木曜日
学校から、もといさくらの部屋から一番近いスーパーは、シドニーでの二大スーパーの赤い方だ。いつもよりさらに早起きし、てきぱき準備をし、静かな道路に出る。
静まり返った朝の住宅街を、日光がじんわり温めていく。赤茶のレンガ造りの一戸建て、広い庭とプール付き、たちがお行儀よく整列する街並み。木製の電柱には何本もひびが入っている。耐震なんて考えずに設計された通りを歩くたび、ここじゃないと心がささやく。違和感が膨らんでいく。学校指定の黒い合皮の紐靴をこつんと鳴らしてみる。ポニーテールにした長い髪を意味もなく三つ編みに結い直しながら坂をくだった。
先生との最後の日。一週間だけでも教えてくださってありがとうと感謝を伝えるため、チョコレートでも買ってメモを添えて学校に持っていこうと思いついたのは月曜日だ。できれば一言、想いを伝えられたら。そんな浮かれた妄想にふけっていた過去の自分を鼻で笑いたくなった。そんな幻想は、あの夜にびりびりに破いて捨てた。それでも、きちんと言葉にして伝えたい。ありがとうございました、あなたの授業が大好きでした、のふたつは。
散々迷って手ごろな価格と個数のチョコレートを選ぶ。彼が、甘いものならこれが一番好き、といつか言っていた、イギリス生まれの青紫のチョコ、キャラメル入り。味覚は意外と小学生っぽい。クールな彼のかわいらしい一面に、のたうち回りそうなほどときめいたあの瞬間が、遠い昔のことのように感じる。
すこんと抜けるような青空に、軽やかすぎる雲が浮かぶ。どこまでも浮かんでいけそうな秋晴れの空の下、さくらの心はずっしりと地面に吸い寄せられていく。湿ってじっとりと重く、抱えているだけで精一杯だ。チョコなんかよりよっぽど胸焼けしそうな想いを抱えて、歩きなれた通学路を踏みしめる。学校になんてつかなければいい。このまま時が止まってしまえばいい。彼に、過去形で感謝を伝えるくらいなら、今すぐ世界が壊れてしまえばいい。こんな感情を抱くのは、羽田で飛行機を待っているとき以来だった。
ぐちゃぐちゃな感情を抱えて、やっとのことでHSIEの職員室のドアの前に立つ。さくらからすると信じられないくらい遅い登校時間だ。もう廊下はおしゃべりに夢中な生徒であふれかえっている。うじうじしている時間なんてなかった。一世一代の決意を込めて、木製の分厚いドアをノックする。心地よい振動がさくらの拳に二回、伝わってくる。
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そんな思いもむなしく、彼は病欠。しかも今週をもって長期休みに入ることが決まっていた事実を伝えられる。
ぱりん。薄い硝子が砕ける。細かなひび割れから、静かに水が流れていく映像が、さくらの脳裏に浮かんで消えた。
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あの人の笑顔が、話し方が、仕草が、全てが、どうしようもなく好きだったのだ。彼のことを何も知らなくても。
心の傷から新たに真っ赤な血が溢れ出て、流れていくのを止められない。彼と言葉を交わしたのが二度だけだったとしても。
機械的に授業を受け、放課後はまっすぐに部屋に戻った。ベッドに突っ伏し、枕に歯を立てて嗚咽をこらえる。彼の記憶のデータの中に、さくらの存在は名前すら残っていないことなんて痛いほどわかっているから。
そんな自称悲劇のヒロインに、夜の帳がそっと降りていく。
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自分に問いかける。シドニーにいたいの?
今までは、いたいと答えていた。それが「正解」だから。
さくらを取り巻く環境は何一つ変わらない。
でも、今、心ははっきり叫ぶ。
いやだ。




