剣士カインと託されし命の鎖 - 4
西の防壁の穴は、ひとまず塞がった。
泥と丸太を強引に積み上げ、村の男たちが雨の中で必死に補修を終えたのだ。
だが、その代償はあまりに大きかった。
カインは今、北の深森の中を走っている。
目的は、薬草だ。
村に備蓄されていた薬では、リアムの傷を塞ぐことができなかった。
古老が語った、傷を塞ぐ特効薬である蒼月草を求めて、カインは単身で森へ飛び出した。
雨は止まず、体温を容赦なく奪っていく。
視界が泥のように濁り、足が縺れた。
(……何をやっているんだ、俺は)
地面に顔を伏せたまま、カインは荒い息を吐いた。
泥の味が口の中に広がる。
誰も死なせない。
アイツ(オーク)から託された命を、一つも零さない。
そのために壁を高くし、夜番を増やし、万全を期したはずだった。
だが、その「万全」がリアムを血の海に沈めた。
自分の慢心と、正論を拒絶した臆病さが、最も頼りにしていた男の命を削っている。
(守るための剣だったはずだろ)
カインは震える手で地面を掴み、無理やり体を押し上げた。
(それなのに、俺が一番、皆を危険に晒しているじゃないか)
肺が焼け付くように痛い。
だが、ここで立ち止まることは、リアムを見捨てることと同義だった。
カインは再び、昏い森の奥へと走り出した。
やがて、木々の隙間に崩れかけた廃屋が見えた。
意識が遠のく中、カインは這いずるようにしてその扉を押し開けた。
「……誰だ?」
低い声がした。
暗い廃屋の中には、数人の男たちがいた。
雨外套の隙間から覗くのは、王都の騎士団が纏う白銀の鎧だ。
その中心で腕を組んで座る、顔に深い傷を持つ巨漢――ボルグが、カインを鋭く睨みつけていた。
カインは剣を抜く気力も残っておらず、そのまま土間に崩れ落ちた。
「火を……貸してくれ」
カインは震える手で、部屋の隅にある炉跡の薪に火をつけようとした。
「無駄だ。そんな湿った木じゃ、火はつかねえよ」
ボルグが吐き捨てるように言った。
「俺たちもさっきから試してるんだ」
だが、カインが火打ち石を一度叩くと、不思議なことが起きた。
パチリ、と。
小さな火花が湿った薪に落ちた瞬間、それは瞬く間に赤々と燃え広がった。
「……嘘だろ」
騎士の一人が驚きの声を上げた。
カインはその火を、ただじっと見つめていた。
詰め所で見つめていた、あの奇妙に消えない火と同じだ。
雨漏りの雫が落ちても、その火は決して消えることなく、カインの凍えた指先を確かに暖めた。
「不思議な火だな」
ボルグが、火とカインを交互に見ながら言った。
「お前、どこの自警団だ。こんな嵐の夜に、一人で泥だらけになって何をやってる?」
カインはすぐには答えなかった。
だが、冷え切った体を包み込む小さな火の熱が、少しずつ彼の強張りを解かしていく。
「……北の、開拓村だ」
「ここからだと、かなり距離があるぜ。まさか、村を落とされたのか」
「……違う。薬草を探しに来た」
ボルグは怪訝そうに眉をひそめた。
「薬草? こんな嵐の森でか。よっぽど大事な仲間が死にかけてるってわけだ」
その言葉が、カインの胸の奥の最も柔らかい部分を無遠慮に抉った。
張り詰めていた糸が、音を立てて切れるのが分かった。
「……ああ」
カインは火に手をかざしたまま、掠れた声を出した。
「俺のせいで、リアムが死ぬかもしれないんだ」
「……急に何の話だ?」
その冷ややかな声に、カインはハッとして我に返った。
「……そうだな。初対面の人間に話す話題じゃなかった。すまない、忘れてくれ」
カインは口を閉ざし、再びうつむいた。
ボルグは少しの間、無言でカインの泥まみれの顔をじっと見下ろしていた。
やがて、短く息を吐く。
「……話してみろ」
その声には、拒絶とは違う、静かな重みがあった。
カインの肩が、微かに震え始める。
「俺が壁を厚くしろと言った。俺が部下たちを休ませなかった。……リアムは止めてくれたのに、俺は耳を貸さなかったんだ。あいつ、血まみれになって俺を庇って……」
カインは両手で顔を覆った。
「村の奴らも、きっと俺を軽蔑しているはずだ。……俺は、最低の指揮官だ。あいつに顔向けできない……っ」
自嘲と懺悔が、薄暗い廃屋に響いた。
騎士たちは顔を見合わせ、黙り込んだ。
ボルグは、燃え続ける火を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……失敗しない指揮官なんていねえ」
カインは顔を上げた。
「俺も昔、判断を誤って仲間を死なせた。……取り返しのつかねえ過去がある」
ボルグの横顔には、泥水をすすってきた者特有の凄みと、消えない傷痕があった。
「だがな、そこで立ち止まる奴はただの臆病者だ」
ボルグはゆっくりとカインへ視線を移し、真っ直ぐに射抜いた。
「リアムがお前を信じて、背中を預けた事実は変わっちゃいねえ。失敗を糧にして前に進め。血を流しても進み続けるその不器用な背中に、皆は付いてくるんだ」
カインは、ボルグの言葉に息を呑んだ。
(俺の背中に、まだ付いてきてくれる奴がいるんだろうか)
心の底ではまだ、その疑念が拭いきれない。
その時だった。
「……っ!」
カインが、弾かれたように顔を上げた。
ボルグの部下たちも一斉に剣の柄に手をかけ、立ち上がる。
雨音に混じって、泥をこすり合わせるような無数の足音が、廃屋の周囲を取り囲み始めていた。
グルル、と低い唸り声が木々の隙間から響く。
魔獣の群れだ。
カインが流した血の匂いを追って、ここまでやってきたに違いない。
「……俺のせいだ」
カインは震える足で立ち上がった。
腰の剣を抜く。
「俺が、あんたたちを巻き込んでしまった。……俺が囮になって引きつける。あんたたちは、その隙に逃げてくれ」
それは、カインなりの責任の取り方だった。
自分の過ちで他人が死ぬくらいなら、自分が命を捨ててでも守る。
第一部の雪山でオークがそうしたように、カインもまた、一人で全てを背負って終わらせようとした。
カインが廃屋の扉へ向かって駆け出そうとした、その瞬間。
ドゴォッ!
鈍い音が響き、カインの体が土間に叩きつけられた。
視界が明滅する。
ボルグが、カインの顔面を容赦なく殴り飛ばしたのだ。
「……何の、つもりだ」
泥まみれになって咳き込むカインの胸倉を、ボルグが片手で掴み上げて凄んだ。
「一人で死んで、責任を取った気になるな。そういう『悲劇の英雄』気取りが、一番周りを不幸にするんだよ」
ボルグの怒号が、冷え切った廃屋に響き渡った。
「お前は指揮官だろうが。自分が死ねば丸く収まるなんて、甘えた考えは今すぐ捨てろ」
ボルグはカインを突き飛ばし、自らも巨大な剣を背中から引き抜いた。
彼の背後に立つ白銀の騎士たちも、一切の動揺なく陣形を組み始めている。
「俺たちを使え。お前一人で守れないなら、組織として守り抜け。……それが上に立つ者の責任だ」
扉の外で、魔獣たちの咆哮が夜の森を揺らした。




