第10話:半年後の初恋
エレナが死の淵から戻ったあの朝から、半年が過ぎた。
極北の地には、奇跡のように柔らかな春が訪れている。
城壁の外に広がる黒土の合間から、淡い青紫色の『雪割草』が一斉に芽吹き、冷たかった風に湿り気のある土の香りが混ざり始めていた。
その半年間、ヴォルフラムは一度も答えを急かさなかった。
エレナが体力を取り戻すまでは隣室で眠り、歩けるようになれば短い散歩に誘い、執務へ戻りたいと言えば無理のない仕事から任せた。
食事を共にし、くだらない話で笑い、時には何も話さず同じ暖炉を眺める。
そうしてエレナは少しずつ、「生き延びた後の人生」を自分で選ぶ練習をしてきた。
三か月前、彼女は自分の意思で、この城に残りたいと伝えた。
ただし、初夜に交わせなかった本当の誓いは、心からその日を望めるようになってからやり直そうと二人で決めていた。
「エレナ。風に当たりすぎるなと言ったはずだ」
バルコニーで春の陽光を浴びていたエレナの肩に、ふわりと上等なカシミアのショールが掛けられた。
同時に、逞しい腕が背後から回り込み、彼女の腰を隙間なく抱きすくめる。
「閣下……いえ、ヴォルフラム様。まだお昼前ですよ。誰かに見られてしまいます」
「見たい奴には見せておけ。私の妻を私が抱きしめて何が悪い」
至近距離から降ってきた低く甘い声に、エレナの項がカッと熱くなる。
振り返ると、そこにはかつて「氷血公」と恐れられた男の面影など微塵もなかった。
無精髭は綺麗に剃り落とされ、端正な顔立ちには穏やかな笑みが浮かんでいる。青灰色の瞳は、エレナの顔色のわずかな変化すら見逃すまいと、熱烈な過保護の光をたたえていた。
「指先が冷えているな。部屋に戻って、温かい果実水を飲め。今朝料理長に作らせたハチミツ煮もある」
「もう、過保護すぎます。お医者様からも、もうすっかり健康そのものだと太鼓判を押していただいたではありませんか」
エレナがくすくすと笑うと、ヴォルフラムは困ったように眉を下げ、彼女の柔らかな頬に自らの額をすり寄せた。
「お前が血を吐いて倒れた朝のことを思えば、これでも自制している方だ。……一生かけても、心配し足りることはない」
重すぎるほどの愛。
だが、その温もりが、エレナにとっては世界で一番心地よかった。
***
執務室へ戻ると、文官長のバルトと侍女頭のマルタが、満面の笑みを浮かべて待機していた。
「奥様、王都からの最終通達書が届きましたぞ」
バルトが恭しく差し出した書類には、国王陛下の親署と玉璽、そして添付された教皇庁の裁定印が捺されていた。
エレナが目を通すと、そこにはすべての理不尽に対する、完全なる審判が記されていた。
第一に、ランベール子爵家への処分。
ヴォルフラムの告発を受けた国王府が差し押さえた裏帳簿と、エレナが遺言書に添えた告発資料から、違法魔導具の密輸、長年の虐待、結納金を得るための虚偽説明が立証された。
当主は爵位を剥奪され、虐待に加担した継母も貴族身分を失った。両名には重犯罪刑務所での終身刑が下され、違法取引で得た財産は没収、その一部がエレナへの賠償に充てられることとなった。
異母妹エミリアの婚約も、持参金の出所が違法資金だったことから破談となった。彼女自身に密輸への直接関与は認められず、刑罰ではなく母方親族の監督下へ移される。
第二に、神聖宝珠をめぐる一件。
宝珠は解呪後ただちに神殿へ返還され、ヴォルフラムには無断で門を破壊した責任として正式な譴責と修繕費の全額負担が命じられた。
一方、救命の緊急性と、カルロ大司教が最終的に一時貸与を記録した事実も認められ、国宝使用そのものについて刑事責任は問われないこととなった。
さらに今回の件を受け、辺境で同様の緊急事態が起きた際に、国王と教皇庁の返答を待たず一時貸与を判断できる手続きが新たに整備された。
「ランベール家は……完全に消滅したのですね」
エレナが呟くと、ヴォルフラムが背後から彼女の手を優しく包み込んだ。
「あいつらは二度と、お前の人生を勝手に決められない。……奪われてきたものを全部取り戻せるとは言わない。だが、これから選ぶものだけは、誰にも奪わせない」
「……ありがとうございます。でも、もう十分です」
エレナは手元の書類を閉じ、窓の外の青空を見上げた。
胸の奥にあった長年の冷たい澱が、春の雪解け水のようにすうっと消え去っていくのを感じていた。
恨みも、怒りもない。
ただ、自分を愛してくれる人たちと共に、前を向いて生きていきたい。
そう思えること自体が、エレナにとって最大の奇跡だった。
***
その夜。
エレナの私室に続く小さな暖炉の間で、火がパチパチと心地よい音を立てていた。
風呂上がりのエレナが髪を梳かしていると、ヴォルフラムが重厚な黒革の小箱を抱えてやってきた。
彼が中から取り出したのは――かつてエレナが命を削って書き上げた、あの二冊だった。
「あっ……! それは……!」
エレナは顔を真っ赤にして立ち上がった。
表紙に記された、見覚えのありすぎる二つのタイトル。
『クロイツ辺境伯領・次期夫人への引き継ぎ覚書』
『閣下に相応しき後妻候補三名の身上調査書』
「ヴォルフラム様、お願いですから捨ててください! あの時は本当に必死だったとはいえ、穴があったら入りたいほど恥ずかしいのです……!」
奪い取ろうと手を伸ばすエレナを、ヴォルフラムは軽々と片腕で抱き上げ、自らの膝の上へと座らせた。
「捨てるものか。これは我が領の最高機密であり、最高の宝物だ」
ヴォルフラムは愛おしそうに覚書の頁をめくった。
「お前が残してくれた兵站の管理手順と燃料の配分表は、今や領内の全基地の公式マニュアルになっている。文官たちも『奥様の知恵がなければ今冬を越せなかった』と拝むように使っているぞ。……だが」
次いで、もう一冊の『後妻候補三名の身上調査書』が開かれた。
ヴォルフラムの瞳が、わずかに細められる。
「この部分だけは、万死に値する誤謬だな」
「う……申し訳ありません……」
「我が妻として、私が望むのはお前一人だ。……この後妻候補の頁だけは、処分してもいいか?」
「はい。むしろ、お願いいたします」
エレナが笑って頷くのを確かめてから、ヴォルフラムは後妻候補の身上書だけを丁寧に外した。
そして、赤々と燃える暖炉の炎の中へ放り込んだ。
羊皮紙は瞬く間に赤熱し、黒い灰となって煙突へと吸い込まれていく。
「これでよし」
満足そうに頷いた夫に、エレナは苦笑しながら、そっと彼の逞しい胸板に身を預けた。
トクン、トクン、と。
彼の心臓の音が、自分の心臓の音と重なるように響いている。
「ねえ、ヴォルフラム様」
「何だ?」
「半年間……よくあんなに冷たく我慢できましたね」
悪戯っぽく上目遣いに見上げると、百戦錬磨の辺境伯が、まるで初心な少年のように耳まで真っ赤に染め上げた。
「……蒸し返すな。あの半年間、お前の笑顔を見るたびに、何度抱きしめて愛していると叫びそうになったか……どれほどの生き地獄だったか、お前には想像もつくまい」
「ふふ、ごめんなさい。でも……とても嬉しかったです。あなたが私を生かすために、あんなにも必死になってくださっていたのだと知れて」
エレナは背伸びをし、彼の赤い耳元に唇を寄せた。
「私、今……生まれて初めて、誰かに恋をしています」
ヴォルフラムの息が止まった。
彼は信じられないものを見るように目を見張り、それから激しい情熱を瞳に宿して、エレナの顎を指先で持ち上げた。
「……あの朝から、半年待った初恋だな」
「はい。ゆっくり育てた、私の初恋です」
重なる影。
交わされた唇から、甘くとろけるような熱が全身へと広がっていく。
もう、冷たくする必要はどこにもない。
二人の間にあった氷の檻は、疾うに跡形もなく溶け去っていた。
***
数日後。
クロイツ城の中庭には、領内中から集まった数千人の領民と騎士たちの歓声が響き渡っていた。
契約ではなく二人の意思で未来を選び直す、民と大地に祝福された『誓い直しの式』。
新しく仕立てられた、春の陽光を浴びて輝く純白のウェディングドレスを纏い、エレナは大歓声の中を行進していた。
その隣には、純白の正装に身を包み、誇らしげに彼女の手をエスコートするヴォルフラム。
「奥様ーッ! 長生きしてくださいよーッ!」
「お二人とも、末長くお幸せにーッ!!」
舞い散る雪割草の花びらの中、エレナは満面の笑顔で領民たちに手を振った。
かつて「半年後に死ぬ予定」と荷物をまとめていた少女は、今、世界で最も愛される辺境伯夫人として、眩しい光の中に立っていた。
「エレナ」
祭壇の前で、ヴォルフラムが立ち止まり、彼女の薬指に青い魔導石の指輪を滑り込ませた。
かつて「白い結婚だ」と書類を突きつけた男が、今は世界中の誰よりも甘い声で、永遠を誓う。
「生涯をかけて、お前を愛する。守るだけではなく、迷う時は隣で一緒に迷う。……私の人生を、お前と分け合いたい」
「はい、閣下。……いいえ、私の愛しいあなた。私も、自分の人生をあなたと分け合いたいです」
二人の唇が重なった瞬間、北方の大地に、春を告げる鐘の音が高らかに鳴り響いた。
***
その夜、エレナは古い一冊のノートを開いた。
嫁いだ初日に、『クロイツ辺境伯領・事務引継ぎ並びに身辺整理録』と書いた、あのノートだ。
彼女は「身辺整理」という言葉に、ゆっくりと一本の線を引いた。
そして、真新しい頁に予定を書き足す。
『来年の春も、ヴォルフラム様と雪割草を見る』
背後から覗き込んだヴォルフラムが、低く笑った。
「来年だけで足りるのか」
エレナも笑って、もう一行書き足した。
『その次の春も。そのまた次も』
半年後に消えるはずだった彼女の未来には、もう終わりの日ではなく、楽しみな予定ばかりが増えていった。




