第2話 おねだりは琥珀色に染まる
二年目、十月三十一日
あの不思議な出会いから、一年が経った。
俺は夜の九時過ぎ、リビングのソファから動けずにいた。
テーブルの上には、会社の近くにあるちょっといいケーキ屋で買ってきた菓子が並んでいる。
栗のフィナンシェとマドレーヌ。
奮発した。
去年より、ちょっとだけ。
本当に、また来るんだろうか。
約束したとはいえ、相手は気まぐれな子ども 。いや、そもそも本物のキツネだった。
去年のことだって、今思えば夢だったんじゃないかと思うときがある。
そんなことを考えながら、すっかりぬるくなったビールを口にした。
ピンポーン。
時計を見る。
九時半。
去年と同じだった。
「来た……!」
思わず立ち上がる。
テーブルの上のお菓子をひっ掴んで、玄関へ向かった。
覗き穴を覗く。
白い着物。
その上から、ぴょこぴょこと動く小さな頭が見えた。
間違いない。
ドアをそっと開ける。
冷たい秋の夜風が入り込んできて、その中に、あの懐かしい香木の匂いが混じっていた。
「トリック・オア・トリート! 秋人、約束通り来たよ!」
「おう」
こはくは去年より、ほんの少し背が伸びていた。
けれど、くりくりした琥珀色の目も、頭の上の狐耳も変わっていない。
俺の顔を見るなり、着物の裾から出た尻尾が、ぶんぶん揺れ始めた。
「ほら。約束のお菓子。今年はちょっといいやつだぞ」
「わあ……! すごい、ありがとう!」
こはくが両手で箱を受け取る。
箱を眺めて、それから俺の顔を見た。
「これ、すごいね」
「そうか?」
「うん。僕、こういうの初めて」
箱を抱えたこはくが、嬉しそうに笑う。
……来年はもっといいの買ってやるか。
なんとなく、そう思った。
菓子を渡して、また来年な、と言って別れるつもりだったが、こはくは玄関から動かなかった。
箱を抱えたまま、俺の顔をじっと見上げている。
「ねえ、秋人」
「ん?」
「僕、秋人のお部屋に入ってみたい。……だめ?」
こてん、と首を傾げる。
狐耳まで、ぺたりと寝た。
……いや。それはずるいだろ。
一人暮らしの男の部屋なんて、見ても面白くないと思うぞ。
とはいえ、そんな顔をされて追い返すほど俺も鬼じゃない。
「……散らかってるけど、それでもいいなら」
「いい!やった!」
返事早いな。
部屋に入るなり、こはくは珍しそうにあたりを見回した。
「ここが秋人のお部屋なんだ」
「そんな珍しいもんでもないだろ」
「でも、秋人がいつもいるところでしょ?」
「まあ……そうだけど」
こはくは部屋を眺めてから、俺が座ったソファにちょこんと腰を下ろす。
しかも、わざわざ俺のすぐ隣に。
近い。
肩が触れそうだ。
「……近くないか?」
「そう?」
本人は全然気にしていない。
こはくから、ふわりと甘い匂いがした。
俺はなんとなく落ち着かなくなって、テーブルの上へ視線を向ける。
「これ、開けてもいい?」
「ああ、いいぞ」
こはくが綺麗にラッピングされた箱を開けていく。
中から栗のフィナンシェを一つ取り出した。
そのまま食べるのかと思った。
思ったのだが。
「はい、秋人。あーん」
「は?」
フィナンシェが俺の口元に突き出される。
「なんで俺が。お前が食べろよ」
「だって、秋人が僕のために選んでくれたお菓子だもん」
「だから?」
「最初のひとくちは、秋人と一緒に食べたいの」
「……」
さらっと何言ってんだよ。
こはくはフィナンシェを持ったまま、じっと俺を見ている。
根負けした。
「……一口だけな」
フィナンシェをひとかじりする。
「……うん。高いだけあって、うまいよ」
「本当!?」
こはくの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、残りは僕の!」
「おい」
俺が囓った残りを、こはくは嬉しそうにぱくりと口へ放り込んだ。
もぐもぐと口を動かしている。
その後ろでは、大きな尻尾がソファのクッションをパタパタ叩いていた。
「秋人がくれるお菓子、世界で一番おいしい」
そう言って、こはくが俺の袖をぎゅっと握る。
「……そういうこと言うなって」
何となく顔を見ていられなくなって、俺は視線を逸らした。
袖を握る小さな手は、しばらく離れなかった。
三年目になると、こはくはもう玄関から来なくなった。
七月の終わり頃だった。
ベランダの窓を、コンコン。と叩かれた。
カーテンを開けると、そこにこはくがいた。
「秋人、栗のポテトチップス見つけたから一緒に食べよう!」
「……いや、そこから入ってくるなよ」
「なんで?」
「なんでって……」
どうやってここまで来た。
そもそも何階だと思ってる。
聞いても、
「秘密」
と笑うだけだった。
それから、こはくは月に何度か俺の部屋へ遊びに来るようになった。
もう、わざわざハロウィンじゃなくても来る。
そんなこはくと迎える、三年目のハロウィン。
俺たちはソファに並んで座り、今年のお菓子を食べていた。
「秋人、はい。これ、今年のごちそう!」
「マロングラッセか。お前、本当に栗が好きだな」
「だって、おいしいもん」
「それは知ってる」
ふと隣を見る。
いつの間にか、こはくの頭が俺の肩のあたりまで来ていた。
「こはく、少し背が伸びたな」
「本当!?」
「ああ。声も変わった」
「声も?」
「ああ。前より低くなった」
こはくは自分の喉に手を当てた。
「あ、んー。そうかな?」
「そうだよ」
こはくは自分の声を確かめるように、何度か小さく「んー」と唸った。
「……分かんない」
「自分じゃ分からないだろ」
笑った顔は、相変わらず子どもっぽい。
でも、こうして毎年会っていると、変わっていくところも分かる。
「早く大きくなりたいんだ」
「なんで?」
「大きくなったら、僕ね……」
そこで、こはくが口を閉じた。
顔が赤い。
狐耳まで、ぴくぴく動いている。
「なんだよ。大きくなったらどうするんだ?」
「……ううん。まだ秘密」
ぷいっと顔を背けた。
「なんだそれ」
「秘密だもん」
そう言っていたくせに、マロングラッセを食べ終える頃には、また俺の腕にくっついている。
こはくが俺の服の裾を掴んだ。
「ねえ、秋人」
「ん?」
「僕、今日はおうちに帰りたくない」
「……なんで?」
「秋人と一緒に寝たいな……?」
「はあ!?」
思わず隣を見る。
こはくは服の裾を掴んだまま、上目遣いでこっちを見ていた。
「ダメに決まってるだろ。山のキツネたちが心配する」
「大丈夫だよ」
「何がだよ。そういう問題じゃない」
「僕、もう子供じゃないもん」
「いや、子供だろ」
「違うよ」
珍しく、こはくが言い返した。
「まだ子供だろ。どう見ても」
「……違うもん」
少し唇を尖らせる。
服の裾を掴む手に力が入った。
「お願い。秋人とずっと一緒にいたい」
「……」
こはくは、ただ俺を見上げている。
……そんな顔するなよ。
断りにくくなるだろ。
「……今日だけだからな」
「うん!」
途端に顔が明るくなった。
「やった!へへへ」
……分かりやすいやつだ。
その夜。
狭いシングルベッドに、二人で横になった。
背中から、こはくの腕が腰に回っている。
ふさふさの尻尾まで、俺の足首に巻きついていた。
「こはく、苦しいって」
「やだ」
即答かよ。
「こうしてないと、秋人がどこかに行っちゃいそうな気がするんだもん」
「行かないって」
背中に、こはくの体温がある。
しばらくすると、背中越しに小さな鼓動まで伝わってきた。
トクン、トクン。
規則正しい。
こはくは俺の背中に額を預けたまま、ぽつりと言った。
「僕ね、もっともっと大きくなったら、秋人を僕だけのお嫁さんにするんだ」
「……何言ってるんだよ」
「絶対に、誰にもあげないからね」
「お前キツネだろ」
「キツネだから、一度決めたつがいは一生裏切らないよ」
「お前が大人になる頃には、俺はおっさんだぞ」
冗談なのか、本気なのか。
こはくらしいと言えば、こはくらしい。
そう思っていたら、背中から小さな寝息が聞こえてきた。
「……寝たのかよ」
俺は後ろへ手を伸ばした。
こはくの髪を、そっと撫でる。
「ん……」
小さく喉を鳴らして、こはくが少し身体を寄せてきた。
足首に絡んだ琥珀色の尻尾も、そのままだ。
……重い。
でも、まあ。
今日くらいはいいか。
そんなことを考えながら、俺も目を閉じた。




