第6話 琥珀色の朝に甘い罠
十一月一日
カーテンの隙間から朝の光が差し込み、俺は目を覚ました。
まだ眠気の残る頭で天井を眺めていると、昨夜のことが次々と浮かんでくる。
四年ぶりに帰ってきたこはくは、昔なら腕の中にすっぽり収まっていた小さな狐だった。今では、俺よりずっと大きな身体になっている。
あいつは昔と変わらない顔で、とんでもないことばかり言ってくる。
「……朝から思い出すなよ、俺」
自分に言い聞かせるように呟き、布団を頭までかぶった。
しばらくして、ようやく起き上がる。
部屋を見回しても、昨夜までそこにいたこはくの姿がない。
「……あいつ、どこ行った?」
テーブルの上には、メモが一枚置かれていた。
『朝ごはん作ってるね』
「……何でだよ」
口元が勝手に緩む。
四年前もそうだった。
こはくは何かをしてほしいとき、いつも一生懸命だった。
今は身体だけが、あの頃とは比べものにならないくらい大きい。
その身体で昔と同じように甘えてくるのだから、どうにも調子が狂う。
寝室を出ると、キッチンのほうからいい匂いが漂ってきた。
その向こうから、かすかな鼻歌まで聞こえてくる。
「おはよう、秋人!」
振り向いたこはくは、鼻歌を歌いながら身体まで揺らしていた。
「……お前、朝から何してんだ」
「え? 何が?」
「揺れるのやめろ」
「無理」
即答されて、俺は呆れながらこはくを見る。
そのとき、着ている服に気づいた。
「……お前、その服」
「うん。借りた」
こはくが着ているのは、俺のスウェットだった。
昔なら普通に貸せたサイズなのに、今のこはくが着ると、肩や胸元が少し窮屈そうに張っている。
「勝手に着たのか?」
「うん」
「……なんで」
「秋人の匂いがするから」
「朝からそういうこと言うな」
「嫌だった?」
途端に、こはくの耳がしゅんと倒れた。
さっきまで機嫌よく揺れていた尻尾まで、力をなくしている。
「……いや、別に」
そう答えた瞬間、耳がぴんと立った。
尻尾も、待っていたみたいに揺れ始める。
「分かりやすっ!」
「だって、秋人が嫌じゃないなら嬉しいもん」
「お前、本当に変わらないな」
「変わったよ。大きくなった」
「そういう意味じゃない」
首を傾げたこはくが、俺の顔を覗き込む。
「じゃあ、何?」
「……何でもない」
これ以上言うと、また変な方向へ話が進みそうだった。
「ほら。朝ごはん、できたのか?」
「うん。座ってて」
促されるまま、テーブルにつく。
並べられていたのは、出汁巻き卵に栗の炊き込みご飯、それから味噌汁だった。
「……ちゃんとしてる」
「頑張ったから」
「料理まで?」
「秋人に食べてもらいたくて。修行の合間に覚えたんだ」
「……四年間で?」
「うん」
当たり前のように答えるこはくを見て、俺の知らない四年間で、こいつはいったいどれだけのことを覚えたんだろうと思った。
「ほら、早く食べて」
「まだ熱いだろ」
「冷める前に食べてほしい」
「はいはい」
箸を取って、出汁巻き卵を口に運ぶ。
「……うまい」
「ほんと?」
「ああ」
「もう一回言って」
「何でだよ」
「嬉しいから」
「……うまい。ちゃんと美味いよ」
「やった」
こはくの顔がぱっと明るくなる。
尻尾まで嬉しそうに揺れていた。
「そういえば」
「ん?」
「昨日、仕事も覚えたって言ってたよな」
「ああ」
こはくは味噌汁をよそいながら頷いた。
「仕事して、お金も貯めたよ」
「貯めたって、どのくらい?」
「秋人が困らないくらい」
「曖昧だな」
「じゃあ、これ見て」
スマホの画面を見せられる。
そこに並んでいた会社名を眺めて、俺はしばらく言葉を失った。
「……何これ」
「僕が関わってる会社」
「……いくつあるんだよ」
「いくつかあるよ」
「いくつかって……」
その数を改めて数える気にもなれず、俺はスマホから顔を上げた。
「お前、四年間で何してたんだよ」
「働いてた」
「それは聞いた」
「秋人と暮らすなら、困らないようにしたかったから」
あまりにも真っ直ぐ言われて、返す言葉に困る。
「だからって、会社をいくつも持つな」
「持つ必要があったから」
「何でだよ」
「秋人を一生養うって約束したでしょ?」
「……本気だったんだな」
「もちろん」
あの頃は、ただの子狐が口にした可愛らしい約束だと思っていた。
まさか四年後、本当に実現させようとして帰ってくるとは思わない。
「でも、秋人が働きたいなら働いていいよ」
「……そこはちゃんと分かってるんだな」
「うん」
「俺は俺で働く」
「分かった」
あっさり返されて、少し拍子抜けする。
こはくはスマホを伏せると、何か思い出したように顔を上げた。
「そうだ、秋人」
「何だ?」
「もう一つ、見てほしいものがある」
「まだあるのかよ」
「うん」
嫌な予感しかしない。
こはくが再びスマホを操作すると、今度は一枚の写真が表示された。
そこに映っていたのは、街を見下ろすように建つ、とんでもなく大きなタワーマンションだった。
「……何これ」
「家」
「……誰の?」
「秋人の」
「は?」
「買ったよ」
「買った!?」
「うん」
「何で!?」
「一緒に暮らすなら、今の部屋じゃ狭いでしょ?」
「……一緒に暮らすって、俺はまだ返事してないぞ」
「あ……」
こはくの耳が、少しだけ下がる。
「そうだった」
「そうだよ」
「……ごめん」
「分かればいい」
「でも、もう買っちゃった」
「返品できるのか?」
「……たぶん、できない」
「お前な……」
呆れてため息が漏れる。
会社まで作るようなやつだから、まさかとは思っていた。
まさか本当に、家まで先回りして用意しているとは思わなかった。
「秋人」
「ん?」
「いつか、一緒に住んでくれる?」
「……考えとく」
「本当?」
「ああ」
「ほんとに?」
「しつこい」
「だって……」
こはくの目が、分かりやすいくらい明るくなる。
「嬉しい」
「まだ『住む』って決めたわけじゃないぞ」
「分かってる」
そう答えるこはくの尻尾だけが、ぶんぶんと勢いよく揺れていた。
「……お前、尻尾」
「止まらない」
「止めろよ」
「無理」
「うわっ!」
返事を聞くより早く、こはくの腕が俺の身体に回った。
大きな身体にすっぽり包まれて、身動きが取れない。
「嬉しい」
「重い!」
「四年分」
「またそれか!」
耳元でそんなことを言われると、何も言い返せなくなる。
「……秋人」
「何だよ」
「もう少し、このままでいていい?」
「朝飯食ってからにしろ」
「食べ終わったら?」
「……好きにしろ」
「約束?」
「約束」
「やった」
こはくの腕が、また少しだけ強くなる。
肩口に顔を埋めたまま、嬉しそうに息を吐いた。
「……こはく」
「ん?」
「よく頑張ったな」
腕の力が、ふっと緩んだ。
「……うん」
「偉いよ」
「もう一回」
「まだ言うのか?」
「四年分だから」
「……分かったよ」
仕方なく、その髪を撫でる。
「偉い、偉い」
「……えへへ」
子どもみたいな声に、思わず笑ってしまった。
身体はこんなに大きくなったのに、こういうところは昔のままだ。
「秋人?」
「何でもない」
「ねえ」
「ん?」
「昨日より、僕のこと意識してる?」
「……は?」
「顔、赤い」
「朝から何言ってんだ、お前!」
「ふふ。やっぱり」
「お前……!」
「嬉しい」
「何がだよ」
こはくが顔を覗き込んでくる。
「僕のこと、ちゃんと男として見てくれたってことだから」
「……っ」
何も言えなくなって、視線を逸らした。
昨日までは、昔の延長線上にいるつもりだった。
でも、こうして近くにいるこはくは、もうあの頃の子狐じゃない。
俺より大きな身体も、低くなった声も、まっすぐ向けられる視線も、意識するなというほうが無理だった。
「……朝飯、冷めるぞ」
「うん」
「ほら、離れろ」
「やだ」
「おい」
「もう四年も離れてたから」
こはくが俺の肩に頬を寄せる。
「今日は、もう離れたくない」
「……朝飯くらいは食わせろ」
「じゃあ、一緒に食べる」
「そうしろ」
ようやく腕が緩む。
それでも尻尾だけは俺の腰に巻きついたままだった。
「……尻尾も離せ」
「それは無理」
「何でだよ」
「秋人のそばにいたいから」
「……はいはい」
四年前、この部屋にいたのは、腕にすっぽり収まるくらいの小さな狐だった。
今は、俺より大きな身体になって帰ってきた。
俺の服を着たがって、褒められれば尻尾を振って、少しでも許せばすぐに甘えてくる。
結局こいつは、こはくなのだ。
昔と違うことが一つだけある。
俺はもう、この大きな身体を抱きしめられると、「弟みたいなものだから」と笑って済ませられなくなっている。
そのことは、まだ本人には言わないでおこう。
「秋人」
「何だよ」
「さっきの話なんだけど」
「……何だ?」
「一緒に住むかもしれないなら、先に家を見ておいたほうがいいでしょ?」
「……お前、もうそこまで話を進めてるのか?」
「だって、せっかく買ったから」
「だから勝手に買うなって」
「でも、見に行ってくれる?」
「……見るだけだからな」
「うん!」
返事と同時に、こはくの尻尾が待ってましたとばかりに大きく揺れた。
「……本当にお前は」
呆れたはずなのに、口元まで緩んでしまう。
そんな俺を見て、こはくの目も嬉しそうに細くなる。
「僕、帰ってきてよかった」
「……ああ」
「今度は、ちゃんと隣にいるから」
その言葉を聞いた途端、四年前の約束が蘇った。
あの夜、泣きながら絡めた小さな小指の感触まで、まだ覚えている。
「……朝飯、食おうぜ」
「うん!」
栗の甘い匂いが、部屋いっぱいに広がっている。
その隣で、琥珀色の尻尾がいつまでも嬉しそうに揺れていた。




