『老冒険者バルドと泥だらけの盾』 - 2
王都を出て半日が過ぎた頃、空から冷たい雨が落ちてきた。
西へと続く街道は、無数の足跡と車輪の跡によって踏み荒らされ、足首まで浸かるほどの深い泥濘へと変わっていた。
バルドの歩みは遅かった。
息が上がり、肺が焼けるように痛い。一歩足を踏み出すごとに泥がブーツに吸い付き、老いた筋力を容赦なく奪っていく。
「……くそっ、この雨め」
バルドは悪態をつきながら、分厚い金属板に覆われた腕で顔の雨水を拭った。
全身に纏った豪奢な装飾鎧。かつて大金をはたいて作らせた特注品だ。胸当てには獅子の顔が浮き彫りにされ、肩や腕の関節部には過剰な金細工が施されている。
雨水を吸った平服と、この巨大な鉄の塊が、バルドの体力を限界まで削っていた。
街道の脇に、一台の荷馬車が横転していた。
その傍らの泥水の中に、ひとりの若い義勇兵がうずくまっていた。腹部をひどく斬られている。
「おい、若造」
バルドが声をかけると、義勇兵は虚ろな目を向けた。
「……あんた、西へ行く気か……?」
「ああ。ルリエンの村だ。あそこに娘がいるんでな」
バルドはことさらに胸を張り、腰の魔法剣の柄を叩いて見せた。
「安心しろ。この『双牙のバルド』が来たからには、魔王軍の尖兵どもなど一日で片付けてやる」
義勇兵の口から漏れたのは、乾いた笑いだった。
「……もう、手遅れだ。昨日の夜にゴブリンの部隊が入った。村は……もう燃えてる……」
「なんだと……?」
「引き返せ、お爺さん。そんな立派な金ピカの鎧を着てたって、たった一人じゃ死にに行くだけだ……」
義勇兵はそれだけ言うと、力尽きたように目を閉じた。
バルドは泥濘を蹴り飛ばした。
「馬鹿野郎が。手遅れなものか」
焦りが、老いた心臓を早鐘のように打たせる。
バルドは急いだ。この剣で魔物を蹴散らし、絶望する娘の前に立たなければならない。そうすれば、また昔のように――。
それから一時間が過ぎた。
雨は本降りとなり、視界は白く煙っている。
ルリエンの村へと続く、街道の石橋が見えてきた。橋の向こう側からは、黒い煙が立ち上っている。
石橋の中央には、三つの異形の影が立っていた。
ゴブリンの斥候部隊だった。手には、無骨な鉄の棍棒や錆びた鉈を握っている。
金属音を立てて近づいてくるバルドに気づき、彼らは黄色く濁った目を向けた。
バルドは立ち止まり、荒い息を吐きながら腰の魔法剣を抜いた。
だが、長年手入れを怠っていた刀身は鞘に癒着しており、無理やり引き抜いたため、ひどく鈍い音が鳴っただけだった。
「……退け、化け物ども。俺を誰だと……!」
魔物たちは、バルドの派手な鎧に恐れをなすことはなかった。むしろ、その重い金属に振り回されている老人の足元のふらつきや、剣を構える動作の緩慢さを即座に見抜いた。
三匹のゴブリンは顔を見合わせてゲラゲラと下劣な笑い声を上げると、奇声と共に一斉に飛びかかってきた。
バルドは剣を上段に構えた。
昔のように一撃で魔物を両断する軌跡をイメージする。
だが、右足は泥濘に阻まれて持ち上がらず、両腕の筋肉は冷たい雨に冷やされ、悲鳴を上げて硬直した。
遅い。
「ガァッ!」
ゴブリンが振り下ろした鉄の棍棒が、バルドの魔法剣に激突した。
魔力などとうの昔に枯渇していた。
パキン、という乾いた音が雨の中に響き、宝石が埋め込まれた魔法剣が呆気なく中ほどからへし折れた。
「あ……?」
半分しかない剣の残骸を信じられない思いで見つめた、その致命的な隙。
別のゴブリンの棍棒が、バルドの胴体を横殴りに打ち据えた。
「ごふっ……!」
分厚い装飾鎧のおかげで骨折は免れたものの、凄まじい衝撃が内臓を揺らす。
多勢に無勢。まともな反撃すらできず、バルドは防戦一方のままふらつきながら後ずさった。
そして、足元からふっと土の感触が消えた。
そこは街道の端、雨で増水した川へと続く急斜面だった。
激しい水飛沫と共に、バルドの重い体は濁流渦巻く冷たい川へと沈み込んだ。
ゴブリンたちは崖の上からゲラゲラとひとしきり嘲笑うと、川に落ちた獲物の追撃を諦め、去っていった。
冷たい川の水が、バルドの意識を引き戻した。
激しい流れに飲まれそうになりながらも必死にもがき、下流の浅瀬になんとか漂着する。
泥と川水にまみれ、仰向けに倒れ込む。
起き上がらなければならない。だが、装飾鎧の隙間から大量の水が入り込み、ただでさえ重かった金属板がバルドを浅瀬の泥に縫い留めていた。
(動け……村へ、行かなきゃならねえのに……)
息ができない。口の中に泥水が流れ込む。
冷たい雨が顔を打つ中、ふと、何年も前の光景がフラッシュバックした。
妻の葬儀の日だった。
名声を高めるための依頼を優先し、妻の最期に間に合わなかったバルド。数日遅れで教会へ駆けつけた時、彼はわざわざ屋敷に戻ってこの「豪奢な金細工の鎧」に着替え、これ見よがしに磨き上げてから葬儀に参列した。
教会の冷たい床で泣き崩れる十代の娘に、バルドは金ピカの鎧を鳴らして近づき、言った。
『泣くな、マリア。俺が火竜を倒したことで、歴史に俺たちの名が刻まれたんだ』
その時のマリアの、氷のように冷たく、すべてを軽蔑しきった瞳。
『お父さんはずっと、自分の飾られた姿しか見ていないのね』
マリアはそれだけを言い残し、二度とバルドの顔を見ることはなかった。
(違う。そんなことはない)
冷たい泥水の中で、バルドは必死に首を振った。
(俺はマリアを助けるために……父親として、あいつが大事だから……!)
だが、起き上がろうとした腕は、無駄に重い金細工のせいで泥から抜けない。魔物を倒すための魔法剣は、手入れを怠っていたせいで折れた。
体を押し潰しているのは、ただの鉄の重量だろうか。
「……うおおおっ!」
バルドは泥水の中で叫び、動かないはずの腕を強引に持ち上げた。
首元にある、装飾鎧の太い革の留め具に指をかける。
ありったけの力を込め、留め具を引きちぎる。
胸部と背中を固定していたジョイントが外れ、金細工の施された重い金属の塊が、鈍い音を立てて川の中へ崩れ落ちた。
肩当てを捨てる。小手も、すね当ても、すべて泥水の中に投げ捨てた。
身軽になったバルドは、大きく息を吸い込み、浅瀬から岸へと這い上がった。
重い装飾鎧は、濁流の中に消えた。
半分に折れた魔法剣は、崖の上の泥濘に置いてきた。
今の彼が纏っているのは、泥と川水にまみれた薄汚れた平服だけだ。
自分が無様な老いぼれであるという現実は、もう骨の髄まで理解した。
だが、それでも、娘のいる村へ行かなければならなかった。
バルドは泥だらけの顔を上げ、石橋の向こうへと駆け出した。




