第8話:神よ、彼女を奪うなら世界を凍らせる
ズドンッ――!
北方大司教座の外門を閉ざしていた巨大な閂が、氷結魔術で一気に凍りつき、内側へ砕け落ちた。
だが、雪崩れ込んだ騎士たちの剣は鞘に収まったままだった。
「道を開けろ! 負傷者は出すな!」
「閣下、本当に……!」
制止する副官を置き去りにして、ヴォルフラムは神殿の奥へ進んだ。
額の傷はまだ塞がっていない。軍服にも、エレナを抱き上げた時についた黒い血が残っている。
その姿を見た神官たちは息を呑み、左右へ退いた。
「クロイツ辺境伯! 神聖なる大司教座で何をしている!」
黄金の祭壇の前に立ちはだかったのは、カルロ大司教だった。
彼は怒りに震えながら、大司教杖を床へ打ちつける。
「国宝『神聖宝珠』を出せ。妻の心核を開くために必要だ」
「正気か!? あれは国王の戴冠や皇族の危篤時にのみ使用を許された国宝だ。私の独断で持ち出せるものではない!」
「承知している」
ヴォルフラムは腰の大剣を抜いた。
神殿騎士たちが一斉に身構える。
だが彼は、剣を床へ置いた。
「だから、罪は私が負う」
「……何?」
「宝珠を貸せ。使用後は必ず返す。門の修繕費も、教会法廷で科される罰も、私個人がすべて引き受ける。爵位を失おうが、処刑されようが構わん」
カルロ大司教が言葉を失った。
「たかが……妻一人のために、自分の地位も命も投げ出すと言うのか」
「たかがではない。私の妻だ」
ヴォルフラムの声は低かった。
けれど、怒鳴り声よりも遥かに重く神殿へ響いた。
「彼女には、私が冷たくしてきた半年分の言葉をまだ一つも返していない。生きたいと願う時間さえ、ろくに与えてやれなかった。だから今度は私が払う。彼女が明日を迎えるための代価なら、私の未来くらい安い」
「それでも規則は規則だ!」
「ならば記録を残せ。『クロイツ辺境伯が救命のため国宝を強制的に持ち出した』と。私は逃げない」
ヴォルフラムは一歩だけ前へ出た。
「だが、あと数時間しかない。許可を待って彼女が死ぬくらいなら、私はこの手で宝物庫の扉を壊す。神官にも騎士にも傷一つつけない。罪人になるのは私だけだ」
「…………」
長い沈黙が落ちた。
やがてカルロ大司教は、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
彼もまた、目の前の男が脅しで言っているのではないと悟ったのだ。
「……記録官を呼べ。緊急救命のための一時貸与として記録する。使用後は即時返還。損傷があれば辺境伯家が全額補償だ」
「条件はすべて呑む」
「それと、二度と門を壊すな!」
「善処する」
「善処ではない!」
怒鳴る大司教を背に、神官たちが地下宝物庫へ走る。
ほどなくして、青白い光を宿す『神聖宝珠』が黄金の小箱に収められ、ヴォルフラムの手へ渡された。
「感謝する」
それだけ言うと、彼は踵を返した。
神殿を出た瞬間には、すでに馬上の人となっている。
「城へ戻る! 全速力だ!」
***
城の寝室へ戻った時、エレナの生命反応は風前の灯火だった。
氷結の延命結界はひび割れ、彼女の全身は完全に白銀の霜に覆われていた。
唇は紫色を通り越して黒ずみ、胸元の黒曜石の茨は、今にも心臓を内側から食い破らんばかりに隆起していた。
「閣下……! 限界です! あと数分で、魂の結びつきが切れます!」
医師団が悲痛な叫びを上げる中、ヴォルフラムはベッドの脇へ滑り込んだ。
彼は黄金の小箱から『神聖宝珠』を取り出し、もう片方の手で『不死鳥の心臓』の薬液を握りしめた。
「エレナ、戻ったぞ」
彼は彼女の冷たい頬に額を寄せ、荒い息を吹きかけた。
「よく耐えた。もう大丈夫だ。……お前を、絶対に死なせはしない」
ヴォルフラムは宝珠をエレナの胸元――黒曜石の茨の直上に押し当てた。
司祭に教えられた通り、自らの掌を短剣で浅く裂き、術式の媒介となる血を宝珠へ落とした。
「我が血肉と魔力を喰らい、神聖の檻を穿て! 共鳴せよ、神聖宝珠!!」
キィィィィィィィン――ッ!!
鼓膜を劈くような高周波の共鳴音が、部屋中に炸裂した。
神聖宝珠が青白い閃光を放ち、エレナの胸元に刻まれた黒い呪紋と激しく激突する。
黒曜石の皮膚が、凄まじい熱量を帯びて赤熱していく。
パキン――。
乾いた音が響いた。
それは、エレナの心核を包み込んでいた絶対の石化の殻に、一筋の亀裂が走った音だった。
「今だッ!」
ヴォルフラムは躊躇なく、不死鳥の霊薬を彼女の唇へと流し込んだ。
亀裂から溢れ出る神聖な光に導かれ、今度は薬液が弾かれることなく、彼女の喉の奥へと吸い込まれていく。
ドクンッ――!!
寝室全体が揺れるほどの、強烈な心拍の音が響き渡った。
霊薬が心核へと到達した瞬間、エレナの胸元の黒い茨が、内側から激しい緋色の炎に包まれた。
「う……あああああああっっ!!」
仮死状態だったはずのエレナの背が、弓なりに跳ね上がった。
呪詛の石化と、不死鳥の浄化の炎が、彼女の小さな体の中で激突し、凄まじい熱量を放出し始める。
皮膚の黒い亀裂から、黒煙がシューシューと噴き出していく。
「エレナッ!」
「閣下、離れてください! 解呪の余波で焼き殺されます!」
「離れるものかッ!!」
ヴォルフラムは警告を無視し、激痛に悶えるエレナの体を両腕で強く抱きすくめた。
吹き荒れる神聖な熱風が、彼の軍服を焦がし、皮膚を焼き、髪を焦がす。
それでも彼は、腕の力を一切緩めなかった。
「生きろ! エレナ、生きろ!!」
彼は彼女の耳元で、喉が千切れるほどに叫び続けた。
「お前に謝らなければならないことが山ほどある! お前に伝えなければならない愛が、一生分残っているんだ! 私を一人にするな! 目を開けろ、エレナッッ!!」
パキパキパキパキッ――!!
ガラスが砕け散るような無数の破砕音とともに、胸元の黒曜石の茨が、粉々に砕け散っていった。
黒い灰となって霧散していく呪詛。
そして――。
ドクン、ドクン、ドクン。
力強く、温かい、人間の心臓の鼓動が、ヴォルフラムの胸板を通して、確かに伝わってきた。
エレナの全身を包んでいた霜が溶け、急速に桃色の血色がその肌へと戻っていく。
熱狂のような光が収まり、部屋に静寂が戻った。
だが――解呪の反動による凄まじい高熱が、エレナの意識を深い混濁の底へと引きずり込んでいた。
荒い息を吐きながら、彼女の意識は、果てしない夢の闇を彷徨い始めていた。




