剣士カインと託されし命の鎖 - 1
王都の東門。
秋の冷たい雨が、石畳を黒く染め上げていた。
降り続く雨は音を立てて土を穿ち、跳ね返る泥が門の壁を汚している。
門を行き交う人の流れは、数ヶ月前とは完全に逆転していた。
王都から外へ向かう者はほとんどいない。
代わりに、辺境から逃れてきた避難民の列が、途切れることなく門へと続いている。
彼らは一様にうつむき、濡れた布を被り、泥を引きずりながら歩いていた。
ヨハンは、濡れた石壁のくぼみに背を預けていた。
使い込まれた雨外套のフードを深く被り、静かに空を見上げる。
雲は厚く、陽光の欠片もない。
(……冷えるな)
吐く息は、わずかに白い。
ヨハンの視線の先、雨の向こう側。
かつて、この門から一人の少年を見送った。
カイン。
その瞳に濃い暗い炎を宿し、錆びついた剣のように尖っていた少年。
彼は、一人の心優しきオークの命と引き換えに、人間の子供たちと共に生き延びた。
オークの遺志を継ぎ、人間を憎みながらも、誰かを「守る」ために剣を振るうことを選んだ。
今は、北の開拓地で村を束ねているという。
風の噂では、魔族の先兵による襲撃を自警団だけで退け、立派な指導者になっているらしい。
先日、この門を出た若き剣士リアムも、無事にカインの元へ辿り着き、共に戦ったと聞く。
だが。
ヨハンの胸の奥に、小さな棘のような違和感が刺さっていた。
数日前から続く、軋むような胸騒ぎ。
かつて親友のダリアを見送った時に感じたものと、よく似ている。
カインは、真面目すぎる。
託された命。守るべき子供たち。背負った村。
責任という鎖は、時に人を強く立たせる。
だが、その鎖が重すぎれば、人の視野は狭くなる。
守ることに意識を向けるあまり、失うリスクに過敏になっていないか。
(カイン。お前さん、今どんな顔をしてる)
ヨハンはゆっくりと目を閉じた。
周囲の雨音だけが、等間隔に響き続ける。
祈りに、言葉は要らない。
ただ、遠く離れた場所で張っているであろう背中を思い浮かべる。
その冷え切った手元に、微かな熱が残るように。
その時、脳内に、冷ややかな雨を切り裂くような、澄んだ音が響いた。
《ピーン! 遠き旅人へ、あなたの祈りが届きました》
《スキル【見送る者】が発動しました。対象者カインに、祝福『灯した火が、ほんの少しだけ長く燃え続けるようになる』を付与しました》
「……ヨハン爺さん。こんな日に、外に立ってなくてもいいだろう」
交代の衛兵が、肩をすくめながら門番小屋から出てきた。
雨だれを払いながら、呆れたようにヨハンを見る。
ヨハンは目を開け、フードの位置を直した。
「ああ。……少し、遠くの知り合いを思い出してね」
「知り合い? 避難民の中にいたのか」
「いや。ずっと北にいる若者さ。立派にやってるらしいがね」
衛兵は鼻を鳴らした。
「北の開拓村か。景気のいい話は聞いてるぜ。何でも、魔王軍のバケモノどもを、村の人間だけで撥ね退けたって噂だ。……俺たちも、あやかりたいもんだ」
「……ああ、そうだな」
ヨハンは、もう一度だけ北の空を見た。
雨足は、いっそう強くなっていた。
*
王都から遥か北。
峻険な山々に囲まれた、開拓村。
今やその村は、外観だけを見れば『砦』と呼ぶべき威容を誇っていた。
丸太を隙間なく組み上げた防壁は高くそびえ、その外側には深い壕が巡らされている。
冷たい雨が、容赦なく砦を打ち据えていた。
自警団の詰め所として使われている小屋。
隙間風が吹き込み、屋根の端からは雨漏りが滴り落ちている。
部屋の中央に置かれた鉄なべの下で、小さな焚き火が赤く明滅していた。
薪は湿り切っており、本来ならとっくに消えているはずの状態だ。
だが、その小さな種火は、不思議なほど粘り強く、パチパチと微かな熱を保ち続けていた。
その火の前に、カインが座っている。
「……ここも、補強しておくか」
カインが呟いた。
壁に広げられた村の図面を見つめ、木炭で線を書き足している。
目の下には、疲労を示す薄い隈があった。
「カインさん」
背後から、静かな声がかけられた。
小屋の入り口に立っていたのは、リアムだった。
カインは図面から顔を上げず、手を動かし続けた。
「見回りの報告か、リアム」
「ええ。異常はありません。ただ……北側の防壁ですが、これ以上の土嚢積みを続ける予定ですか」
「ああ。丸太の隙間を埋める。魔物の力なら、あの程度の隙間でも抉じ開けかねない」
カインの筆圧が、少し強くなった。
先日、魔族キリアと戦った時の記憶が手元を硬くさせていた。
「万全を期すお考えは理解できます」
リアムは小屋の中へ一歩踏み出した。
「ですが、備蓄の土嚢袋も残り少ない。これ以上防壁の補強に物資と人手を回せば、今度は夜間の見回りに支障が出ます」
「分かっている。だが、相手は魔族だぞ。いつまた、あれ以上の連中が来るか分からない。念には念を入れるべきだ」
カインの主張は、決して間違ってはいない。
脅威の度合いを知っているからこそ、可能な限りの防衛線を構築しようとしている。
「ええ、その通りです。ですが、今皆に必要なのは防壁の厚さより、体を休める時間かと」
リアムの声は平坦だった。
「先日の一件で、自警団の疲労もピークに達しています。防壁の中の安全を確保することは重要ですが、少し、視界が狭くなっていませんか」
カインの手が、ピタリと止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
「……俺は」
カインの声は低かった。
腰の剣の柄に、無意識に手が伸びている。
「俺は、あいつらを守ると……託されたんだ。少しの隙も、作りたくないだけだ」
静かな小屋の中に、カインの押し殺したような声が落ちた。
リアムはそれ以上反論せず、静かに目を伏せた。
カインの背負っているものの重さを、そして彼なりの合理性を否定することは誰にもできない。
「……分かりました。明日の作業予定は、少し減らしておきます」
リアムが踵を返し、小屋を出て行く。
残されたカインは、再び図面に向き直った。
過剰かもしれない。だが、もしものことがあれば、取り返しがつかない。
その恐れが、カインの思考を内へ内へと縛り付けていた。
湿った薪にくすぶる小さな火だけが、パチリ、と微かな音を立てる。
ヨハンの祈りがもたらしたその火の暖かさに、カインはまだ気づいていなかった。




