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第2話:セマンティック・エラー(あるいは、意味のゲシュタルト崩壊)

 人間は、意味が壊れる瞬間に立ち会ったことがあるだろうか。


 例えば、同じ漢字を何度も見続けていると、突然それがただの記号の集合に見えてくる現象がある。


 意味のゲシュタルト崩壊。


 脳が、「理解」を放棄する瞬間だ。


 僕はあれが好きだった。


 世界なんて本来、その程度の曖昧な認識の上に成り立っている。


 だから、壊れる。


 当然のように。


「……で。なんで普通に授業受けてるのよ、あんた」


 昼休み。


 経済学概論。


 教授の眠気を誘う独演会が続く教室の隅で、五月雨雫は信じられないものを見る顔をしていた。


「大学生の本分ですから」


「絶対嘘」


「ええ。単位が惜しいだけです」


 教授が黒板に「合理性」と書く。


 その瞬間、五月雨の肩がびくりと震えた。


「……また見えた?」


 彼女は無言で頷く。


「その文字に、“切り捨て”ってルビが振られてる」


 嫌な響きだった。


 合理化。


 効率化。


 不要物の排除。


 ここ数日、大学全体が、妙な方向へ傾いている。


 まるで世界が、ノイズキャンセリングでも始めたみたいに。


「ねえ、阿久津」


「なんです」


「私、本当に消されるのかな」


 その問いだけは、妙に年相応だった。


 今までの彼女は、毒舌と警戒心で武装していた。


 だが、その奥にあるのは結局、「怖い」という感情なのだ。


「消えるかもしれませんね」


「否定しなさいよ、そこは……!」


「希望的観測を語るほど、僕は親切ではないので」


 彼女が睨む。


 だが、その目は少し赤かった。


 僕は小さく息を吐く。


「ですが、“消された人間”なら、もういます」


「……え?」


 チャイムが鳴った。


 教授の講義終了を告げる声が聞こえる。


 だが、教室の空気は妙に重かった。


 誰も雑談していない。


 スマホを見る。


 笑う。


 騒ぐ。


 そういう「無駄」が、薄い。


 静かすぎる。


「来てください」


 僕は立ち上がった。


「面白くないものを見せます」


          ◇


 旧校舎三階。


 廃部になった文芸部の部室。


 扉には、まだプレートだけが残っていた。


『文芸部』


 だが。


「……なに、これ」


 五月雨が息を呑む。


 部室の中には、何もなかった。


 本棚も。


 机も。


 原稿も。


 埃すら。


 まるで最初から、「文芸部」という概念だけを削除されたみたいに、空っぽだった。


「昨日まで、ここには確かに部室がありました」


「そんな……」


「文芸部員もいた」


「じゃあ今は……?」


「誰も覚えていません」


 沈黙。


 窓の外で風が鳴る。


 古い校舎が軋む。


 その音だけがやけに大きかった。


「名簿からも消えてる。学生課のデータにも存在しない。写真にも映っていない」


「そんなの、あり得ない……」


「ええ。ですが現実です」


 僕は壁を指先でなぞる。


 白い。


 異様なくらい白い。


「“不要”と判断されたんでしょうね」


「不要……」


「文学なんて、効率とは最も遠い場所にある」


 だから消された。


 簡単な話だ。


 世界は今、「意味の最適化」を始めている。


 曖昧さ。


 無駄。


 寄り道。


 ノイズ。


 そういうものから順番に。


「……っ」


 五月雨が急に壁へ触れた。


 その瞬間。


 彼女の瞳が大きく見開かれる。


「見えたのか」


「……ルビ」


「なんて?」


 彼女の唇が震える。


「“次”」


 空気が変わった。


 嫌な沈黙だった。


 まるでこの部屋そのものが、こちらを観察しているみたいな。


「阿久津」


「はい」


「私、今、すごく嫌な予感がする」


「奇遇ですね。僕もです」


 そして。


 廊下の奥から、足音が聞こえた。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 規則正しい音。


 だが、おかしい。


 人気のない旧校舎。


 なのに足音だけが近づいてくる。


 姿が見えない。


「……誰?」


 五月雨の声が掠れる。


 足音が止まった。


 部室の前。


 扉の向こう側。


 そして——


『——不要なノイズを確認』


 機械みたいな声だった。


 人間の声なのに、感情の揺れが一切ない。


『対象:五月雨雫』


 彼女の肩が跳ねる。


『注釈:劇薬』


 空気が軋んだ。


 次の瞬間。


 扉に、白い手形が浮かんだ。


 紙に染み込む漂白剤みたいに、木製の扉そのものが“消え”始める。


「……はは」


 僕は思わず笑った。


「これはまた、随分と趣味の悪い掃除屋だ」


「笑ってる場合!?」


「いえ。ようやく“物語”っぽくなってきたので」


 白が侵食する。


 世界が削られる。


 意味が漂白される。


 その中心で。


 僕はゆっくりと口角を上げた。


「さて」


 嘘つきは、嘘で戦う。


「——こちらも、定義を改ざんするとしましょうか」

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