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さくら  作者: 穂谷深詞
4/6

水曜日

二回目の、彼の授業。一秒でも遅れるものか、一瞬でも長く彼の姿を目に焼き付けてやると、息せき切って教室に駆け込んだ。


おはよう、また早いね。意外なことに、彼はすでに教室でホワイトボードに今日の授業内容を書き連ねていた。ぱっと振り返り、にこりともせずさくらに声をかけ、続きを書くためホワイトボードに向き直る。そういえば左利きだった。前回も瞬きするのが惜しいほど見つめていたのに、今更そんなことに気が付く。ペンの色は前回は緑、今日は青。服装は、前回はダメージジーンズにモノクロのプリントTシャツ、今日は黒のチノパンと茶色ベースのパッチワーク風のサマーセーター。どうでもいい事実を脳内で復唱してにやけそうになる自分は、最高に気持ち悪いのだろう。心拍数が上がっていくのがわかる。先生こそ早いですね。真顔でまともな返答ができた自分に驚いた。前のクラスもここだったんだよ。振り返らない。心臓がうるさい。今日って…


おはよう!


二人の会話を、時間を、空間をぶった切るように、クラスメートが何人も入ってくる。おはよう。ぶっきらぼうな彼の返しに、なぜか彼女らのいたずら心が顔を出した。そういえば先生ってさー。続く質問に嫌な予感が、してしまう。この学校で幾度となく耳にした、若い先生への洗礼。耳をふさごうかと考えた一瞬のうちにさくらの耳になだれ込む、無慈悲な質問。


先生ってパートナーいるの?


さすがマイノリティーを尊重することくらいしか売りのない学校の生徒だ。男性の先生であろうと、彼女、とは言わない。が、その言葉選びに、違う種類の嫌な予感がしてくる。もしかして。もしかして。いやだ。聞きたくない。


彼氏いるよ。


彼の口からあっさりと、ありえないくらいにさらりと発せられた言葉たちは、さくらの耳を銃弾の如く貫いた。なのに脳はうまく意味を処理してくれない。理解することを拒んでいる。じわりと心に直接染み込んでくる。それは、さくら自身が心のどこかですでに薄々感づいていた事実をも突き付けてくる。彼はゲイだ。五文字で構成される、そんなシンプルな文章が、どうしても、飲み込めない。喉につかえて吐き出しそうになる。いやだ。認めたくない。理由なんてわからない。この気持ちに名前なんてない。目の前が真っ暗になっていく。


– – –


残りの授業時間のことは、ほとんど何も覚えていない。何のためらいもなく繰り広げられる先生と彼氏の旅行の話も、その他の惚気エピソードも、その後の近代史の授業も、すべてさくらの脳裏に取り込まれることなく流れていった。気が付いたら三時限目は終わっていて、また明日ね、と挨拶が交わされ、それでもさくらは椅子から立ち上がれずにいた。


どうやってお昼を過ごし、四時限目の授業を受け、家に帰ったのか記憶にない。気が付いた時には、自室でぼんやりと真下の車道を走る車を眺めていた。いつものように。


わたしはどうしたらいいんだろう。あてのない問いが空中を漂っている。昨日と何も変わらないのに、世界がひっくりかえってしまったような強烈な不安と、それ以上に襲い掛かる透明な痛みに途方に暮れる。別に告白するつもりも、ましてや恋人になりたいなんて希望、かけらも抱いていなかったはずだった。もともと彼の性格も職業も、さくらを完全拒否する分厚い壁だった。その壁が三重になったところで待ち受ける未来には何ら変わりはないはずだった。だからこそ、彼の視界に入れたこの一週間も、決して彼の記憶に残らないようそうっと生きていたのだ。なのに、この胸をざっくりと切り裂いたナイフはまだ抜けず、どくどくと血は流れ続ける。わたしが抱いているこの感情は、彼にとって迷惑どころか嫌悪感すら感じさせるものなのかもしれない。溢れ出すどす黒い感情と鮮やかに赤い痛みがさくらの中をぐちゃぐちゃと染め上げていく。いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい


ふっと視界に白が差す。下を見ると、小さめな白い車がなめらかに学校の門の前で止まった。保護者の迎えだろうかと思ったのも束の間、門から見覚えのある茶色いトップスを来た小柄な人物が駆けよってくる。かわいらしく手を振る仕草、ここまで喜びといとおしさが伝わってくるような表情。左側の助手席に彼が乗り込むと同時に、再びなめらかに走り去っていく。


背中のナンバープレートの上に、Hにも、ひっくり返ったNにも見えるロゴ。韓国車だった。



– – –


まだまだ暑いと思っていたのに、いつの間にか夜風がひんやりするようになった。いつもそうだ。東京ほど四季がはっきりしていないシドニーに冬は来ない。少し寒くなったなと思ったら、すぐに暑くなって、またすぐに気温が下がり始めて、この繰り返し。目まぐるしく移りゆく季節の中に取り残され、北半球には半年置いていかれて、さくらはいつでも迷子だった。道しるべのないシドニーでの生活。水槽のように透明な檻に閉じ込められていた、いや、閉じこもっていたわたしが、必死に水面を見上げて見つけたたった一つの光。街の灯りに負けずに夜空に輝く星。それすらわたしは見失うのだろうか。

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