第6話:誤算の朝、冷え切った体
ドガンッ――!!
静寂を切り裂く轟音とともに、分厚い樫の扉が蹴破られた。
肩で激しい息をしながら寝室へと雪崩れ込んだヴォルフラムの視界を、強烈な鉄の匂いが灼いた。
「エレナッ!!」
室内の暖炉は疾うに燃え尽き、極北の冷気が充満していた。
豪奢な天蓋付きベッドの脇――冷え切った絨毯の上に、純白の布が広がっていた。
嫁いできた日に着ていた、あのウェディングドレス。
その胸元から首筋にかけて、ドス黒い、粘り気のある大量の血が吐き出され、純白のシルクを無惨に汚していた。
ドレスの中心に横たわるエレナの肌は、まるで雪像のように血の気を失い、青白く透き通っていた。
「……あ、あぁ……」
ヴォルフラムの喉から、言葉にならない掠れた呻きが漏れた。
彼は狂ったように駆け寄り、床の上に膝をついて、その細い肩を抱き上げた。
「エレナ……! おい、目を開けろ! エレナ!!」
冷たい。
抱き上げた体は、羽毛のように軽く、そして恐ろしいほどに冷え切っていた。
ヴォルフラムの手袋を嵌めた指先が、ガタガタと激しく震える。
「閣下、失礼いたします!」
悲鳴を上げて追いついた主席軍医が、エレナの手首に指を当て――即座に顔面を蒼白にした。
「脈が……ほとんど取れません! 心拍が微弱すぎます! 閣下、胸元を!」
言われるまでもなく、ヴォルフラムは震える手でドレスの胸元を乱暴に引き裂いた。
露わになった白い肌を見て、その場にいた医師団と司祭全員が、息を呑んで絶句した。
「な……んだ、これは……」
そこにあったのは、もはや人間の肉体ではなかった。
左の鎖骨から心臓、そして喉元へ至るまで――皮膚が完全に黒く硬質化し、まるでひび割れた黒曜石のような『石の茨』が、彼女の心核を隙間なく覆い尽くしていた。
かすかに動く胸の鼓動に合わせて、ギシ、ギシと、石が軋むような不吉な音が直接耳に届く。
「石化が……心核を完全に呑み込んでいます……!」
司祭が震え声で叫んだ。
「これは昨日や今日で進んだものではありません! 少なくとも数週間前から、心臓の半分以上が石に侵されていたはずです! なぜ……なぜこんな状態になるまで、誰にも言わずに……!?」
「…………っ!!」
ヴォルフラムの頭の中を、無数の光景が雷鳴のように駆け巡った。
感覚のない指先で針を刺していた、あの羊皮紙の血痕。
猛吹雪の中、被害を出さずに完璧に差配し終えた後の、あの青白い顔。
後妻の推薦状を突きつけてきた時の、どこか遠くを見るような瞳。
昨夜、滋味深いスープを差し出し、『温かな屋敷をありがとうございました』と微笑んだ、あの穏やかな別れの挨拶。
(最初から……)
胃の腑が凍りつく。
彼女は、耐えていたのではない。
弱音を吐かなかったのではない。
彼女は――最初から、自分が死ぬ日を知った上で、その日まで働き切るつもりでここへ来たのだ。
「う……、ぁ……」
腕の中で、エレナの唇が微かに震えた。
閉ざされていた長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。
焦点の合わない、霞んだ灰緑の瞳。
だが、視線の先に自分を抱きしめる男の姿を捉えた瞬間、その瞳に微かな光が宿った。
「……か、く……しゃま……?」
「エレナ! 私だ、喋るな! 今、薬を飲ませる! 頼むから、もう喋るな!!」
ヴォルフラムは叫びながら、懐から『不死鳥の心臓』の小瓶を取り出した。
極北の古代遺跡で、命を削って手に入れた奇跡の秘薬。
彼は震える手で栓を抜き、琥珀色の薬液を彼女の唇へと押し当てた。
「飲め! エレナ、これを飲み込め! お前の呪いを解く薬だ! 生きるんだ!!」
だが――。
ドクンッ……!
薬液が彼女の口内に触れた瞬間、エレナの胸元の黒い茨が、激しい拒絶の光を放った。
ゴボッ、と再び黒い血が噴き出し、薬液はそのまま彼女の青白い顎を伝って、床へとこぼれ落ちていく。
「なっ……!?」
「だめです、閣下!」
司祭が叫びながら、エレナの胸元に神聖術の手をかざした。だが、放たれた光は黒曜石の皮膚に弾かれ、霧散してしまう。
「呪いが深すぎます! 夜の間に、想定より一段深く心核まで閉じてしまった! 本来なら日の出の術式で開くはずだった心核が、完全に石化の殻に閉じこもっています! これでは、いかに不死鳥の霊薬といえど内側へ浸透しません! 宿主自身の強烈な『生きたい』という意志か……あるいは、王都大神殿の国宝『神聖宝珠』による強制共鳴で殻を砕かなければ、薬を受け付けない状態です!」
「そんな……そんな馬鹿なことがあるか!!」
ヴォルフラムは叫んだ。
喉が裂けるほどに、狂ったように叫んだ。
「エレナ! 聞き分けのないことを言うな! 飲み込め! 生きろ! 私の命令だ、死ぬことなど許さん!!」
頬を寄せ、その冷たい肌を自分の体温で温めようとする。
だが、エレナの体からは、容赦なく熱が奪われていく。
そんな狂乱の夫を見つめながら――エレナは、ふわりと笑った。
血に塗れた唇を、ほんのわずかに持ち上げて。
まるで、泣きじゃくる幼子を宥める母親のような、優しく、穏やかで、痛々しいほどの微笑みだった。
「……あ、なた……は……」
掠れた、今にも消え入りそうな声が、ヴォルフラムの耳朶を打つ。
「……とても……お優しい、かた……です……ね……」
「やめろ……頼むから、やめてくれ……!」
「半年……かん……。おやく、に……たて……ました……で、しょう……か……」
エレナの瞳から、一筋の透明な涙が伝い落ちた。
それは恐怖の涙ではなかった。
痛みの涙でもなかった。
ただ、自分の存在が誰かの役に立てたという、魂の底からの安堵の涙だった。
「……ごめんな、さい……。けいやく、の……おわりに……おへや、を……よごして……」
「違う! 謝るな! お前は何も悪くない!!」
「……りえん、の……しょるい、は……つくえ、の……うえ……に……」
コテン、と。
エレナの首が、ヴォルフラムの腕の中で傾いた。
「エレナ?」
灰緑色の瞳から、光が消えた。
開かれたままの瞳は、もう何も映していなかった。
胸元の黒い石が、最後の微かな鼓動を止めた。
「エレナ……? おい……嘘だろ……?」
返事はない。
腕の中にあるのは、ただの冷たい、石のように硬い人形だった。
「息が……止まりました……!」
医師が絶望に満ちた声を絞り出す。
「心停止です……! 仮死状態ですが、このままでは一刻も持ちません……!」
「ああああああっっっっ!!!!」
ヴォルフラムの口から、獣のような慟哭が迸った。
彼は彼女の冷たい額に自分の額を押し当て、子供のように泣き叫んだ。
北方の絶対零度の守護神。戦場で一度たりとも取り乱したことのない「氷血公」が、涙に顔を濡らし、息絶えかけた妻の体を抱きしめて震えていた。
「閣下……! 机の上に、このようなものが……!」
泣き崩れる侍女頭マルタが、机の上から一枚の封書を抱えて駆け寄ってきた。
震える手で差し出されたその白い封筒。
そこには、エレナのあの美しく、揺るぎない筆跡で、こう記されていた。
『遺言書並びに離縁に伴う財産放棄書』
――クロイツ辺境伯ヴォルフラム閣下へ。
その文字を見た瞬間、ヴォルフラムの息が止まった。
彼の灰青の瞳から、すべての光が失われ――代わりに、世界を底から焼き尽くすような、禍々しい狂気の炎が宿った。




