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書籍化:門番の俺、スキル【見送る】でいつの間にか国を救っていた件  作者: 堀籠遼ノ助(ほりこめりょうのすけ)
第二部 第五章

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『老冒険者バルドと泥だらけの盾』 - 3

 雨は小降りになっていた。

 泥濘(ぬかるみ)の街道を抜け、ルリエンの村が視界に入った時、バルドの足は限界を迎えていた。


 肺が焼けるように痛い。老いた心臓が、肋骨(ろっこつ)を内側から叩き割るかのように激しく脈打っている。

 両足は鉛のように重く、もはや感覚すらなかった。

 泥に足をとられ、前のめりに倒れ込む。

 泥水をすすり、荒い息を吐く。もう一歩も動けない。肉体は完全に死に体だった。


 だが、風に乗って微かに聞こえた悲鳴が、バルドの消えかけた命の火に油を注いだ。


(マリア……)


 バルドは泥まみれの手で大地を掴み、無理やり上体を起こした。

 気力などとうに尽きている。ならば、残された魂を燃やすしかない。

 立ち上がり、再び走り出す。

 もはや走っているというより、転がるように前へ進んでいるだけだった。

 燃え盛る村の入り口を抜け、入り組んだ路地へと飛び込む。


 村の奥、踏み荒らされた麦畑の脇。

 屋根の焼け落ちた家の前で、マリアが幼い孫娘を抱きしめてうずくまっていた。

 その数歩先には、二匹のゴブリン。

 一匹が、無慈悲に(なた)を大きく振り上げる。


 間に合わない。

 武器もない。力も残っていない。

 それでもバルドは、死に物狂いで泥を蹴った。


「おおおおおおっ!」


 獣のような咆哮と共に突進し、ぬかるみで足を滑らせる。

 勢いよく転倒したバルドの体は、泥の上を滑り、(なた)を振り下ろそうとしていたゴブリンの足元に激しく衝突した。


「ガァッ!?」


 不意を突かれたゴブリンがバランスを崩し、たたらを踏む。

 標的を邪魔された魔物は、黄色く濁った目を血走らせ、足元に転がった薄汚れた老人へと怒りの矛先を向けた。

 ゴブリンが再び(なた)を高く振り上げる。

 バルドは這いずるように身をよじり、足元に転がっていた柄のひび割れた『(くわ)』を拾い上げた。

 それしか、なかった。


 ガガッ、と重い音が響く。

 振り下ろされた(なた)の刃を、バルドは(くわ)の木の柄で必死に受け止めた。

 ゴブリンがゲラゲラと下劣な笑い声を上げながら、何度も、何度も(なた)を振り下ろす。

 二撃、三撃。

 そのたびに、バルドの腕の骨が軋み、(くわ)の柄に深い亀裂が走っていく。


「お父さん、もうやめて! 逃げて!」


 背後で、マリアの悲痛な叫び声が響いた。

 かつて自分を軽蔑し、絶縁を突きつけた娘の声。

 その声を聞いて、バルドは泥まみれの顔で、ひどく凶悪に笑った。


(逃げるものか)


 見栄(みえ)虚勢(きょせい)も捨てた。過去の栄光もない。

 だが、父親としての意地だけは、ここにあった。


 バキィッ、という音と共に、限界を迎えた(くわ)の柄が真っ二つに折れた。

 (なた)の刃が、バルドの肩口に深く食い込む。

 血が噴き出す。


「ガァアアアッ!」


 勝利を確信したゴブリンが歓喜の声を上げた、その瞬間。


「おおおおおっ!!」


 バルドの魂の叫びが、雨空を(つんざ)いた。

 彼は肩に(なた)を受けながらも一歩も退かず、折れて鋭く尖った(くわ)の柄の残骸を、下から上へ向かって渾身の力で突き出した。


「ギ、ギャ……?」


 泥だらけの木の槍は、ゴブリンの黄色い右目に深々と突き刺さっていた。

 魔物は痙攣し、(なた)から手を離して泥濘(ぬかるみ)の中へと崩れ落ちる。絶命だった。


 残されたもう一匹のゴブリンが、信じられないものを見るように目を見開いた。

 足元で仲間が死んでいる。

 それを殺したのは、武器も防具も持たない、ただの薄汚れた老いぼれだった。


 バルドは肩から血を流しながら、ゆっくりと立ち上がった。

 満身創痍。肉体はとうに限界を超えている。

 だが、その全身から立ち上る気迫(きはく)は、魔物すら戦慄させるほどの圧倒的な熱を持っていた。

 王都の東門で、あの白髪の門番がかけてくれた静かな祈り。


(あんたのその背中が、大切な者を守る一番の(たて)となることを)


 その祝福が、ただ娘を守るための(たて)となった彼の背骨を、決して折れぬ鋼のように支え続けていた。

 バルドは血走った目で残るゴブリンを真っ直ぐに睨みつけると、残された力をすべて振り絞り、腹の底から一喝した。


「――失せろッ!!」


 その凄まじい咆哮に、ゴブリンは悲鳴を上げた。

 魔物は武器を放り出し、怯えきった顔で来た道を一目散に逃げ去っていく。


 バルドは魔物の姿が見えなくなるまで、微動だにせず立ち尽くしていた。

 やがて、張り詰めていた糸がふっと切れたように、彼の体は大きく傾いた。


「お父さん!」


 マリアが駆け寄り、崩れ落ちそうになる泥だらけの体を必死に抱きとめる。


 その時。

 ヒュン、という微かな風切り音と共に、逃げ去ろうとしていたゴブリンの首が、呆気なく胴体から切り離されて宙を舞った。

 音もなく泥濘(ぬかるみ)に降り立ったのは、一振りの長剣を構えた若い剣士だった。

 かつて王都の東門でヨハンに見送られ、現在は辺境の村々を守る遊撃隊の隊長にまで成長した少年剣士、カインだ。


 カインは長剣を鞘に収めると、背後に続く数十名の遊撃隊の兵士たちに指示を飛ばした。

 そして、ゆっくりとバルドの傍らに歩み寄る。

 彼は、泥だらけで倒れ伏すバルドと、泣き崩れるマリアを一瞥し、深い敬意を込めて短く言った。


「よく持ちこたえてくれました。立派な(たて)でした。……あとは、我々が引き受けます」


 その言葉を聞き、バルドは力なく微笑んだ。

 娘の震える腕の温もりを感じながら、彼は冷たい泥の中に静かに意識を手放した。

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