第8話 琥珀の楔
「家まで買って、家具も服も揃えて……そこまでして、どうして俺なんだ?」
新居を見せてもらってから、ずっと聞きたかった。
あの部屋には、俺が暮らすことを前提にしたものが何もかも揃っていた。食器も寝具も、クローゼットに掛けられた服まで俺のサイズだった。
こはくが本気で俺との暮らしを望んでいることは、嫌でも分かる。
それなのに、どうして俺なのかだけが分からなかった。
こはくには、俺なんかよりずっと広い世界がある。まだ若いのに自分で会社まで立ち上げて、俺よりずっと多くの人と関わっている。
そんなこはくが、八年前の俺にこだわり続ける理由が知りたかった。
「秋人は、あの夜のことを何も知らないんだよ」
「……あの夜?」
「ハロウィンの夜」
十月三十一日。俺の前に現れた、小さな男の子。
白い着物に狐の耳、大きな尻尾までついた姿を見て、ずいぶん凝った仮装だと思った。
その子は「トリック・オア・トリート」と言って、俺が用意していた菓子の中から栗味のチョコを選んだ。
『栗、大好き』
そう言って笑ったとき、尻尾まで嬉しそうに揺れていた。
琥珀色の瞳を見ながら、俺はなんとなく「こはく」と呼んだ。
『それ、大好き!』
帰る前には小指を絡めて、「また来年」と約束した。
俺にとっては、何気ない一夜だった。
「僕ね、あのとき秋人から名前をもらったでしょう?」
「……ああ」
「妖狐にとって、名前ってすごく大事なんだ。特に、まだ名前を持っていなかった僕が、初めて会った人からもらった名前ならね」
「名前をもらうと、どうなるんだ?」
「その人とは、特別な縁で結ばれるんだよ」
「特別な縁?」
「うん。名前をくれた人から最初に食べ物をもらうと、その人をつがいとして受け入れるの」
「……つがい?」
「一生を一緒に生きる相手。人間でいうなら、結婚相手に近いかな」
「じゃあ……」
あの夜、俺がこはくと呼んで、栗チョコを渡した。
「……あの栗チョコが?」
「うん」
「それで、俺がつがいになったのか?」
「僕にとっては、そうだよ」
「俺は何も知らなかったぞ」
「わかってるよ」
「じゃあ、なんで……」
「秋人に何かを背負わせたいわけじゃない。ただ、僕にとっては、あれが全てだったんだ」
部屋の隅に置かれた小さな箱には、あの日の栗チョコのアルミ箔が入っている。
「……ずっと持ってるんだよな」
「うん」
「八年間も?」
「秋人がくれたものだから」
俺にとっては、食べ終えた菓子の包み紙にすぎない。
こはくにとっては違った。
俺が何気なく渡したものを、八年間も大切に持ち続けていた。
「だから、毎年会いにきたのか」
「また来年って約束したから」
「俺が覚えてるかも分からないのに?」
「それでも来るよ。秋人が約束してくれたから」
八年前の俺は、来年もまた会えるだろうかと思っていただけだった。
何気なく口にした「また来年」を、こはくは八年間も忘れずにいた。
「……どうして、そこまで俺なんだよ」
「秋人だから」
「それじゃ理由になってないだろ」
「僕には、それで十分なんだよ」
名前をくれたことも、栗チョコをくれたことも、また来年と約束したことも。
俺が忘れてしまいそうなほど小さな出来事を、こはくは八年間ずっと大切にしていた。
「……八年も待つなんて、馬鹿だな」
「うん。でも、待っててよかった」
「何がそんなに嬉しいんだよ」
「秋人が、今も僕の隣にいてくれること」
何も返せなかった。
背中に回された腕を、今日は振りほどく気になれない。
「……まだ、答えは出せないからな」
「うん」
「でも、今日は……もう少し、このままでいい?」
こはくの尻尾が、大きく揺れた。




