第7話:遺言書と、暴かれた嘘
「仮死凍結の術式を維持しろ! 心核の完全停止まで、あと何分持てる!?」
「もって……もって六時間です! これ以上の延命は、魂そのものが霧散してしまいます!」
血の匂いと氷の魔力が渦巻く寝室で、医師団の悲鳴が飛び交っていた。
ベッドの上に横たえられたエレナの胸元には、淡い青白い結界が張られ、辛うじて最後の生命の火種を凍結させている。だが、その肌の黒い石化は、今この瞬間もミリ単位で侵食を広げようと蠢いていた。
その喧騒の渦中、ヴォルフラムは膝をついたまま、震える指先で純白の封筒の封蝋を破った。
中から現れたのは、折り目の正しすぎる三枚の羊皮紙。
端正で、迷いがなく、澄み切ったエレナの筆跡。
そこには、彼女がこの半年間、誰にも言えずに胸の奥に閉じ込めていた『真実』が、血を吐くような静けさで綴られていた。
***
『クロイツ辺境伯ヴォルフラム閣下へ。
謹んで、最後の感謝を申し上げます。
この書状が開かれているということは、私の心核が予定通り石となり、私の命が尽きた時かと存じます。
初夜の折、閣下より「半年間の事務をこなせば、半年後に離縁してやる」との温情を賜りましたこと、生涯忘れることはございません。
実家ランベール子爵家より、私は「魔獣除けの生贄」として閣下に売却されました。
父からは「冷酷非道な氷血公はお前を道具として使い潰し、死んだ後は遺体を魔獣の餌として荒野に捨てるだろう」と言い渡されておりました。
古代呪詛の先祖返りとして生まれ、家族からも疎まれ、地下室で帳簿の改竄ばかりを命じられてきた私にとって、それは当然の末路に思えました。
けれど、閣下は違いました。
閣下は私を魔獣の餌になどなさらず、温かな屋敷と、尊厳ある「辺境伯領の事務」という誇り高い役目を与えてくださいました。
冷淡なお言葉の裏で、いつも暖炉の火を絶やさぬよう命じてくださり、領民を守るための公正な戦いに、私のような者の手を借りてくださいました。
生まれて初めて、私は自分が「人間」として誰かの役に立てたのだと知りました。
この半年間は、私の暗闇のような人生の中で、もっとも幸福で、誇らしく、光に満ちた日々でした。
不貞も過失もない円満な離縁として処理してくださるという閣下の約束通り、私の死は「病死による婚姻の自然消滅」として処理していただければ幸いです。
別紙に、ランベール家からの不当な結納金返還要求や金銭請求を法的に完全封殺するための抗弁書を添付いたしました。あの方々の強欲が、閣下の領地を害することのないよう、手を打ってございます。
どうか、私の死によってお心を痛めないでください。
私は十分に幸せでした。
閣下がこれからの人生において、真に愛する方と巡り合い、北方の凍土を溶かすほどの幸福に包まれますことを、魂の底よりお祈り申し上げます。
エレナ・ランベール拝』
***
「……あ」
ヴォルフラムの唇から、かすれた息が漏れた。
パラリ、と羊皮紙が指先からこぼれ落ちそうになるのを、彼は狂ったように両手で掻き抱いた。
「ああ……あああ……っ!」
胸を掻きむしり、ヴォルフラムは床に額を打ち付けた。
ゴツン、ゴツンと、骨が軋む音が室内に響く。
額が割れ、血が滲んでも、彼の慟哭は止まらなかった。
「私が生贄を求めたと……? 死ねば魔獣の餌にすると……!? あの下衆どもが……エレナに、そんな嘘を吹き込んでいたのか……!」
これまで胸に刺さっていた無数の違和感が、残酷なほど一つにつながった。
なぜ、初夜の離縁宣告に彼女が心底から安堵して笑ったのか。
なぜ、どれほど冷たく突き放しても、傷つくどころか感謝を述べてきたのか。
なぜ、命を削ってまで、後妻の推薦状などという地獄のような書類を仕上げたのか。
彼女は――最初から、自分が半年後に死ぬことを知っていた。
そしてヴォルフラムの「半年後に離縁する」という言葉を、「半年後に死ぬお前の命を、それまで預かってやる」という慈悲だと受け取っていたのだ。
そして何より。
彼自身の選んだやり方が、ヴォルフラムの魂を切り刻んだ。
(私は……私は何をしていた……!?)
呪いの進行を止めるためだった。
自分から向けられる強い好意を彼女に自覚させれば、心核の石化が急激に進むからと、必死に感情を殺し、冷血な夫を演じ続けた。
だが、その冷徹さは、彼女がもともと抱えていた「自分は使い捨ての人間だ」という思い込みを、一度も打ち消してやれなかった。
その結果、彼女は誰にも惜しまれないと信じたまま、一人きりで死の準備を進めてしまったのだ。
『閣下はとても公正な方です』
『温かな屋敷をありがとうございました』
彼女のあの穏やかな笑顔。
あれは、愛されない絶望に耐えかねた末の笑顔などではなかった。
人生の最後に、ほんの少しの居場所を与えてくれた男に対する、混じり気のない、純粋な感謝だったのだ。
「すまない……すまない、エレナ……!」
冷たくなった彼女の足を抱きしめ、ヴォルフラムは叫んだ。
自分の不器用さが、自分の恐れが、彼女の孤独に気づくのを遅らせた。
彼女は自分を恨んでなどいない。
恨むどころか、倒れる直前まで自分の領地を守り、実家の強欲から自分を守るための法的書類まで残していたのだ。
「閣下……!」
主席軍医が、涙を拭いながら叫んだ。
「お気を確かに! 嘆いている時間はありません! 奥様の魂が完全に肉体を離れるまで、あと五時間半です! 本当に……本当にもう、手はないのですか!?」
「…………」
ピタリと、ヴォルフラムの慟哭が止まった。
彼はゆっくりと顔を上げた。
額から流れた血が、その青灰色の瞳を赤く染めていた。
先ほどまでの後悔と絶望の色は、跡形もなく消え去っていた。
「……手はある」
低く、地這うような声。
室内の温度が、物理的に数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの威圧感。
「司祭。お前は先ほど言ったな。『神聖宝珠』による強制共鳴があれば、彼女の心核の石化を砕き、不死鳥の霊薬を浸透させられると」
「は、はい! ですが閣下、神聖宝珠は国宝です。現在は城から早馬で一時間足らずの北方大司教座に保管されていますが、持ち出しには本来、教皇庁と国王陛下の許可が必要です。無断使用なら、閣下ご自身が重罪に問われます!」
「それがどうした」
ヴォルフラムは立ち上がった。
床に落ちていた大剣を拾い上げ、鞘へと収める。
カチリ、と硬質な金属音が響いた。
「彼女を救った後なら、爵位でも首でも差し出す」
その瞳に迷いはなかった。
彼は扉の前に立つ近衛騎士長へ、短く命じる。
「護衛を出せ。神殿へ行く。門を閉ざされても神官に刃を向けるな。必要なら私が一人で宝物庫まで行く」
「閣下……」
「罪を負うのは私一人でいい。エレナの救命を、他人の血で汚すな」
さらに、ヴォルフラムは机の上の遺言書を胸元へ丁重に仕舞い込み、傍らの副官へ振り返った。
「もう一つ。遺言書の写しと、ランベール家に関する調査資料を通信晶で王都の代理人へ送れ。証拠保全を最優先に、国王府へ正式な告発を入れろ。あの家に帳簿を焼く時間を与えるな」
「承知いたしました!」
ヴォルフラムはベッドへ歩み寄り、凍結結界の中に眠るエレナの頬へ、手袋を外した素手でそっと触れた。
氷のように冷たい肌。
彼はその額に、初めて、熱い誓いの口づけを落とした。
「待っていろ、エレナ」
掠れた、しかし鋼のように強固な囁き。
「お前がくれた半年間を、私が永遠に変えてやる。……地獄の底からでも、必ず連れ戻す」
外套を翻し、男は部屋を出た。
国法も神殿も、自分の未来すら敵に回す覚悟で、ただ一人の命を取り戻すために。




