第11話 狐の足跡
目を覚ますと、窓の外が明るくなっていた。
見慣れない天井を眺めているうちに、昨夜のことが少しずつ蘇ってくる。
ここは、こはくの家だ。
昨夜、俺は帰らなかった。
引き止められたわけじゃない。自分から、もう少しここにいたいと思った。
……改めて考えると、我ながらどうかしている。
「……俺、何やってんだろ」
苦笑しながら布団を出る。
昨夜のことを思い返すと、どうにも落ち着かない。首筋に触れた唇も、短く重なった唇も、最後まで離さなかった手も、まだ妙に鮮明だった。
顔でも洗って、頭を冷やそう。
寝室を出ると、廊下の先からいい匂いが漂ってきた。かすかな鼻歌も聞こえる。
「秋人、おはよう!」
キッチンを覗くと、こはくが振り返った。寝起きなのか、髪が少し跳ねている。
「……おはよう」
「よく眠れた?」
「ああ。お前は?」
「僕もよく眠れたよ。秋人が隣にいたから」
「はいはい」
「本当のことなのに」
こはくは鍋へ向き直った。
その笑い方は、昔と変わらない。
ただ、その背中は昔とはまるで違っていた。
広い肩も、低くなった声も、昨日触れた手の大きさも、こうして近くにいると嫌でも意識してしまう。
「……何だよ」
「え?」
「さっきから見てるだろ」
「秋人がいるのが嬉しくて」
「それ、理由になってないだろ」
「僕にはなるよ」
あまりにも真っ直ぐ返されて、言葉に詰まった。
視線を逸らして椅子を引く。
「朝飯、何?」
「焼鮭と卵焼きと味噌汁。ご飯も炊けてるよ」
「普通だな」
「普通がいいんでしょ?」
「……まあな」
こはくが並べた朝食には、焼き色のついた鮭と、ほんのり甘い卵焼きが並んでいた。味噌汁からは湯気が立ち、炊きたてのご飯の匂いがふわりと漂っている。
箸を取る。
「いただきます」
「いただきます」
卵焼きを口に運ぶ。
「……うまい」
「本当?」
「ああ」
「よかった」
こはくは、それだけで満足そうに笑った。
「そういえば、今日って仕事あるんだろ?」
「あるよ」
「会社?」
「うん。秋人の会社にも行く」
「……は?」
箸が止まった。
「何の仕事だよ」
「秋人の企画」
「俺の?」
「うん。この前、秋人が出した企画書、覚えてる?」
社内で募集された季節商品の企画だ。
俺が考えたのは、栗を使った焼き菓子の詰め合わせだった。栗のフィナンシェに、栗餡を使ったパウンドケーキ。それから、甘さを抑えた栗のサブレ。
ただ栗を詰め合わせるだけではなく、箱を開けた瞬間に秋を感じてもらえる商品にしたかった。
「まさか……通ったのか?」
「うん。アンバーっていう食品会社で、商品化することになった」
「……本当に?」
「本当だよ」
自分の企画書が頭に浮かぶ。
「何でアンバーなんだ?」
「食品の企画から製造、販売までやってる会社なんだ。今回みたいな商品なら、話を進めやすかったみたい」
「そういう会社だったのか」
「うん」
「じゃあ、うちには何を頼む?」
「企画とパッケージ」
そこで、嫌な予感がした。
「……それで?」
「僕から秋人を担当にしてほしいってお願いした」
「お前な」
思わず口元が緩みそうになるのを隠すように、味噌汁へ視線を落とした。
「それ、俺だから選んだんじゃないだろうな?」
「違うよ。企画そのものが評価されてる」
「……そうなのか」
「うん。僕も、秋人の企画が好きだった」
「どこが?」
「栗を売るんじゃなくて、秋を贈る商品にしたいってところ」
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
「だから、一緒に仕事がしたかった」
「それは私情だろ」
「うん」
あっさり認められて、思わず口元が緩みそうになる。
「でも、仕事はちゃんとするよ」
「それは頼む」
「任せて」
「……昨日のことも、会社ではなしだからな」
「分かってるよ。昨日、約束したから」
こはくなら、大丈夫だ。
「……じゃあ、会社でな」
「うん。楽しみにしてる」
「俺は緊張するけどな」
「どうして?」
「お前が社長だからだよ」
「秋人の前では、ただのこはくだよ」
「それを会社でやるなって言ってるんだ」
「分かってるって」
朝からこんな調子だ。
俺も残っていた朝食に箸をつけた。
午後、課長から声をかけられた。
「高瀬、アンバー側との打ち合わせ、お前が企画説明を頼む」
「分かりました」
「先方からも、高瀬を担当にしてほしいと言われている」
「……はい」
やっぱり、こはくだ。
資料を抱えて応接室へ向かう。
扉を開けると、社長と課長、それからアンバー側の担当者が席についていた。
その中央に、こはくがいる。
濃紺のスーツに白いシャツ。背筋を伸ばして座る姿には、朝の面影がほとんどなかった。
俺の前で味噌汁をよそっていた男と、本当に同じ人物なのかと思う。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。アンバー・ホールディングスの琥珀です」
低く落ち着いた声が響く。
俺も頭を下げた。
「高瀬です。本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
一瞬目が合った。
けれど、こはくはすぐに資料へ視線を戻した。
「では、企画の概要からお願いします」
俺はスクリーンに企画書を映した。
「今回の商品は、秋限定の栗菓子ギフトです。栗のフィナンシェ、栗餡を使ったパウンドケーキ、栗のサブレを一箱にまとめます」
続けて、商品のイメージを表示する。
「職場の人や家族に、気軽に贈れる秋のギフトを目指しています。価格も、手に取りやすい範囲に抑える予定です」
アンバー側の担当者が資料に目を落とした。
「もう少し高級感を出して、価格を上げる案はどうでしょう?」
「今回は四千円を超えないことを重視しています。『ちょっと贈りたい』と思ったときに選びやすい商品にしたいので」
「なるほど」
俺は次のページを表示した。
「パッケージは、栗の葉を使ったデザインを考えています。箱を開けた瞬間に秋を感じてもらえるようにしたいと思っています」
「一ついいですか?」
こはくが口を開いた。
「はい」
「この包装紙、もう少し余白を増やせませんか?」
「余白ですか?」
「はい。贈り物なら、最初から全部見せるより、箱を開けるまで少し想像できるほうがいいと思います」
画面を見直す。
言われてみれば、今のデザインは情報が多い。
「……俺も、そのほうがいいと思います」
こはくと目が合った。
「じゃあ、修正しましょう」
「はい」
こはくが俺の企画をきちんと理解していることは、それだけで伝わった。
昔なら、俺が何を言っているのか分からなくても、嬉しそうに頷いていたかもしれない。
今は違う。
俺の考えを理解したうえで、自分の意見を返してくる。
そのことが、なにより嬉しかった。
その後も必要な確認を重ね、打ち合わせは終わった。
資料をまとめていると、こはくが俺にだけ聞こえる声で言った。
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
「じゃあ、またね」
「ああ」
こはくは先に応接室を出ていった。
俺も少し時間を置いてから廊下へ出る。
もう、こはくの姿はなかった。
さっきまで目の前にいたのに、今は取引先の社長として自分の仕事へ戻っている。
その切り替えが、妙に新鮮だった。
俺の知らないこはくは、まだいる。
仕事を終えて会社を出る。
駅へ向かっている途中で、スマートフォンが震えた。
『今、駅にいるよ』
こはくからだった。
続けて、もう一通届く。
『秋人が帰るまで待ってる』
「……何でだよ」
思わず笑ってしまった。
駅へ着くと、改札の近くにこはくが立っていた。
ネクタイを少し緩めて、昼間より肩の力が抜けている。
「お疲れさま」
「お前、先に帰ればよかっただろ」
「待ちたかったから」
「……そうかよ」
「帰ろう、秋人」
「ああ」
二人で駅を出る。
しばらく歩いたところで、こはくが隣から声をかけてきた。
「秋人」
「ん?」
「手、つないでもいい?」
昨日と同じ問いだった。
差し出された手を見る。
昨夜、重なった指の感触が蘇った。
「……ここなら」
「うん」
今日は、俺のほうから指を絡めた。
こはくは何も言わなかった。
「昨日より自然になったね」
「うるさい」
「嬉しい」
「はいはい」
つないだ手を見下ろす。
指の間までぴたりと重なっている。
俺はまだ、こはくのことを全部知っているわけじゃない。
四年間、どんな場所で何をしてきたのかも、まだ聞いていない。
それでも、こうして隣を歩いていると、離れていた時間が少しずつ埋まっていくような気がした。
「秋人」
「何だよ」
「今日も泊まる?」
こはくの顔を見る。
昨日なら、返事をするまでにもう少し時間がかかったと思う。
「……うん」
「本当?」
「何回聞くんだよ」
「だって嬉しいから」
「分かったって」
こはくの指に力がこもる。
俺も、その手を握り返した。
「……行こうか」
「うん」
つないだ手をそのままに、二人で歩いていく。
昨日よりずっと自然に、こはくの隣を歩いていた。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
この物語を見つけてくださったこと、そしてここまでお付き合いいただけたことを、とても嬉しく思っています。
これからも楽しんでいただけたら幸いです。




