第5話:空っぽの部屋と、最後の手料理
「皆様、これまで本当にありがとうございました」
夕刻の厨房の裏手で、エレナは集まった使用人たち一人ひとりに、小さな封筒を手渡していた。
中に入っているのは、彼女のわずかな個人資産から捻出した寸志と、それぞれの体調や長所を書き記した感謝の手紙だ。
「奥様、これは一体……? まるで、もう二度とお会いできないような……」
侍女頭のマルタが、震える手で封筒を握りしめ、縋るようにエレナを見つめた。
昼間、空っぽになった部屋を見た時の胸騒ぎが、冷たい氷となって胃の腑に沈んでいく。
「明日は、契約満了の日にございますから」
エレナは柔らかく目を細めた。
その顔色は透き通るように白く、夕暮れの残光に溶けてしまいそうだった。
「もともと私は、半年間の契約で雇われた身代わりの妻。明日、閣下から正式に離縁の申し渡しをいただく予定です。お別れの前に、感謝の気持ちをお伝えしたかったのです」
「そんな……! 旦那様が奥様を追い出すはずがありません! 奥様がどれほどこの城を、領民をお救いくださったか、旦那様だってご存知のはずです!」
「ええ、閣下はとても公正な方です。だからこそ、契約通り私を自由にしてくださるのです。……マルタ、どうか閣下を支えて差し上げてくださいね。あの方は不器用で、ご自分の体を顧みない方ですから」
エレナは深く頭を下げた。
使用人たちは言葉を失い、ただ涙ぐみながら彼女を見送るしかなかった。
彼女の纏う空気が、あまりにも穏やかで、この世への未練を完全に断ち切った者のそれだったからだ。
***
一人になった厨房で、エレナは大きな鉄鍋の前に立った。
料理長に頭を下げ、火を借りたのだ。
(これが、私にできる最後のお仕事)
極寒の地特有の香草と、羊肉、そしてじっくりと煮崩した根菜。
北方の伝統的な滋養スープ――『雪解けのシチュー』。
かつて料理長から、「閣下は戦場帰りや激務の折、これだけは残さず召し上がる」と聞いていた料理だった。
(最後くらい、あの方の好きなものを召し上がっていただきたい)
そう思った瞬間、エレナの胸に、石化とは違う小さな寂しさが灯った。
明日から、もうあの人の無愛想な声を聞くことも、机越しの横顔を見ることもない。
その寂しさに名前をつけることを、エレナはしなかった。
コトコトと、鍋が心地よい音を立てる。
エレナは木べらを持つ右手に力を込めたが、指先はとうに陶器のように固まり、握る感覚すら怪しかった。
今や石化の茨は、首筋を越え、顎の下にまで硬い黒い文様を広げている。
心臓の鼓動は驚くほど遅く、時折、ドクン……と不規則に跳ねては激しい目眩が襲う。
(今日、持たせなければ)
エレナは冷たい鍋肌に額を押し当て、熱を逃がすように荒い息を吐いた。
痛覚はすでに麻痺しつつあったが、代わりに全身を鉛のような倦怠感が支配している。
生きているのが不思議なほどの状態だった。
それでも彼女の心は、奇妙なほど澄み渡っていた。
――約束の半年間、逃げずに務めを果たせた。
――明日の朝、最後のご挨拶をして、この城を出る。
その後は、城下の施療院に身を寄せる手筈を整えてある。司祭にも、病死として静かに見送ってほしいと頼んでいた。
誰の足手まといにもならず、誰にも後始末を押しつけず、静かに最期を迎える。
その幕引きまで、あと一晩。
「よし……美味しくできました」
小皿に取って味見をし、エレナは満足そうに微笑んだ。
スープを銀の器によそい、温めたパンを添えて銀盆に乗せる。
最後の力を振り絞り、彼女は主塔の執務室へと向かった。
***
コン、コン。
控えめなノックの音に、執務机に突っ伏していたヴォルフラムが弾かれたように顔を上げた。
彼の目の下には濃い隈が刻まれ、机の上には怪しげな琥珀色の液体が入った小瓶が置かれていた。
「……入れ」
扉が開き、エレナが入ってきた。
湯気を立てる銀盆を両手で捧げ持ち、静かに歩み寄ってくる。
ヴォルフラムは咄嗟に、机の上の小瓶を羊皮紙の束の陰へと隠した。
最高位司祭が、古代遺物から抽出と浄化を終えたばかりの秘薬――『不死鳥の心臓』の霊薬だった。
ただし、今すぐ飲ませればよい薬ではない。
極北の日の出前後、石化呪の流れが一日のうち最も弱まる短い時間に、神官の術式で心核を開きながら投与しなければ、かえって呪いの反発を招くと告げられていた。
(明朝だ……)
ヴォルフラムは胸の中で、破裂しそうな心臓を必死に押さえつけた。
医療班と神官は、明朝八時に合わせてすでに待機させてある。
あと半日。そこまで呪いを刺激せず耐えさせれば、彼女を死の淵から引き戻せるはずだった。
「夜分に申し訳ございません、閣下」
エレナは銀盆を机の端に置いた。
ふわりと、懐かしい香草と肉の香りが立ち上る。
「厨房をお借りして、夜食をご用意いたしました。連日のご激務、お体をお労りくださいませ」
「…………」
ヴォルフラムは銀の器を見つめた。
自分が最も好む、母の味に似たスープだった。
器の横には、丁寧に折りたたまれた布巾と、磨き抜かれたスプーン。
「……何の真似だ」
「いえ。半年間、何不自由のない暮らしと、身に余るお役目を与えてくださった閣下への、ほんのささやかな御礼にございます」
エレナは一歩下がり、胸の前で両手を重ねた。
その所作は、まるで王室の儀典官のように非の打ち所がなかった。
「明日で、契約の半年が満了いたします。私のような生贄の娘を、温かな屋敷で人間として扱ってくださり、心より感謝申し上げます。閣下の厳格で公正なお導きがあったからこそ、私は今日まで誇りを持って生きることができました」
淡々と、澱みなく紡がれる感謝の言葉。
だが、それを聞くヴォルフラムの胸は、万力で締め上げられるように軋んだ。
(やめろ……)
なぜ、そんな目をする。
なぜ、そんな旅立ちの朝のような、穏やかで清らかな顔で笑うのだ。
お前は明日、自由になるのだぞ。
健康な体を取り戻し、温かい陽の光の下で、生きていくのだぞ。
「……スープは、いただく」
ヴォルフラムは震える手を隠すようにスプーンを取り、スープを口に運んだ。
温かい。
驚くほど滋味深く、凍えきった五臓六腑に染み渡るような優しさに満ちていた。
喉の奥が熱くなり、危うく涙が零れそうになるのを、彼は奥歯を噛み締めて耐えた。
褒めたい。美味いと叫びたい。
だが、感情を昂ぶらせれば、彼女の呪いを刺激してしまうかもしれない。
彼はスプーンを置き、極力平坦な声を取り繕った。
「悪くない。……今夜はもう何もするな。部屋の暖炉を最大にして休め。命令だ。それから明日、朝八時にここへ来い」
「朝八時、でございますね」
「ああ。重要な話がある。今後の……お前の処遇についての話だ」
半年後の離縁という約束を、自分の意思では望んでいないと伝える。
そして、彼女が自由になった上で、それでも自分を選ぶ余地があるなら、改めて求婚する。
この半年間、言えなかったすべての言葉を、明日、解呪を終えた彼女に伝える。
お前を愛していると。今度こそ、選ぶ権利ごとお前に返したいと。
エレナは深く、優雅にカーテシーを返した。
「かしこまりました。……明日朝八時、お伺いいたします」
エレナの瞳に宿っていたのは、穏やかな諦念だった。
(明日の朝八時……。もし私の命が残っていれば、最後のご挨拶にお伺いしますね)
そう心の中で呟きながら。
「それでは閣下、今夜はどうか、温かくしてお休みくださいませ」
エレナは静かに頭を下げ、部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
ヴォルフラムは一人残された部屋で、冷めゆくスープを最後の一滴まで飲み干した。
そして机の上の解呪薬を強く握りしめ、夜空を仰いだ。
「あと数時間だ……エレナ。明日、お前を必ず救う」
***
自室に戻ったエレナは、静かに部屋の鍵をかけた。
もはや、立っていることすら限界だった。
壁に手をつき、倒れ込むようにして机へと向かう。
彼女は引き出しから、最後の一枚の羊皮紙を取り出した。
感覚の完全に消えた右手に、紐でペンを縛り付ける。
震える手で、渾身の力を込めて書いた。
『遺言書並びに離縁に伴う財産放棄書』
自分が死んだ後、実家のランベール家が辺境伯家に不当な金銭要求や言いがかりをつけないよう、法的に完璧な文面をしたためる。
すべての財産の相続権を放棄すること。
自らの死因は先祖返りの呪詛による寿命であり、辺境伯家には一切の過失がないこと。
そして――。
『閣下のこれからの人生に、北方の凍土を溶かすほどの幸福が訪れますよう、心よりお祈り申し上げます』
インクが乾くのを確認し、封筒に入れて机の真ん中に置いた。
その横に、領地運営のすべての鍵を整然と並べる。
エレナはふらつく足でクローゼットへ向かい、嫁いできた日に着ていた純白の花嫁衣裳を取り出した。
汚れた執務着を脱ぎ捨て、そのドレスに袖を通す。
背中の編み上げを締める力は残っていなかったが、それでも布地を整え、ベッドの上に横たわった。
ゴホッ、と口元から一筋の黒い血が伝い落ちる。
拭う力も、もうなかった。
(ああ……約束の、半年……)
視界が急速に薄暗くなっていく。
心臓が、まるで冷たい重石を抱え込んだように重く、鈍い。
胸の中央の黒い茨が、最後の輝きを放つように冷たく脈動していた。
(お父様……。私は、最後まで役立たずだったでしょうか)
(……いいえ。この半年間、私は確かに、誰かの役に立てた)
脳裏に浮かんだのは、冷酷でありながら、誰よりも公正で、スープを黙って飲み干してくれたあの人の横顔だった。
(閣下……。温かい寝床を、ありがとうございました)
エレナは胸の前で、冷え切った両手をそっと組んだ。
そして、満足げな微笑みを浮かべたまま、静かに瞳を閉じた。
***
翌朝、七時五十分。
主塔の執務室には、ヴォルフラムの姿があった。
彼の傍らには、解呪薬を手にした最高位司祭と、領内随一の医師団が控えていた。
万全の態勢だった。あとはエレナが部屋に入ってきた瞬間、薬を飲ませ、儀式を開始するだけだ。
ヴォルフラムは珍しく落ち着きなく、時計の針を見つめていた。
心臓が早鐘を打っている。
今日からようやく、彼女に自分の未来を選んでもらうことができる。
彼女の笑顔を、もう恐れずに見つめることができる。
カチ、リ。
時計の長針が十二を指した。
午前八時、ちょうど。
「…………」
ヴォルフラムは扉を見つめた。
だが、ノックの音は響かない。
八時五分。
八時十分。
エレナは、時間を違えるような人間では決してなかった。
どんな吹雪の日でも、どんな激務の朝でも、彼女は一分たりとも遅れたことはなかったのだ。
「……閣下?」
側近の騎士が訝しげに声をかける。
その瞬間、ヴォルフラムの脳裏に、昨夜のエレナのあの微笑みが、鮮烈な恐怖を伴って蘇った。
『明日朝八時、お伺いいたします』
あの時、彼女の瞳の奥にあったのは、約束ではなかった。
あれは――。
「……まさか」
ガタッ!!
ヴォルフラムは椅子を跳ね飛ばし、猛烈な勢いで執務室を飛び出した。
「閣下!?」
「ついてこい!! 医師団、全員だ!!」
氷血公の絶叫が、静まり返った城の廊下に木霊した。




