第9話:もう、冷たくしなくていい
――痛くない。
深い暗闇の底から浮上したエレナが、最初に覚えたのはその奇妙な違和感だった。
呼吸をするたび、胸を針で突き刺されていたあの激痛がない。
肺いっぱいに吸い込んだ空気は驚くほど温かく、全身の血が生き生きと巡っていく感覚があった。
(私……死んだのではなかったの……?)
重い瞼を、ゆっくりと押し上げた。
視界を満たしたのは、柔らかな冬の午後の日差しと、見慣れた天蓋付きベッドの豪奢なカーテンだった。
そして――自分の右手に、何かが触れていた。
温かく、ゴツゴツとした大きな手。
その手が、エレナの痩せた指先を壊れ物を扱うように包み込み、自らの額へと強く押し当てていた。
視線を落としたエレナは、息を呑んだ。
冷たい絨毯の上に直接両膝をつき、祈るようにベッドへ額を擦り付けている男がいた。
乱れ放題の黒髪。何日も剃られていない無精髭。
着崩されたシャツは皺だらけで、剥き出しの首筋や腕には痛々しい火傷の痕が残っている。
かつて王都の貴族たちを震え上がらせ、戦場を支配していた「氷血公」の威厳など、そこには微塵も残っていなかった。
「……か、く……しゃま……?」
かすれた声が、喉から零れ落ちた。
その瞬間、男の肩がビクッと跳ね上がった。
弾かれたように顔を上げたヴォルフラムの瞳は、血走り、酷い隈に縁取られていた。
だが、その青灰色の双眸が、はっきりと自分を見つめ返すエレナの瞳を捉えた瞬間――。
「…………あ」
ヴォルフラムの唇が震えた。
大きな瞳から、ポロポロと、大粒の涙が溢れ出した。
男の目からこれほど大量の涙が流れるのを、エレナは生まれて初めて見た。
「エレナ……? エレナなのか……? ああ……っ!」
彼は泣き崩れながら、エレナの手を両手で抱え込んだ。
そして、手の甲、指の節、手首の裏に至るまで、狂ったように何度も、何度も口づけを落とし始めた。
「生きている……温かい……息をしている……! ああ、神よ……エレナ、エレナ……!」
「閣下……!? ど、どうされたのですか……!? お顔を上げてください、なぜ床などに跪いて……!」
エレナは混乱の極みにあった。
あの絶対零度の夫が、人目も憚らず号泣し、下僕のように自分の足元に跪いているのだ。
手を引っ込めようとしたが、ヴォルフラムは泣きながら、縋るようにその手を握りしめていた。
「すまなかった……!」
ヴォルフラムは額をエレナの手の甲に擦り付け、血を吐くような声で慟哭した。
「すまなかった、エレナ……! 私が愚かだった! 私の不甲斐なさが、お前をあそこまで追い詰めた……! 生贄だと? 魔獣の餌だと!? なぜそんな嘘に気づいてやれなかった……! 半年後に死ぬつもりだったお前に、私は……『半年後に離縁だ』などと、どれほど残酷な宣告を突きつけていたんだ……!!」
「え……?」
エレナは目を丸くした。
なぜ彼が、自分の遺言書の内容を知っているのか。
そして、なぜ彼がこれほどまでに傷つき、自らを責めているのか。
「閣下は……悪くありません。私が勝手に、寿命の帳尻を合わせただけで……」
「違うッ!!」
ヴォルフラムは顔を上げた。
涙で濡れたその顔には、剥き出しの、痛々しいほどの情念が渦巻いていた。
「私はお前を追い出す気など、最初から微塵もなかった! 『半年後に離縁する』と言ったのは……お前を自由にするためだ! 呪いを解き、この過酷な北の地から、お前が本当に望む場所へ、十分な財産を持たせて送り出すつもりだったんだ!」
「呪いを……解く……?」
「お前の胸にあった『浸蝕の呪い』は……他者から向けられた強い情念や愛情を、お前自身がそうだと自覚した時、侵食速度を十倍近くまで跳ね上げる性質を持っていたんだ」
エレナの息が止まった。
「愛していると悟られてはならなかった。抱きしめることも、慈しみを言葉にすることもできなかった。理由を説明して『お前を守るためだ』と知らせることさえ、私の好意を自覚させて呪いを加速させる危険があった。だから私は、冷血な夫を演じた。愛情を悟らせないことで、お前の命を繋ぎ止めるしかなかったんだ……!」
「そんな……」
「だが、それは私の傲慢だった!」
ヴォルフラムは自らの胸を拳で殴りつけた。
「私が冷たく突き放し続けたせいで、お前がずっと抱えていた『自分は使い捨ての道具だ』という思い込みを、一度も打ち消してやれなかった……! 後妻の推薦状を見た時、私は絶望した。だが本当に向き合うべきだったのは、お前が自分の死を当然のこととして受け入れていた、その孤独だったんだ……!」
ヴォルフラムの言葉の一つひとつが、エレナの胸の奥底へと染み渡っていく。
――暖炉の火を絶やすなと命じてくれたこと。
――激務の中で、領地事務という尊厳ある役目を与えてくれたこと。
――後妻の推薦状を見て、狂ったように激昂したこと。
――吹雪の中、傷だらけになって遠征から帰ってきたこと。
すべては、自分を救うためだったのだ。
悪辣な実家から金銭のために差し出された自分を、この男は最初から「意思を持つ一人の女性」として救い出そうとしていた。
愛情を悟らせられない痛みに耐えながら、命を削って特効薬を探し出し、自分を生かすために氷の仮面を被り続けていたのだ。
「あ……」
エレナは震える左手で、自らの胸元に触れた。
薄い寝間着の布地を通して伝わってくるのは、滑らかな肌の感触だけだった。
あの醜く、冷たく、命を締め上げていた黒曜石の茨は――跡形もなく消え去っていた。
ドクン、ドクン、と。
力強く、温かな脈動が、掌を押し返してくる。
「私……本当に、助かったのですか……?」
「ああ」
ヴォルフラムは彼女の手をそっと取り、自らの頬に当てた。
大粒の涙が、エレナの指先を濡らす。
「神聖宝珠と、不死鳥の心臓でお前の呪いは完全に消滅した。もう石化に怯える必要はない。誰かに情を向けても、愛されても……お前の心臓が止まることは、二度とない」
「愛されても……?」
「そうだ。もう……冷たくしなくていいんだ」
ヴォルフラムの声が、子供のように震えていた。
彼はエレナの膝に額を埋め、縋るように肩を震わせた。
「エレナ。十年以上前、幼き日の私が戦場で魔獣の毒に倒れた時、指を切って血を飲ませてくれた少女を覚えているか」
エレナの記憶の霧が、ふっと晴れた。
まだ幼い頃。父に連れられて行った前線基地の片隅で、死にかけていた黒髪の少年。
名も知らぬ少年に、持っていた治癒の術を施した、遠い日の記憶。
「あの時から……私は、お前を探し続けていた。ようやく見つけ出した時、お前はランベール家で呪われ者として虐げられていた。私が……私の力不足のせいで、お前を迎えに行くのが遅すぎたんだ」
「閣下……」
エレナの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
自分は、ずっと愛されていたのだ。
誰にも必要とされず、呪われた出来損ないとして暗闇の中で死んでいくはずだった自分を、この男はずっと見つめ、命懸けで手を伸ばし続けてくれていたのだ。
「私……生きていて、いいのですね」
「当たり前だ!」
ヴォルフラムは叫び、彼女の顔を両手で包み込んだ。
「お前は生きるんだ。太陽の下で、笑って、美味しいものを食べて、誰よりも幸福になるんだ。……お前の命を奪おうとするものがいるなら、神だろうと国だろうと、私は何度でも立ち向かう」
その言葉に、嘘偽りは欠片もなかった。
現にこの男は、処罰も爵位剥奪も覚悟した上で神殿の門を破り、国宝を借り出してまで自分を連れ戻したのだから。
ヴォルフラムは懐から、一通の羊皮紙を取り出した。
初夜に自ら署名し、エレナへ突きつけた婚姻契約書。その末尾には、今も『半年後に離縁する』という条項が残っていた。
「エレナ。私は、もうこの条項を望んでいない」
ヴォルフラムは彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「だが、お前の意思まで奪うつもりはない。体が戻ったあと、この城を出たいと思うなら、約束した財産を渡す。行きたい場所まで護衛もつける。私を許す必要もない」
「閣下……」
「それでも」
声が震えた。
戦場では決して揺らがなかった男が、今は返事一つを恐れていた。
「もし、お前の未来の選択肢の中に、ほんの少しでも私を残してくれるなら……今度は契約ではなく、私自身を選んでほしい。急がなくていい。答えは、お前が生きることに慣れてからでいい」
エレナはしばらく何も言えなかった。
これまで彼女の人生では、誰かが決めたことに従うのが当たり前だった。
父が決めた役目。
家が決めた婚姻。
自分自身でさえ決めていた、半年後の死。
けれど今、目の前の人は「選べ」と言う。
生きる場所も、隣にいる人も、自分で決めていいのだと。
エレナは震える指を伸ばし、ヴォルフラムの手を握った。
「今すぐ、上手な答えはできません」
「……ああ」
「でも」
彼の大きな手は、驚くほど温かかった。
「今は、この手を離してほしいとは思いません」
ヴォルフラムの目から、また一粒だけ涙が落ちた。
「それで十分だ」
彼は指を絡めることも、抱きしめることもしなかった。
ただ、エレナが自分から握ってくれている、その小さな手を壊さぬよう、静かに包み返した。
もう、冷たくしなくていい。
だからこそ今度は、急がずに温めていけばいいのだ。




