新たな約束、そして■■へ
旅に出る決意をし、村に居る最後の日となった今日。終は、何時もよりも遥かに早く目覚めていた。興奮して一睡もできずにいた訳ではないが、それでも抑えきれない熱というものは感じていたらしい。朝日もまだ上がっていない、薄暗い時刻。終は、再び寝つこうと思っていたが、目がスッキリしてしまいどうにも眠れなかった。
(・・・素振りでもするか。)
寝床から体を起こし、剣を片手に取って外に出る。外は薄暗かったが、完全な暗闇というものではない。むしろ、太陽が徐々に上り始めているため、段々と明るくなってきていた。
(案外、早すぎでもなかったな。)
家を出て、村を出て、少し離れた場所で剣を抜く。その刀身は、照らす物がないにも関わらず、はっきりとその形が分かるように白く輝いていた。その光は、時間とともに赤くなると次の瞬間には何事もなかったかのように消えていった。
終は、光がなくなったのを見ると剣を振るい始める。技も何もない、片手での素振り。慣れ親しんだ冷たい風が頬を撫でる中、風を切る音が辺りに響く。
「随分とお早い起床ですな。兄上。」
薄っすらと太陽が昇り始めた時、彼に声を掛けるものが現れた。何故、彼女が起きているのか、っと疑問には思ったが、この村で、彼をこう呼ぶ人物は彼女しかいない。
「そう言うおまえも、随分と早起きだと思うぞ。――――星。」
剣を振るうことを止めず、振り向くこともせず、自身の妹分である少女にそう答える。
「鶏が鳴く時刻になっても起きない兄上は存じないことかと思われますが、私はいつもこの時刻には起きていますぞ?」
「ああ、そうだったな。いつぞや鶏を使って叩き起こされたの思い出したわ。」
剣を振る力を一瞬だけ強め、再び先ほどと同じ一定の間隔で振るう。その様子を見ると、星は少し離れた場所にある岩の上に腰かけた。終の位置から、そこに居る星の顔は見えない。
「・・・嘘ですよ。あの時は、兄上をからかおうといつもより早起きしていただけです。―――――常の兄上ならば、この程度のことすぐ察しがつくはずでございましょう。」
剣を振る速度が落ち、風切り音が小さくなる。それでも、星の方を向くことはなく、剣を降り続けた。技も何もない、思考も感情もない、ただの形だけの振り。力をつけるためではなく、頭の中を整理するための行為。それを知っているから星は、それ以上言葉を紡がず、黙って彼の様子を見ていた。
そのまま、互いに言葉を発することなく時間が過ぎ、地平線に一筋の光が登り始める。
「行くのですか?」
その一言に、終は剣を振る手を止める。風切り音が止み、風の吹く音だけが辺りを包んだ。
「・・・竜が何時までも、川底で寝そべるなと言われたからな。」
剣を鞘に納め、そう答える。別にこんなことは言われなかったのだが、意味合いとしては間違いではないので終は気にしなかった。
「・・・いつ、帰ってくるのですか?」
星が続けて問いかける。その声は、何処か何時もと違う雰囲気を出していた。
「さぁな、それは俺にもわからん。風の向くまま、気の向くままってやつだな。」
それが何なのかを悟りつつも、軽い調子でそう答える。相変わらず背を向けているため、終から星の顔を見ることは出来ない。否、彼には見る必要がないのだ。どんな顔をしているかなど、生まれたときから彼女を見ていた彼には見なくても分かっていた。
「・・・私も共に、行くことは出来ませぬか?」
終が、かつて并州に向かうとき、星に語った夢。それを聞いて、同じものを見た彼女が、幼いながらも強く願ってした約束。あの時よりも背は伸びた。武の腕も上がった。だから、彼女は聞いた。彼と共に旅に出るのは、彼女の夢になっていたから。
「そりゃあ、無理だな。お前は、まだちっこい。連れていくわけにはいかねぇよ。」
それに終は、はっきりとそう言った。確かに約束をした。あのころよりも、背は伸び、腕も上がっているのは分かっていた。それでも、まだ彼女は幼い。彼も他人のことを言えないが、自分以上に幼い彼女に旅をさせることは無理だと考えていた。
(あの時の約束を破る気はない。ただ、それを果たすのは今じゃない。)
ある程度、自身の気持ちが落ち着いたのを確認すると、終は振り返って星を見た。顔は俯けて、その表情を見ることはやはり出来ない。だが、終は分かってた。彼女が今、何を思っているのか。
「・・・ずるい」
ぽつりと、星の口から言葉が漏れる。
「終兄ぃは、ずるいよ。」
他人をからかうような、そんな意思を感じさせる話し方ではない。何処か弱々しさを感じる話し方。それは、つい最近聞くことのなくなった、自身の妹分が寂しがった時によく聞いたものだった。
寂しい。傍から聞けば、確かにそんな風に聞こえないこともない。終もそう言った感情がこもっていることを感じていた。だが、それだけではないこともその言葉の中から感じ取っていた。そして、それが何なのかも
「私だって――――――外の世界を見てみたいのに・・・」
あれから星も少しは成長していた。少なくとも、寂しくともそれを表に出さない程度には感情を制御できるようにはなっている。だが、成長して彼と自分の差というべきものに気いたことで、別の感情を強く持つようになっていた。
焦り。
この年でありながら、非凡な才を持っている彼女だからこそ、彼が今の時点で自分が決して追いつけない場所に居ることを悟っていた。そして、彼が旅に出れば、その差は生涯を掛けても埋められないものになるとも子供ながらに理解できていた。だから、彼女はこれ以上差をつけられたくないと、置き去りにされたくないと思ったのだ。
彼の妹分であると、堂々と名乗れる人物であるために――――
「・・・三年。」
「―――――えっ?」
唐突に告げられた年数に、理解できなかった星は顔を上げた。
「三年だ。三年経ったら、お前も一緒に連れてってやる。」
終は、再度そう言った。星にも分かるように、大きな声でハッキリと告げる。
「・・・本当?」
「俺が約束を破ったことが一度でもあったか?」
「・・・・ない。」
「だろう?」
妹分の答えに、笑いながら答える終。そのやり取りも、ここ最近はすることが全くなくなったものだった。
「今のお前は、俺から見てもちっこいガキだ。そのまま連れて行ったとしても、常にお前のことを気に掛けて見聞を広めるどうこうの話じゃなくなる。そもそも、それじゃ一緒に旅しているとは言えねぇ。」
共に旅をすると言うのは、共に研鑽し会うと言う意味でもあり、有事の際には互いに助け合うものでもある。だから、自分が一方的に彼女を助ける旅になるのは、決して彼女が望むものではないと考えていた。
「だから精進しろ。俺がお前のことを心配できなくなるくらい強くなれ。」
そこで一旦言葉を切り、不敵な笑みを浮かべた。本人は気づいていないが、その笑顔は彼の母が、よく彼に見せる笑顔とうり二つだった。決して良いものを感じない、挑発的で意地の悪い、だが不快なものではない笑顔。
「それとも―――――このまま俺の背に隠れていたいか?」
その顔のまま、彼は挑発的な言葉を自身の妹分に投げかける。星は呆けたようにそれを見つめると、顔を俯け肩を震わせた。
「・・・やっぱり、終兄ぃはずるいよ。」
星は小さくそう呟き、岩から降りて終の前まで駆け寄った。その顔には、先ほどまで感じた弱々しい気配はない。普段通りの、普段通り以上に力強いものを感じさせる笑顔を湛えていた。
「今回は、兄上の口車に乗せられて、大人しくすることに致しましょう。」
星は、終の目の前に立つと、よく聞くようになった口調でそう言う。それを見て終は、『今のこいつは、こっちの方が似合っている』っと、普段は自身の感情を逆撫でする効果しかないと思っていたそれに、妙な安心感を覚えていた。
「ただし、戻ってきたら、必ず最初に勝負をしてもらいますぞ。」
そして、帰ってきたら成長したであろう妹分と勝負することを予約されて妙な疲労感を覚えた。
「・・・なんでだよ。」
「私を焚き付けたのは貴方だ。ならば、いつか追い越される覚悟も、出来ているのでしょう?」
「たかが三年で俺に追いつけると思うのか?」
「やってみなければわかりませぬ。」
やけに自信ありげに言ってのける星。それにさらに疲労感を覚え、ため息を吐きそうにもなった。しかし、それも星のためになるだろうと考え、自身の背を追い越さんとする妹分の思いを受け止めることにした。
「じゃあ、その時を楽しみにするとしよう。」
自分を見上げる妹分の頭に手を乗せる。そして、慰めるように、激励するように撫でた。星は、少しだけ恥ずかしそうに身じろぎしたが、その手を払うことはせず、されるがままに撫でられた。
「ええ、ですから―――――――無事に帰ってきてね。終兄ぃ。」
「言われなくとも帰ってくるさ――――――だから安心しろ。星。」
登り切った日を背にして立っていた終の姿に、未来の彼を見た星は、必ず追い越してみせるという決意を胸に抱きながら、頭に感じる心地よさを堪能した。
「よかったの?」
終が村を出てしばらく経った時、愛は槍の鍛錬をしている自身の娘に問いかけた。
「何が、です?」
「終君を見送らなくて。」
彼が旅に出たことは、縁の口から語られたことによって周知の事実となった。村人たちは、皆彼を見送れなかったことを残念そうにしていたが、星だけは特に気にした様子もなく、鍛錬をしていたのだ。星が心の底から彼を兄と慕っていることを知っていた愛は、それを不思議に思っていた。
「ご安心、くだされ。兄上とは、既に、話し終えて、います。」
それに星は、槍に模した長い棒を突く手を止めずに、ニヤリと笑って答えた。その答えに愛は、なるほど、っと納得すると、黙って星の鍛錬を眺めた。
「寂しくない?」
その一言に星の動きが止まる。そして、突きを放った姿勢のまま、少しだけ顔を俯かせた。
「・・・終兄ぃは――――」
ぽつり、と呟いた言葉を訂正するように棒を横凪に振るう。それと同時に、棒の先が折れたが、星は構うことなく構えを取ると、ひときわ鋭い突きを放つ。一切の無駄のない、一切の迷いのない、打たれれば防ぐ間もなく胸を穿つであろう一撃。その一撃を放ったことによって、棒には折れた先から無数の罅が走っていた。
「・・・兄上は、私に強くなれと言いました。自身が心配する必要がなくなるほど強くなって見せろと。」
棒を手放し、彼女は語りだす。背を向ける形になっているため、愛には彼女の表情が見えなかった。
「いずれこの村に戻るあの人は、私の想像を超えて強くなっているはず。今でさえ、あの人の背は遠く見えるのに、これ以上差をつけられれば背を見ることすら叶わなくなりましょう。」
だが、力強く語る彼女の声と合わさって、その背中は何時もより大きく見えていた。
「だから、私は強くなります。兄上の背を超えるために―――――兄上の妹であると胸を張れるようになるために―――‐誰よりも何よりも強くなる。」
強い決意を秘めた言葉を言い終えると共に、星は愛の方を振り返る。その顔は、昔から変わらず元気そうで、だが近頃はやけに悪戯が好きそうな雰囲気を出し始めた笑顔だ。
「そう思ったからこそ、まずは兄離れをすることに決めたのです。何時までもあの人に頼りきりの女では、あの人の妹分であると堂々と名乗れませんからな。」
子供は成長するものだ。それが僅かな時間であろうとも、きっかけさえあれば大きな成長を遂げる。それが一時的な別れであっても、その人の成長を促すものと成り得るのだ。今まで、何処か彼に甘えるところがあった彼女が、自ら彼から離れると言った。これは、非常に大きな一歩だ。
(ありがとう、終君。)
娘の成長を助けてくれた彼に、愛は心の中で感謝の言葉を述べた。
「雲姉ちゃん!!」
親子二人だけだった場所に声が響く。二人が声の方を向くと、星よりも少し幼い感じの少年が、星たちの方に駆けて来ていた。
「おお、お主は――――――」
星も愛も、その少年のことは知っている。終ほどではないが、彼との関係は終に次ぐほどの長さだ。ごく平凡な容姿、ごく平凡な能力、平均という言葉をそのまま固めて人の形にしたような少年。ある意味で、終と星の弟分と言うべき人物。その少年の名は――――
「・・・・誰だ?」
「ひでぇ!?いつも姉ちゃんたちと遊んでるのに忘れられてる!!」
コテン、と首を傾げてそう言われ、少年は抗議の声を上げる。名前のことは兎も角として、実際のところこの村での彼の存在感は、ハッキリ言ってない。皆無と言ってもよい。終と星の存在感が大きすぎるためと言えなくもないが、同年代の中でも彼の影の薄さは抜きんでている。そのため、彼の扱いは、おおむねこのような感じであった。
「ハハ、冗談だ。そう怒るな。」
「じゃあ、俺の名前を言ってみろよ!」
「夏候楙であろう?」
自信満々と言った表情で名前を間違える彼女に、少年は憤慨する。素で間違えているのであればともかく、明らかに態とやってるのが分かるような態度で言ったのだ。からかわれていると思って怒るのも、この年代の子供としては当然の反応と言えた。
「ちげぇよ!!俺の名前は夏侯蘭だ!!!」
「おっと、すまないな、夏侯恩。」
「言ったそばから間違えんなああああああ!!!!」
自身の名を名乗ってすぐに間違えられると言う事態に、彼は感情のままに叫びをあげた。その様子を、星は実に楽しいものを見る様な目で眺めていた。
「ふぅ・・・・娘の成長は喜ぶべきことだけど、他人をからかいすぎるところは注意しないと、ね。」
そして愛は、事態を収拾させるために、また少しやりすぎな所のある娘に『注意』をするために、一歩前に出るのだった。
「良かったのですか?」
村を出てからしばらくして、藍里が終に問いかける。
「何がだ?」
「別れを告げなくて。」
彼は村を出る際、誰にも見送られることはなかった。それもそのはず、彼は誰にも村を発つことを話さなかったからだ。そして村人の方も彼が何処かへ出かけたりするのは何時ものことと気にも留めなかったのが、見送る人のない旅の始まりという、なんとも物悲しい結果を生み出していた。
藍里は、これではあまりにも寂しいのではないかと考えたが
「別に。これでいいさ。」
終は何ともないようにそう言った。
その反応に、当然藍里は疑問を覚えた。それを察した終は訳を話す。
「最近は、村の周りもキナ臭くなってきていてな。やることが多くて、みんな色々と忙しいんだよ。そんなときに、こんなことで負担をかけさせたくないんだ。」
以前、彼が并州に向かった時に、縁が匈奴の軍勢を撃退したが、その全てを撃滅したわけではなく、未だに周辺で小競り合いが続いている。異民族の住む場所に最も近いわけではないが、遠いわけでもないため、これは油断がならないことだ。それだけでなく、漢の威光が衰え始めたことにより、常山付近にも賊の影がちらつくようになり始めた。これもこれで、警戒すべき事態。しかも、官軍も頼りにできないほどの辺鄙な場所であるため、いざとなったら自分達の身は自分たちで守るしかない。だからこそ、村一丸となっての防備の強化をしているのであった。
(つっても、もう大体済んでいるから負担も何もないんだけどな。)
村の防備が整っていないのであれば、終もこれほどあっさりと村を出ることはしなかった。いくら自分本意で動くことが多い男とは言え、ある程度の良識は弁えている。
彼が言ったことは、この事実によって明らかに根拠に乏しい理由になった。なら、彼の真意は何処にあるのか?
「それに――――」
終は一旦言葉を切ると、ニヤリと笑って藍里を見る。それは、一見すれば相手をからかう感じのそれだが、よく見ると少しだけ無理に笑っているような雰囲気があった。
「今生の別れってわけでもねぇのに、『さよなら』って言うのも気に食わねぇからな。」
カッコつけながら、かなりひねた言い方をする。それは、深読みすることも出来るものだが、彼が言いたいことにそんなに深い意味はなく至極単純な理由である。
ようは、別れを告げるのが恥ずかしかっただけなのだ。それを誰にも悟られたくなかったから、誰にも告げることをしなかったということだ。
「・・・正直になっても、誰も攻めはしないと思いますよ。」
「誰がどうとかじゃねぇ。これは俺の問題だ。」
「・・・・そういうことにしておきましょう。」
藍里の何もかもを知ったような態度に、終は不満そうな顔をした。しかし、これ以上何かを言えば、藪をつついて蛇を出すことになりかねないと考え、彼はこの話題をここで切ることにした。
それから、互いに会話をすることなくしばらく歩くと――――
「そう言えば、目的地は南皮って言ってたけど、いったい何をしに行くんだ?」
終がふと思い出したかのように疑問を呈した。具体的にどういったことをするのかを聞いていなかったことと、何となくこの沈黙に耐えられなかった末の質問だ。
「ああ、それですが、もうやめました。」
「・・・・へっ?」
あっさりとした答えに、終はまぬけな声を出す。それを見て藍里は説明をした。
「私が南皮に向かいたかったのは、袁紹と言う人物に興味を持ったからです。袁家は四世三公の名家。その次期当主と目される人物がどれほどであるのか、一目見てみたかった。」
そう言って彼女は、とても残念そうに表情を暗くし―――
「しかし、彼女は洛陽に行ってしまい、もう南皮にはいないと聞きました。目的の人物がいないのであれば、行っても大したものは得られない。そう判断して、止めたのです。」
今にもため息を吐きそうなほどの沈み具合でそう語り終えた。
(なぁるほど。だから、あんなに焦ってたのか。)
満身創痍と言うほどではなかったが、決して準備万端と言える状態でなかったにも関わらず去ろうとした彼女を思い出して得心した。しかし、同時にもう一つの疑問が頭をよぎる。
「じゃあ、俺たちは今、何処に向かっているんだ?」
いくら旅が自由なものとは言え、ある程度は目的地のようなものを持っているものである。ただ単に噂を聞いた、何となく面白そうな気配を感じた、特に意味はないが行きたくなった・・・どのような理由であれ、向かうべき場所と言うのはある程度決まるものだ。
南皮へは、もう行かない。ならば、今は何処へ向かっているのか。
「―――琢県のとある村に、私塾を開いている人物がいる。っと言う話をご存じですか?」
藍里の問いに首を横に振る。それを見て彼女は、より詳細に目的を話した。
「その人物の名は盧植と言って、非常に博学であり、また人望の厚い人物であると聞いています。そのような人物であるのならば、一度会って、噂通りの人物であるなら教えを請いたいと思っているのです。」
「へぇ・・・そうなのか。」
少し熱の入った様子で語る藍里に、冷めて見えるように返す終。しかし、内心では興奮を覚えていた。それは、盧植と言う人物に興味を抱いたからではない。全く関心を持たなかったわけではないが、彼の内に宿った熱の源は高名な人物に会える喜びではなかった。
(なんか、面白い出会いがありそうだな。)
それは、何の根拠もないただの勘。だが、彼にとっては、自身の興奮を全肯定する理由になる。
終は、口元に隠しきれない笑みを答えながら、目指す先を見つめ続けた。
~琢県のとある村~
その村には、大きな桑の木があった。桑の木としては、非常に大きいそれは、村の象徴的なものとしてそれを奉る人がいるほどだ。そのためか、その村の名前も、その木に因んだものとなっている。そんな村には、ちょっとした私塾があり、近場からそこそこの人数の生徒が集まる程度には有名であった。
「桃香ちゃん、本当に大丈夫?」
「心配しないでください、風鈴先生。ちょっと、近くの村まで筵を売りにいくだけですから。」
その私塾の前で、会話をする二人の人物。
一人は、白髪で眼鏡を掛けた、優しそうな雰囲気を晒している女性。もう一人は、桃色の髪で立派な剣を腰に携えた、明るく元気そうな少女。
白髪の女性の名は盧植。この村で私塾を営んでいる人物で、近隣でも名が知れている識者であり、またその人柄から多くの人に慕われている人物である。
対する桃色の髪の少女の名は劉備。この村で母と二人で暮らし、筵を売って生計を立てている少女であり、盧植の生徒の一人である。
どちらも容姿に優れており、この村では目立った人物たちだった。
「でもね、最近はこの近くも盗賊が増えたから、やっぱり風鈴は心配かなって。」
「大丈夫です!もしもの時は全速力で逃げますから!」
逃げ足には自信があるんです、っと褒めて良いのか悪いのかよくわからないことを自信満々の表情で言う劉備。それに盧植は、彼女らしい答え方だと苦笑いを浮かべた。
彼女の身体能力は、お世辞にも高いとは言えない。時々なにもないところで転んだりすることもあるため、むしろ低いと言えた。そんな彼女が有事の際に逃げることができるかと言うと、大いに不安が残る。
「なら、約束して。絶対、無理はしないって。」
だが、盧植はそれ以上なにも言わなかった。自分がなにをいったところで、彼女が止まることはないと悟っていたからだ。
そもそも、劉備が一人で蓆を売りに行くことになってしまったのは、彼女の母が病にかかったからだ。命に別状があるほどのものではないが、村を出て蓆を売りに行くのが困難になる程度には重いものだった。だから、彼女は母に代わって自分が蓆を売りに行くと決意し、今日この時に至った。
折が悪いことに、そこそこ武に精通している彼女の友人は、実家の都合で村にはいない。彼女は、本当の意味で一人で村を発たなければならないのだ。
「はい!」
蘆植の言葉に元気よく返事をすると、背中に蓆を背負う。そこに一人で行かねばならないことに対する悲観的な感情はない。彼女がいつもしている底抜けに明るい、見る人を魅了する笑顔がそこにあった。蘆植はその笑顔を見ると、自分でも不思議に思うほどに、何の根拠もなく彼女なら大丈夫であると思えてしまうのだ。
「それじゃあ、いってきます!」
「いってらっしゃい。桃香ちゃん。」
だから、笑って見送る。心の内に、自身の大切な教え子の無事を祈りながら。
盧植は、その後劉備の後ろ姿が完全に見えなくなるまで彼女を見送った。劉備もまた、何度も振り返っては手を振った。しばらくすると、彼女の姿は平原の向こうへと消えていった。盧植は、劉備が見えなくなったのを確認すると、彼女が旅立った先の空を見る。何処までも広がる青空の中で、彼女の歩いた先に向かって、真っ直ぐに細長い雲が走っていた。
その雲の形を、まるで龍が飛び立った後のようだと、彼女は若干の寂しさを感じながら嬉しそうに見つめ続けた。




