エピローグ (2025年、東京)
吊革に掴まりながら電車に揺られていると、独特すぎる英語のアナウンスが聞こえてくる。プラットフォームにあるコンビニで昆布のおにぎりとペットボトルの温かいほうじ茶を買って、改札を出る。大型書店で小説を三冊買って、千円札を三枚出そうとして間違えて出てきた10豪ドル札。赤面しながら会計を済ませ、池袋周辺をさまよう。どこからか流れてきた桜の花びらがトートバッグに張り付いて、ひらりと落ちた。見上げればうっすらと雲がかかった空がビルに囲まれて降りてくる。近い。通りすがる人々の他愛ない会話を聞きながら、さくらは空気を胸いっぱい吸い込んだ。
こんなにどんより曇った空の下で、羽ばたいていけそうなほど体が軽い。
お小遣いをはたいて買った無線イヤホンから流れてくるのは、最近しつこく何度もリピートしてる曲だ。前から好きだったこのアーティストのこの歌。会えてよかったなんて 世界線は何処にもないし、という歌詞に新鮮な気持ちで胸を打たれた。人生で一瞬すれ違っただけのあの人に出会えてよかったと思う日が、いつか来たらいいなと思い始めて、自分が前を向けていることにびっくりした。
高校最後の一年を通信で終え、猛勉強の末東京の有名私大に滑り込んだ。帰国生入試が楽だった時代はとうに過ぎていた。日本の中学、高校課程を離れていた四年のブランクを埋めて余りあるほど勉強したさくらは、春休みいっぱい遊んで過ごした。
今ならわかる。さくらは疲れていた。知識を詰め込むよりも、自分の意見を主張することを優先させるオーストラリアの教育方針に。世の中の複雑さも知らぬままに、社会問題に対して適当にそれっぽいことをいう同級生たちに。あっさり感化されて、周りと似たようなことを言い始める自分自身に。何より、英語が話せるというだけで、何か特別な存在になったような気がしていた自分自身に。
わたしは普通だ。何者にもならずに、自分が呼吸できる場所で、静かに生きていたいだけだったんだ。
叶うはずなんて最初から、ほんの少したりともなかったさくらの初恋は、さくらに彼女の限界を教えてくれた。精神的に誰かに寄りかからなければ息のできない環境に、これ以上はいられなかった。
いつかこの衝動的な決断を後悔する日が来るのだろうか。たかが失恋、それも自己完結した恋愛とも呼べない一時的な感情。そんなもので、多くの人が望む貴重な体験と、両親の期待を棒に振るようなこの行為を、それを決行した自分を、死にたくなるほど嫌悪する日が来るのだろうか。
わたしは今日本にいる。それだけでいい。現在のわたしはそう言い切れる。それ以外何もいらない。




