『老冒険者バルドと泥だらけの盾』 - 3
雨は小降りになっていた。
泥濘の街道を抜け、ルリエンの村が視界に入った時、バルドの足は限界を迎えていた。
肺が焼けるように痛い。老いた心臓が、肋骨を内側から叩き割るかのように激しく脈打っている。
両足は鉛のように重く、もはや感覚すらなかった。
泥に足をとられ、前のめりに倒れ込む。
泥水をすすり、荒い息を吐く。もう一歩も動けない。肉体は完全に死に体だった。
だが、風に乗って微かに聞こえた悲鳴が、バルドの消えかけた命の火に油を注いだ。
(マリア……)
バルドは泥まみれの手で大地を掴み、無理やり上体を起こした。
気力などとうに尽きている。ならば、残された魂を燃やすしかない。
立ち上がり、再び走り出す。
もはや走っているというより、転がるように前へ進んでいるだけだった。
燃え盛る村の入り口を抜け、入り組んだ路地へと飛び込む。
村の奥、踏み荒らされた麦畑の脇。
屋根の焼け落ちた家の前で、マリアが幼い孫娘を抱きしめてうずくまっていた。
その数歩先には、二匹のゴブリン。
一匹が、無慈悲に鉈を大きく振り上げる。
間に合わない。
武器もない。力も残っていない。
それでもバルドは、死に物狂いで泥を蹴った。
「おおおおおおっ!」
獣のような咆哮と共に突進し、ぬかるみで足を滑らせる。
勢いよく転倒したバルドの体は、泥の上を滑り、鉈を振り下ろそうとしていたゴブリンの足元に激しく衝突した。
「ガァッ!?」
不意を突かれたゴブリンがバランスを崩し、たたらを踏む。
標的を邪魔された魔物は、黄色く濁った目を血走らせ、足元に転がった薄汚れた老人へと怒りの矛先を向けた。
ゴブリンが再び鉈を高く振り上げる。
バルドは這いずるように身をよじり、足元に転がっていた柄のひび割れた『鍬』を拾い上げた。
それしか、なかった。
ガガッ、と重い音が響く。
振り下ろされた鉈の刃を、バルドは鍬の木の柄で必死に受け止めた。
ゴブリンがゲラゲラと下劣な笑い声を上げながら、何度も、何度も鉈を振り下ろす。
二撃、三撃。
そのたびに、バルドの腕の骨が軋み、鍬の柄に深い亀裂が走っていく。
「お父さん、もうやめて! 逃げて!」
背後で、マリアの悲痛な叫び声が響いた。
かつて自分を軽蔑し、絶縁を突きつけた娘の声。
その声を聞いて、バルドは泥まみれの顔で、ひどく凶悪に笑った。
(逃げるものか)
見栄も虚勢も捨てた。過去の栄光もない。
だが、父親としての意地だけは、ここにあった。
バキィッ、という音と共に、限界を迎えた鍬の柄が真っ二つに折れた。
鉈の刃が、バルドの肩口に深く食い込む。
血が噴き出す。
「ガァアアアッ!」
勝利を確信したゴブリンが歓喜の声を上げた、その瞬間。
「おおおおおっ!!」
バルドの魂の叫びが、雨空を劈いた。
彼は肩に鉈を受けながらも一歩も退かず、折れて鋭く尖った鍬の柄の残骸を、下から上へ向かって渾身の力で突き出した。
「ギ、ギャ……?」
泥だらけの木の槍は、ゴブリンの黄色い右目に深々と突き刺さっていた。
魔物は痙攣し、鉈から手を離して泥濘の中へと崩れ落ちる。絶命だった。
残されたもう一匹のゴブリンが、信じられないものを見るように目を見開いた。
足元で仲間が死んでいる。
それを殺したのは、武器も防具も持たない、ただの薄汚れた老いぼれだった。
バルドは肩から血を流しながら、ゆっくりと立ち上がった。
満身創痍。肉体はとうに限界を超えている。
だが、その全身から立ち上る気迫は、魔物すら戦慄させるほどの圧倒的な熱を持っていた。
王都の東門で、あの白髪の門番がかけてくれた静かな祈り。
(あんたのその背中が、大切な者を守る一番の盾となることを)
その祝福が、ただ娘を守るための盾となった彼の背骨を、決して折れぬ鋼のように支え続けていた。
バルドは血走った目で残るゴブリンを真っ直ぐに睨みつけると、残された力をすべて振り絞り、腹の底から一喝した。
「――失せろッ!!」
その凄まじい咆哮に、ゴブリンは悲鳴を上げた。
魔物は武器を放り出し、怯えきった顔で来た道を一目散に逃げ去っていく。
バルドは魔物の姿が見えなくなるまで、微動だにせず立ち尽くしていた。
やがて、張り詰めていた糸がふっと切れたように、彼の体は大きく傾いた。
「お父さん!」
マリアが駆け寄り、崩れ落ちそうになる泥だらけの体を必死に抱きとめる。
その時。
ヒュン、という微かな風切り音と共に、逃げ去ろうとしていたゴブリンの首が、呆気なく胴体から切り離されて宙を舞った。
音もなく泥濘に降り立ったのは、一振りの長剣を構えた若い剣士だった。
かつて王都の東門でヨハンに見送られ、現在は辺境の村々を守る遊撃隊の隊長にまで成長した少年剣士、カインだ。
カインは長剣を鞘に収めると、背後に続く数十名の遊撃隊の兵士たちに指示を飛ばした。
そして、ゆっくりとバルドの傍らに歩み寄る。
彼は、泥だらけで倒れ伏すバルドと、泣き崩れるマリアを一瞥し、深い敬意を込めて短く言った。
「よく持ちこたえてくれました。立派な盾でした。……あとは、我々が引き受けます」
その言葉を聞き、バルドは力なく微笑んだ。
娘の震える腕の温もりを感じながら、彼は冷たい泥の中に静かに意識を手放した。




