第5話 琥珀の檻に囚われて
玄関を開けた瞬間、俺は言葉を失った。
「……秋人?」
首を傾げる仕草に、昔の面影が残っている。
それなのに目の前に立っているのは、もう俺が知っている小さなこはくではなかった。
黒いスーツに包まれた身体は大きく、背丈も俺を越えている。肩幅も、伸びた手足も、すっかり大人のものになっていた。
そして何より。
「……声まで変わったな」
「嫌?」
「いや。驚いただけだ」
「よかった」
「何が?」
「秋人、まだ好きでいてくれるかなって不安だったから」
「……四年ぶりに会って、いきなりそれかよ」
「四年ぶりだからだよ」
こはくは笑顔は、あの頃と変わらない。
「僕がいない間に、誰か好きになってたら嫌だなって」
「いないよ」
「本当に?」
「ああ」
「恋人も?」
「いない」
「……よかった」
ほっとしたように息を吐く。
「お前、昔から変わらないな」
「変わる必要ないから」
「そういうものか?」
「うん」
こはくが一歩、俺に近づいた。
昔なら見上げていたはずの顔が、今は少し高いところから俺を見下ろしている。
「……近い」
「四年ぶりだから」
「それ、何でも理由になると思ってないか?」
「思ってる。だって、四年分だよ?」
「はいはい」
俺がついつい苦笑いになる。
こはくはようやく靴を脱ぐと綺麗に靴を揃えた。
「ただいま、秋人」
「……まだだ」
「え?」
「お菓子」
「……!栗?」
「ああ。今年も買ってある」
リビングへ入ったこはくは、テーブルの上に並んだ栗のお菓子を見て立ち止まった。
「……僕の分?」
「毎年買ってたからな」
「僕が来なくても?」
「来るかもしれないだろ」
「……そっか」
こはくは嬉しそうに栗のタルトを手に取った。
「食べていい?」
「どうぞ」
一口。
こはくの目が細くなる。
その仕草を見ながら、俺はようやく帰ってきたんだと思った。
「おいしい」
「だろ?」
「うん。秋人が選んでくれたから、もっとおいしい」
「それ、昔も言ってたな」
「だって本当だもん」
こはくはにこにこ顔だ。
それからポケットに手を入れ、小さな銀色の包み紙を取り出す。
「これも、まだ持ってる」
「……チョコのやつか」
「うん」
皺だらけになった包み紙。
四年間、何度も握りしめたのだろう。
「修行中、これ見ると頑張れた」
「そんなもん、よく取っておいたな」
「そんなもんじゃないよ」
こはくは包み紙を胸元へ戻した。
「秋人が初めて僕にくれたものだから」
「……そっか」
四年前。
泣きながら山へ向かった小さな狐が、こんなものをずっと持っていた。
「それで、四年間何してたんだ?」
「修行」
「修行だけ?」
「秋人と暮らすための勉強もした」
「仕事とか?」
「仕事も、お金のことも、家事も」
「そこまで?」
「秋人を一生養うって約束したから」
こはくは、まるでそれが当然のことみたいに言った。
「約束は、守るものだから」
「……頑張ったんだな」
「うん。褒めて」
ああ。昔と同じだと思った。
「そこは昔と変わらないんだな」
「四年分、我慢したから」
「……うん。よく頑張ったな」
「もう一回」
「欲張り」
「四年分だよ?」
「はいはい。偉い、偉い」
「……もうちょっと」
こんなところまで昔のままだ。思わず笑ってしまう。
「お前、本当に変わらないな」
「変わったよ」
こはくが俺を見る。その目を見て、俺はさっきの言葉を取り消したくなった。
「秋人を守れるくらいには」
昔よりずっと低い声で響いた。
「……頼もしくなったな」
「でしょ?」
尻尾が、ぱたんと揺れた。
「でも」
「ん?」
「秋人には、昔みたいに甘えていい?」
「今さら聞くなよ」
「大きくなったから」
「だからって、駄目になるわけじゃないだろ」
「……よかった」
こはくが俺の隣に座る。
大きくなった身体が、肩に寄りかかってくる。
「四年間、ずっとこうしたかった」
「頭も?」
「撫でて」
「はいはい」
髪に手を置く。
撫でると、こはくは気持ちよさそうに目を閉じた。
「……これ、好き」
「昔からだな」
「うん。もっとして」
「まだ足りないのか?」
「四年分」
「そればっかりだな」
「だって、本当に四年分あるんだもん」
「じゃあ、スーツも似合ってる」
「……本当?」
「ああ。かっこいいよ」
耳がぴくっと動く。
「もう一回」
「お前な」
「お願い」
「……かっこいいよ」
「えへへ」
「顔と尻尾が全然合ってないぞ」
「見ないで」
尻尾が嬉しそうに揺れている。
大人びた顔をしていても、こういうところは昔のままだ。
「秋人」
「ん?」
「待っててくれて、ありがとう」
「……俺も、おかえりって言うために待ってたんだよ」
こはくが顔を上げる。
「じゃあ」
「何だ?」
「言って」
琥珀色の瞳が、まっすぐ俺を見つめている。
四年間、ずっと言いたかった言葉だった。
「……おかえり、こはく」
耳が、ゆっくり立った。
「ただいま、秋人」
その瞬間、勢いよく抱きつかれて、俺は思わずよろめいた。
「うわっ」
「ごめん」
「いきなりだな」
「我慢してたから」
「四年分?」
「四年分」
腕の力が、少しだけ強くなる。
俺は呆れながら、その背中に手を回した。
四年分なら、仕方ない。
「……重いな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「よかった」
腕の力が少し緩む。
けれど、離れる気はないらしい。
「もう少し、このままでいていい?」
「ああ」
「じゃあ、もう少し」
こはくが俺の肩に頬を寄せる。
低くなった声も、大きくなった身体も、昔とは違う。
それなのに、こうして甘えてくるところは、あの頃のままだ。
「……なんか不思議だな」
「何が?」
「こんなに大きくなったのに」
「うん」
「やってることは変わらない」
「秋人の前だから」
こはくが顔を上げた。
「僕がこんなふうになれるの、秋人だけだよ」
「……そうかよ」
「うん」
声だけは昔とは違っていた。
そのまま、こはくが俺の髪へ顔を寄せる。
「……何してる?」
「毛づくろい」
「は?」
「妖狐は、大切な相手にするんだよ」
「……なんだよ。じゃれてただけかよ。ってか毛づくろいってなんだよ」
「じゃれてるだけじゃないよ。大好きだからだよ」
「……相変わらず、真っ直ぐだな」
「秋人にだけだから」
耳元で囁かれる低い声に、昔との違いを意識する。
次の瞬間尻尾が、ぱたんぱたんと揺れはじめた。
「……台無しだな」
「何が?」
「いや」
俺は笑って、こはくの頭を撫でた。
「そのままでいいよ」
「……うん」
こはくが嬉しそうに目を細める。
しばらくして、腕の力がまた少し強くなった。
「秋人」
「ん?」
「もう、僕がいない間に誰かにお菓子あげたりしないでね」
「……まだ言うのか」
「言うよ」
「四年前から変わらないな」
「うん」
こはくは悪びれもせず笑う。
「秋人にお菓子をあげるのも、僕がいい」
「独占欲、強くなったな」
「四年間、ずっと考えてたから」
「何を?」
「秋人の隣にいるのは、僕がいいって」
こはくの指が、俺の服をきゅっと掴む。
「今度は、もう離れない」
「……お前、本当に離れる気ないんだな」
「うん」
「四年前の約束か?」
「忘れるわけないよ。次に会うときは、もう絶対に僕から逃げられないようにするって言ったでしょ?」
「……言ったな」
「約束、守ったよ」
「そうだな」
四年前は、俺がこはくを抱きしめた。
今は、こはくが俺を抱きしめている。
小さな狐だったこいつが、四年かけて俺の前に帰ってきた。
強くなって。
大人になって。
それでも、俺の前では昔のまま。
「秋人」
「何だよ」
「これからは、ずっと一緒だよ」
「ああ」
「ずっと?」
「ずっと」
「約束?」
「約束」
こはくの尻尾が、俺の背中をゆっくり撫でる。
逃げ道なんて、とっくに塞がれている。
なのに、不思議と嫌じゃない。
四年前の夜。
泣きながら俺の指に小指を絡めたこはくが、今は俺を腕の中に閉じ込めている。
あの小さな約束が、四年かけてこんな形になった。
俺はこはくの背中に腕を回した。
「……しばらく、このままでいろよ」
「うん」
こはくが笑う。
「いっぱい甘えるね」
「ああ」
「四年分」
「……やっぱり多いな」
「多いよ」
琥珀色の瞳が、嬉しそうに細められる。
「だって、ずっと秋人に会いたかったから」
俺はもう何も言えなかった。
ただ、腕の中の温もりを確かめるように、抱き返した。
琥珀色の檻。
閉じ込められたのは、たぶん俺だけじゃない。
四年間ずっと俺を想い続けたこはくもまた、ようやく帰ってこられたこの場所から、もう出るつもりはないのだろう。




