第3話 琥珀の涙、約束の檻
四年目
その年の秋、こはくがぱったりと来なくなった。
いつもなら月に数回、ハロウィン以外でもひょっこりベランダから顔を出していたのに、この二ヶ月、姿を見せていない。
何かあったんだろうか。
山のキツネたちと、どこか遠くへ行ってしまったんじゃないか。
そんなことを考えながら、俺は十月三十一日の仕事帰り、いつものスーパーで山ほどの栗のお菓子を買い込んだ。
今年は奮発して、デパ地下にある有名店の栗のタルトまで予約してある。
「……遅いな」
時計の針は、夜の九時半を回ろうとしていた。
もう来ないのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった、そのときだった。
ピンポーン。
「っ……!」
俺はソファから立ち上がり、玄関へ走った。
鍵を開け、勢いよく扉を引く。
「こはく……」
言葉が、喉の奥で止まった。
そこに立っていたのは、確かにこはくだった。
ただ、去年までとは違う。
背は俺の胸元を越え、細かった手足もすっかり少年のものになっている。
それでも、琥珀色の目も、頭の上の狐耳も変わっていない。
変わったのは、声だった。
「遅くなってごめんね、秋人。……トリック・オア・トリート」
少し低くなった声に、俺は一瞬言葉を失った。
けれど、狐耳は元気がないのか、ぺたりと伏せられている。
「おう……。背、またずいぶん伸びたな。中に入れよ。お前の好きな栗のタルト、買ってあるぞ」
努めて明るく言うと、こはくは頷いて部屋へ入ってきた。
ソファに並んで座る。
いつもなら、すぐに俺の腕にしがみついてきたり、尻尾をパタパタ振ったりするはずなのに、今日のごちそうを前にしても、こはくは膝の上で自分の手をぎゅっと握っていた。
「こはく? どうした、元気ないぞ。どこか具合でも悪いのか?」
「……ううん。元気だよ。ただね……」
こはくが顔を上げた。
琥珀色の瞳が、まっすぐ俺を見る。
「秋人、あのね。僕、明日から山にこもらなきゃいけないんだ」
「山に……? 修行か?」
「うん。一人前の妖狐になるための、大事な試練なんだ」
「……どのくらい?」
「分からない」
こはくが俯く。
「長いのか?」
「うん。たぶん……すごく長い」
こはくが小さな声で続けた。
「これを終えないと、僕は秋人と同じ時間を生きられないから」
俺は息を呑んだ。
キツネと人間。
生きる時間が違う。
こはくは、ずっとそのことを考えていたのかもしれない。
こはくは白い着物の懐に手を入れ、小さな何かを取り出した。
差し出された掌の上にあったのは、くしゃくしゃになった、古びた銀色のアルミ箔。
四年前に、俺が一番最初にあげた、あの栗味のチョコレートの包み紙だった。
「これね、ずっとお守りにしてたんだ」
こはくは包み紙を大事そうに握る。
「山での修行、すごく厳しいんだって。長い間、人間の世界には戻ってこられなくなる。秋人にも、もう簡単には会えなくなっちゃうの」
こはくの声が震えた。
その目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「嫌だよ……っ。本当は、一秒だって秋人と離れたくない。僕がいない間に、秋人に他にお菓子をあげる人ができたらって思うと……嫌なんだもん……!」
こはくが俺の首に腕を回した。
甘えるような抱きつき方とは違う。
離れたくない。
そんな気持ちが、その腕から伝わってきた。
「でも、僕、絶対に強くなって帰ってくる。人間の姿を完璧に保って、秋人を一生、誰よりも幸せに養える力をつけてみせる。だから秋人、僕のこと忘れないで。僕の一番は、死ぬまで秋人だけだからっ」
背中に回されたこはくの手から、熱が伝わってくる。
俺はこはくの頭に手を置いた。
「……忘れるわけないだろ。俺の名付けた、世界に一匹だけのキツネなんだから」
こはくの体を抱き返し、その髪を何度も撫でる。
こはくは俺の胸に顔を埋めたまま、声を上げて泣いた。
夜が明ける少し前、こはくは涙を拭い、俺の前に小さな小指を差し出した。
「待っててくれる……? 秋人」
「ああ。待ってるよ。気をつけて行ってこい」
小指と小指を絡める。
固い約束を交わした。
こはくは絡めた小指をそっと自分の唇に押し当てた。
そして、俺を見上げる。
「次に会うときは、もう絶対に僕から逃げられないようにしてあげるからね」
その言葉の意味を、当時の俺はまだ理解していなかった。
玄関の扉を開け、こはくは夜闇の中へ一歩を踏み出す。
振り返ったその背後で、琥珀色の大きな尻尾が、名残惜しそうに一度ゆらり大きく揺れた。
「またね、秋人。絶対だよ!」
「……ああ。またな」
それが、俺の目の前からこはくが消えた、最後の夜だった。
テーブルの上には、二人で食べるつもりだった栗のお菓子が、山ほど残っていた。
予約していた栗のタルトも、手つかずのままだ。
「……一人じゃ、食い切れないな」




