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第1話:シズク・ドロップ(あるいは、滴る毒の注釈)

 最初に消えたのは、名前だった。


 講義棟の三階。廊下の掲示板。


 そこに貼られていたゼミ募集の紙から、担当教授の名前だけが綺麗に抜け落ちていた。


 破られたわけじゃない。


 修正液でもない。


 最初から存在しなかったみたいに、そこだけ真っ白だった。


 気味が悪い、と誰かが言った。


 だが僕に言わせれば、大学なんて場所は元々、気味の悪いものだ。


 存在価値の曖昧な人間たちが、将来という名前の不安を先送りにするためだけに集められている巨大な保留装置。それが大学である。嘘ですが。


 僕——阿久津零は、その張り紙を一瞥してから、興味を失ったように視線を外した。


 世界の異常なんてものは、大抵、当事者以外には無関係だ。


 だから僕は、旧校舎の談話室で一人、本を読んでいた。


 冷めた紅茶。


 軋む椅子。


 誰も来ない部屋。


 実に素晴らしい。


 孤独とは、人類が発明した娯楽の中でも、最もコストパフォーマンスに優れた贅沢である。


 嘘ですが。


「……やっぱり、ここにいた」


 声。


 顔を上げる。


 白かった。


 まず髪が白い。


 雪とか絹糸とか、そういう詩的な白ではない。校則と社会性を漂白剤で煮込んだような、暴力的な白色。


 その少女——五月雨雫は、ひどく険しい顔で僕を見下ろしていた。


「探したんですか。ご苦労様です。僕ならここで文明から静かに切り離されていましたよ」


「……阿久津。あんた、変なもの見なかった?」


「哲学的ですね。“変”の定義次第では、僕は毎朝鏡を見ていますが」


「ふざけないで」


 彼女は僕の机に学生証を叩きつけた。


 五月雨雫。


 そう印字された学生証。


 だが彼女の指は、小さく震えていた。


「私の名前が、おかしいの」


「名前?」


「見えるのよ。言葉の上に、別の言葉が」


 彼女は目元を押さえた。


 疲れている人間の仕草ではない。


 痛みに耐える人間の顔だった。


「看板には“倒産寸前”って注釈が見える。教授の笑顔には“保身”。カップルには“惰性”。……そういうのが、昔から見える」


「それは難儀な能力ですね。世界が常時、副音声付きじゃないですか」


「でも、自分の名前は違った。今まで、ずっと——」


 彼女が学生証を睨む。


 唇が震える。


「“毒”だった」


「はあ」


「でも、今朝から変わったの。“劇薬”に」


 沈黙。


 窓の外で、運動部の掛け声が響く。


 青春だ。


 反吐が出る。


「……阿久津。あんたには見えないの?」


「残念ながら。僕の視力は現実を見る程度の性能しか搭載していません」


「じゃあ、なんでそんなに平然としてるのよ……!」


「他人事ですから」


 即答だった。


 彼女は絶句した。


 その顔があまりに「最低な人間を見た」という顔だったので、僕は少しだけ愉快になる。


「自分以外の人間なんて、全部、遠い銀河の話ですよ。燃えていようが凍っていようが、僕の生活には関係ない」


「最低」


「よく言われます。主に自分から」


 だが、と僕は続けた。


「その“劇薬化”には、少し心当たりがあります」


 彼女の表情が強張る。


 僕は談話室の壁を指差した。


 古びたポスター。


『学内美化運動強化月間』


 そう書かれている。


 笑える。


 この大学は最近、“綺麗”になりすぎていた。


 落書きが消えた。


 誰も読まないフリーペーパーが消えた。


 深夜の足音が消えた。


 意味のない雑談が消えた。


 まるで世界そのものが、「不要なノイズ」を削除し始めているみたいに。


「世界から“無駄”が消えているんですよ」


「……何、それ」


「さあ。ですが、もし世界が効率化を始めたのだとしたら——」


 僕は彼女の学生証を指先で弾いた。


「“毒”より“劇薬”の方が、処理優先度は高そうだ」


 彼女の顔色が変わる。


 今ようやく、彼女は理解したのだ。


 これは思い込みでも、気のせいでもない。


 自分は現在進行形で、世界から“危険物”として定義され始めている。


「……どうすればいいの」


「簡単です」


 僕は本を閉じた。


「犯人を見つけて、定義を書き換える前に、こちらから相手を“詰ませる”」


「詰ませるって……」


「言ったでしょう。僕は嘘つきなんです」


 立ち上がる。


 埃っぽい談話室。


 終わりかけた青春。


 そして、壊れ始めた意味の世界。


 案外、退屈はしなさそうだった。


「行きましょうか、五月雨さん」


 僕は笑う。


「もちろん、あなたを助ける気なんてありませんが。——嘘ですが」


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