではないかと思うも、そんなことが出来る人物には到底見えない。そもそも少女の目が真剣そのものだ。少なくとも、少女の中では終と自身の関係はそうであると信じているらしい。それを理解したとき、星の脳は活動を停止した。
「……名前、何?」
止まった思考を懸命に再始動させようとしているところに、少女が問いかけてくる。まだ、混乱から完全に立ち直った訳ではないが、終に直接聞くのが一番いいと無理矢理納得させることでどうにか落ち着いた。
「これは失礼いたしました。私は趙雲、字は子龍と申します。」
「…呂布、奉先」
星が名乗り、少女が返す。なんやかんやで、義妹と親友の会合は良好なものとなりそうだ。
「星?誰と話しているの?」
ちょうど自己紹介を終えたところで、愛が建物から出てくる。手には薬が入っていると思わしき麻袋が握られており、用件を終えて出てきたのだと分かる。
「あっ、母上!」
「……趙華」
さらりと愛の名を呼ぶ恋。星、それに反応を示さず。終の嫁を宣言したこと以上の驚きなど存在しないのだ。
「あら、呂布ちゃんじゃない。久しぶりね。」
「……うん」
親しげに話しかける愛に、淡白な返事を返す恋。初対面でないことは分かっても、この短い会話ではどんな関係なのかわからない。星は終の嫁を宣言した彼女がどのような人物なのか、一刻も速く知りたかった。
「母上は、呂布殿のことをご存知だったのですか?」
「ええ、主の養子だから、ここに来る度によく顔を会わせるのよ。」
「…主?」
そして聞いた結果、余計分からなくなった。主という新たな情報が入ったからだ。愛が誰かに仕えているなんて聞いたことがない。
「星、お腹減っていないかしら?この近くに、メンマを使った美味しい料理を出すお店を知っているのよ。」
「メンマですと!?」
どういうことなのか問いただそうとした星だったが、メンマと聞いて思考が全て持っていかれた。体よく話をすり替えられた形だ。
「呂布ちゃんも、一緒にどう?」
「…(コク」
愛の誘いに恋は小さく頷く。時刻は昼近く。三人とも、ちょうどお腹が空き始めていた頃だった。食事をするにはちょうどいい。
そういうことで、三人は愛の言った料理店で食事をすることになったのだが……
「り、呂布殿は、見かけによらず健啖家なのですな。」
「……?」
カクンと首を傾げる恋の姿は、見ていて微笑ましいものだ。これで彼女の横に空の皿の山がなければ、星も素直に微笑むことができていた。実際に浮かべることができたのは引きつった顔だ。
「やっぱり、驚くわよね。」
「ええ、流石に……」
「でも、これだけ美味しいのだから、仕方ないんじゃないかしら?」
「まぁ、そうなの、でしょうか?」
問答をしている間にも皿は積み上がっていく。今日は驚くことの多い日だな、と悟ったように思いながら星は食事を口に運ぶ。
(……うん。美味だ。)
口の中いっぱいに広がるメンマの味。かつて終がお土産と称して食べさせてくれて以来、完全に虜となってしまった食材の味に、星は充足感に満たされる。
「ところで呂布殿。一つお尋ねしたいことがあるのですが。」
「……なに?」
「何故、私が義兄上の関係者と分かったのですか?」
メンマを食べて落ち着いたところで、星は疑問に思っていたことを聞く。
星と終の間に、血の繋がりはない。当然容姿に似通ったところはない。しかし、趙華との親子関係を考察して、そこから終のことを連想するのは不可能ではない。恐らくそうだろうとは思うが、実際はどうなのか気になったのだ。
「雰囲気が、終に似ていた。」
恋の口から出された答えは、星の予想とは違うものだった。二度も自分の予想を外されたことで、驚きよりも自信の読みの悪さに諦めの色のほうが強くなって来ており、あまり動揺することはなかった。
「似ている、ですか?」
「何となく」
「具体的には、どの辺りがでしょうか?」
「……わからない」
何度も言うが星と終の間に血の繋がりはない。祖先を遡ってみても繋がりはない。容姿が似通うことはまずない。なので雰囲気という大雑把ながらも明確な答えは、一応星を納得させることが出来た。しかし、そうなるとどんな雰囲気なのか気になるのが人情で、当然星も聞いたが返ってきた答えはわからない。
本人の様子から本当にわからないようだったので、星は釈然としない感情を抱きつつも「そうですか」と言うことしかできなかった。
「……子龍」
「なんでしょうか?」
「終は、恋が好き?」
むせた
それはもう盛大に咽た。口からメンマが吹き出なかったのが奇跡な程の咽っぷりだ。神速の突きに等しい、真っすぐかつ簡潔な好意の言葉は、星の精神を大いに揺さぶった。こんなことを何の脈絡もなく聞いてくるなど普通は想像できない。
「……藪から棒になんですか?」
「教えて」
相変わらずほとんど表情に変化はないが、雰囲気は至極真剣なものだ。
星は困った。そもそも彼女のことなど今日こうして出会うまで全く知ることがなかったからだ。知る機会がなかったために、聞く機会なども当然ないわけで、終が恋のことをどう思っているかなどわかるはずがない。
「……残念ながら、私には答えかねまする。と言うのも、兄上はあなたのことを話してくれませんでしたからな。」
そんなわけなのでこうして正直に言うしかないのである。恋は残念そうに顔を俯けた。自分は彼にとって話題に上げられることもないような女なのかと落ち込んでいるのだ。
実際のところは、星に知られると何かしら弄りの種にされそうな気がしたために、彼が彼女に関する情報を漏らさなかったというだけの話であるが、そんな事情を知るものはこの場にはいない。
「ご安心くだされ。兄上は決して、他人の好意を無下にする方ではございませぬ。素直に己の気持ちを打ち明ければ、きっとそれに答えてくれます。」
星は己が知る義兄を語る。落ち込んだ相手をそのまま放って置くことができるほど薄情な女ではない彼女は、どうにか元気づけようと言葉を続けたのだ。
「……ありがとう」
その言葉に恋は、小さくお礼を言った。上げた顔に暗さはなかった。
それから二人は共通の話題である、終の話をすることになる。前半はそれぞれが知っている彼の話をして、驚いたり笑ったりしていた。しかし、途中で終が自分とした約束を破って未だに帰って来ていないことに星が愚痴を零すと、恋も『またな』と言っておきながら今に至るまで会いに来ない彼の愚痴を零した。そこから先は、自分たちを放置している彼への不満のぶつけ合い。愛はそうなるのも仕方ない事情を知っているので、ただただ苦笑いを浮かべていた。
〜晋陽 城壁〜
「……そうですか。もう、そんなに経ったんですねぇ。」
空に登った月を眺めながら男が呟く。
乱雑に切り揃えられ、脂ぎった光沢を放つ黒髪。手入れの行き届いていない伸びるに任せた無精髭。極めつけは、麻布で出来たボロボロの衣服。山賊の仲間か浮浪者と言っても通用してしまう様相だが、これでも立派な役人であり、飛燕と渾名されるほどの武人であるのだから、世の中分からないものである。
「驚きよね。気がつけば、私も立派なオバサンよ。」
そんな怪しげな男の呟きを拾うのは、男と対照的な美女だ。
綺麗に肩口で切り揃えた空色の髪は、月光を受けて艷やかに輝いている。シミ一つ見られない綺麗な肌に、シワの一つも認められない若々しい整った顔。これで一児の母で男より年上だというのだから、世の中本当に分からないものである。
「そりゃ冗談で言ってるんですかい?」
「大真面目よ。」
パンッと乾いた音が辺りに木霊する。愛の拳を男が受け止めた音だ。
「何すんですか。」
「弱くなったでしょ。」
突然の攻撃に男が咎めるように問いかければ、そのような答えが帰ってくる。
またまたご冗談を
頭に浮かんだその言葉を、男は出すことが出来なかった。
男は武人だ。それも渾名が付くほどの一流の武人だ。ある程度の相手であるならば、見ただけでその実力を測ることも出来る。手合わせをすればもっと分かる。
だからこそ気づいた。気づけてしまった。
彼女の言葉は嘘ではなく、純然たる事実であると
「見た目が変わらずとも、実態はこんなものよ。只管に鍛え続けたものも、最早名残を残すのみになった。」
力なく拳が下ろされる。かつての愛を知る男は、その姿を見て信じられない顔をしていた。
否
男は信じたくなかった。自分が追い続けた背中が、追い越そうと誓った武人の姿が、己が知らぬ間に残滓となってしまっていた。かつて『牛角』と渾名された片鱗すらも、今の彼女には感じられない。それは男が彼女に勝つ機会が、永遠に失われたことを意味する。
「老いた牛は、鼠にも劣る。そう思わない?」
「頭……」
信じたくないに決まっている。男にとって、かつての彼女は紛れもなく憧れそのものだった。男女の仲となり、愛を育んだ後も、武人としての憧憬が色褪せることはない。かつての彼女は、男にとってそれだけの傑物だったのだ。
(勝ちたかったなぁ)
最早叶うことがない夢を想い、男は無念そうに俯いた。
「そんな顔しないの。今の頭はあなたでしょ?上党の『飛燕』が、こんなことで堕ちてどうするのよ。」
愛がそっと頬に手を添えて、男の顔を挙げさせる。男の赤い瞳に、愛の蒼い瞳が映り込む。かつて追い続けたものと寸分違わない、力強く、美しい瞳だ。
「確かに、武人としては終わってしまった。でも、それとは別の道を、あの子の母としての道をしっかりと歩めているわ。それこそ、貴方に自慢できるくらいにね。」
愛が星を育て、男が主を支える。
星を身籠った時に、二人の間に交わされた約束。
それは自分達が背負った業に対する報いであり、その業を星に背負わせないための親心であった。
「私達の子は、私が立派に育ててみせる。だから、お願い。―――――信様の助けになって上げて。」
「……お任せ下さい!頭!」
「そこは愛って呼んでよ。」
どれだけ月日が経っても相変わらずな男に、苦笑いを浮かべる愛。そんな愛の様子に、男は恥ずかしそうに頭を掻く。
二人の元義賊が城壁から去るのは、それからもうしばらくしてからだった。
地味だけどそこそこ有名人。
単騎駆のあのお方と同じ出身地と聞いて驚いた思い出あり。




