第1話 琥珀色の約束
「四年も我慢したんだから、もういいでしょ?」
耳元で囁かれて、俺は返事に困った。
逃げ道を塞ぐようにベッドへ組み敷かれ、首筋に熱い唇が触れる。
圧倒的な体格差。
肌をじりりと伝っていく熱。
抵抗する暇もなく、俺はただ翻弄されて、乱れた息を吐く。
目の前にいるのは、完璧な大人の男だった。
黒い髪。整った顔立ち。
冷たく見える、琥珀色の瞳。
昔の面影は、ちゃんと残っている。
けれど、あの頃の少年とは比べものにならない。
身体も、声も。纏う空気さえも。
すっかり大人になったこはくが、今は俺を見下ろしている。
ただし。
その背後では、大きな琥珀色の尻尾が、ぶん、ぶん、と忙しなく左右に揺れていた。
こはくは、それに気づいていないふりをしている。
たぶん、気づいていたとしても止められない。
昔から、嬉しいときはいつもそうだった。
あまりにも正直な尻尾に、俺は思わず目を細める。
(……中身は、あのときのこはくのままだ)
俺がその腕を受け入れるまでに、八年。
すべての始まりは――あの十月三十一日の夜だった。
十月三十一日。
仕事を終えて帰宅すると、玄関脇の小さなカボチャが目に入った。
そういえば、大家さんに頼まれて置いたんだった。
近所の商店街で、子ども向けのハロウィンイベントをやっているらしい。
参加する家にはカボチャを置いておく。
それを目印にして、仮装した子どもがやって来る。
そんな話を聞いたのは、数日前だった。
正直、俺はそこまで乗り気じゃなかった。
「せっかくだから、秋人くんも参加しなさいよ」
大家さんに笑顔で押し切られてしまえば、断る理由もない。
お菓子を用意するだけならいいか。
仕事帰りにスーパーへ寄って、適当に買ってきた。
夕食を済ませ、風呂にも入った。
もう子どもたちが来る時間でもないだろう。
そう思って、冷蔵庫からビールを取り出す。
余ったお菓子は、つまみにでもすればいい。
袋を開けようとした、そのときだった。
ピンポーン。
「……まだ来るのか?」
時計を見る。
九時半を少し過ぎていた。
思ったより遅い。
それでも玄関脇にはカボチャがある。
せっかくだし、一応出るか。
俺は買ってきたお菓子をいくつか掴んで、玄関へ向かった。
覗き穴から外を見る。
そこには、小さな頭が一つ。
ぴょこ。
ぴょこ。
どうやら背伸びをしているらしい。
思わず笑ってしまった。
俺は鍵を開け、扉を開く。
「トリック・オア・トリート」
そこに立っていたのは、小さな男の子だった。
白い着物。
頭には、ふさふさの狐耳。
そして腰のあたりから、大きな尻尾が一本。
ふわり、と揺れている。
「……ずいぶん本格的だな」
最近の仮装衣装は、よくできている。
狐耳も尻尾も、遠目には本物にしか見えない。
まあ、さすがに本物ってことはないだろう。
そう思いながら、俺は男の子の顔を見る。
大きな琥珀色の瞳が、じっと俺を見上げていた。
「はいはい。トリック・オア・トリートな」
手元のお菓子を眺める。
キャンディ。
クッキー。
チョコレート。
その中に、栗味のチョコレートがあった。
秋限定の商品だったので、なんとなく買っていたものだ。
「これ、食べられる?」
「……栗?」
男の子の耳が、ぴん、と立った。
「そう。栗味」
「僕、栗大好き!」
ぱっと顔が明るくなる。
その瞬間。
ふわん。
大きな尻尾が、左右に揺れた。
「……」
俺はついつい尻尾を見る。
右。
左。
右。
左。
どう見ても、嬉しさを表現しているようにしか見えない。
男の子は俺の視線に気づいたらしい。
「……あ」
慌てて尻尾を両手で抱え込んだ。
「み、見ちゃだめだよ」
「ご、ごめん」
思わず笑ってしまう。
「そんなに隠さなくてもいいだろ」
「だめなの」
「なんで?」
「……恥ずかしいもん」
そう言って、男の子は俯いた。
俺は手に持っていたチョコレートを差し出す。
「ほら。これ」
「……いいの?」
「ああ」
男の子は両手で受け取った。
まるで、ものすごく大切なものをもらったみたいに、そっと胸元へ抱える。
「ありがとう」
「どういたしまして」
その顔を見ていると、なんだかこっちまで嬉しくなる。
「……」
また尻尾が揺れた。
ゆらりゆるゆるり。
今度はさっきより大きく。
「……尻尾、また動いてるぞ」
「!」
男の子が慌ててお尻を押さえる。
「見ないでって言ったのに!」
「悪い悪い」
「絶対、見ない?」
「絶対」
狐耳が、ほんの少し持ち上がる。
どうやら許してもらえたらしい。
それでもまだ尻尾は、腕の隙間から嬉しそうに覗いていた。
「よくできてるな、その耳と尻尾」
「そう?」
「ああ。特に尻尾がかわいい」
「ひゃっ!」
男の子の耳が、ぺたりと伏せた。
白い頬が、一気に赤くなる。
「もぅ……そういうこと言っちゃダメなんだよ」
「なんで?」
「……恥ずかしいから」
「そっか」
なるほど。
ずいぶん素直な子だ。
俺が笑うと、男の子はますます恥ずかしそうに俯いた。
「秋人」
「ん?」
名前を呼ばれて、少し驚いた。
「……どうして俺の名前を?」
男の子が、玄関脇を指差した。
「そこ」
見ると、郵便受けから回収したまま放置していたDMが一枚。
宛名には、しっかり俺の名前が書かれている。
「……それか」
不用心だった。
男の子はDMを見て、それから俺を見る。
「あきと」
「そう。俺は秋人」
「秋人」
確かめるように、もう一度。
それから男の子は、嬉しそうに笑う。
「秋人」
「なんだ?」
「来年も、来ていい……?」
「来年?」
「うん」
栗味のチョコレートを胸に抱いたまま、男の子が俺を見上げている。
そんなに気に入ったのだろうか。
「いいよ」
「ほんと?」
「ああ。来年もお菓子、用意しとく」
「約束?」
「約束」
俺が小指を差し出す。
男の子は目を丸くした。
それから、その小指と俺の顔を交互に見る。
恐る恐る自分の小指を伸ばした。
ちょこん、と俺の指に絡む。
「絶対?」
「絶対だ」
「……うん!」
その瞬間、隠していた尻尾が、勢いよく飛び出す。
「……また動いたぞ」
「!」
男の子は慌てて尻尾を抱え直す。
「秋人、意地悪!」
「悪い悪い」
笑いながら謝ると男の子も、堪えきれなくなったように笑い出した。
鈴を転がすような声だった。
俺までつられて笑う。
玄関先で、知らない子どもと二人。
なんだか妙におかしかった。
ひとしきり笑ってから、俺はふと思い出す。
「そういえば、君の名前は?」
男の子が、きょとんとした。
そして、ふるふると首を横に振る。
「ないの」
「ない?」
「みんな、狐って呼ぶよ」
「狐……」
俺は改めて男の子を見る。
白い着物。
狐耳。
大きな尻尾。
確かに狐だ。
それだけで呼ばれるのは、なんだか少し寂しい気がした。
「じゃあ、俺がつけてもいい?」
「名前を?」
「ああ」
「秋人が?」
「嫌ならいいけど」
男の子は慌てて首を振った。
「ううん!」
そして少し考えるように、俺の顔を見る。
俺は男の子の目を見た。
さっきからずっと気になっていた。
綺麗な色だ。
秋の夜に浮かぶ月明かりみたいな、深い琥珀色。
それから、栗味のチョコレートを大事そうに抱えている姿。
自然と、一つの名前が浮かんだ。
「……こはく、は?」
「こはく?」
「ああ」
「どうして?」
「なんとなく。君に似合うと思って」
男の子は黙った。
その小さな顔から、一瞬表情が消える。
俺は少し不安になった。
「嫌だった?」
ふるふる。
今度は、さっきより強く首を横に振る。
「ううん」
男の子が顔を上げた。
そして――ふわぁっと笑った。
「それ、大好き!」
大きな尻尾が、ぶんっ、と揺れる。
今度は隠そうともしない。
「じゃあ、今日からこはくだな」
「うん!」
こはくは何度も頷いた。
「僕、こはく!」
「ああ。よろしく、こはく」
「よろしくね、秋人!」
自分の名前が嬉しいのか。
それとも、誰かに名前をつけてもらったことが嬉しいのか。
こはくは、何度もその名前を口にした。
「こはく」
そして、もう一度。
「僕、こはく」
「ああ」
俺も笑う。
「覚えたよ」
こはくは満足そうに頷いた。
それから栗味のチョコレートを大切そうに抱え直す。
「じゃあ、僕もう帰るね」
「気をつけてな」
「うん」
玄関を出たところで、こはくが振り返った。
「秋人」
「ん?」
「また来年ね」
「ああ。また来年」
「またね。絶対だよ!」
小さな手が、大きく振られる。
俺も手を振り返した。
こはくの背中が、夜道の向こうへ消えていく。
最後まで、その尻尾は嬉しそうに揺れていた。
俺はしばらく玄関先に立ったまま、その姿を見送っていた。
やがて扉を閉める。ふと気づく。
さっきまであの子が立っていた場所に、かすかに匂いが残っている。
甘いような、木を燻したような。
「……なんだか、煙みたいな不思議な匂いがする」
鼻を寄せてみても、何の匂いなのかは分からない。
不思議と嫌な感じはしなかった。
首を傾げながら、静かになった部屋へ戻り、テーブルを見る。
買ってきたお菓子が、まだいくつか残っていた。
栗味のチョコレートもある。
来年も来ると言っていた。
来年は、もう少し多めに買っておいてもいいだろう。
栗味は、特に。
そんなことを考えながら、俺は残ったお菓子をつまみに、ぬるくなりかけたビールを飲んだ。
来年の十月三十一日が、少し待ち遠しくなっていた。




