第4話:後妻の推薦状
「……怪我を、なさったのですか」
執務室の扉を開けた瞬間、漂ってきた濃密な血の匂いに、エレナは小さく息を呑んだ。
机の向こうに立つヴォルフラムの姿は、痛々しいの一言に尽きた。
漆黒の軍服は裂け、左腕から胸元にかけて幾重にも巻かれた包帯には、赤黒い血がべっとりと滲んでいる。頬には凍傷の痕があり、無精髭の浮いた顔は酷くやつれていた。
だが、その青灰色の瞳だけは、飢えた獣のようにぎらぎらとした異様な光を宿していた。
彼は胸元の内ポケット――奇跡の秘薬『不死鳥の心臓』が収められた場所を確かめるように強く押さえ、エレナを見据えた。
「かすり傷だ。気にするな」
低く嗄れた声。
二週間ぶりの再会だというのに、彼はいつものように冷淡を装っていた。
だが、その内心は荒れ狂っていた。
エレナの顔色の悪さ、首元まで隠すように詰まった衣服、そして微かに漂う鉄の匂い。彼女の呪いが、自分の不在の間に確実に進行していることを、ヴォルフラムは本能で嗅ぎ取っていた。
(間に合った……。あとは神殿の秘術でこれを精製し、飲ませるだけだ)
あと数日。
この地獄のような欺瞞も、あと数日で終わる。
呪いさえ解ければ、もう彼女を突き放す必要はない。愛していると叫び、その痩せた体を抱きしめてやることができる。
ヴォルフラムは荒い呼気を整え、机に手をついた。
「私の留守中、領内の被害を出さずに差配したと聞いた。……悪くない働きだった」
感情を込めず、極力無機質に絞り出した言葉。
これが、今の彼に許された精一杯の「賞賛」だった。
「もったいないお言葉にございます、閣下」
エレナは深く、優雅に頭を下げた。
そして、抱えていた二冊の分厚い羊皮紙の束を、机の上に静かに置いた。
「白嵐の被害報告書と物資の精算書は、すでにバルト殿へ提出してございます。……本日、閣下にご確認いただきたいのは、こちらの二点でございます」
「……何だ、これは」
ヴォルフラムが眉をひそめ、革紐で綴じられた書類に視線を落とした。
エレナは微塵の翳りもない、完璧な事務官の微笑みを浮かべて説明を始めた。
「一冊目は、『クロイツ辺境伯領・次期夫人への引き継ぎ覚書』にございます」
「…………引き継ぎ?」
「はい。私がこの半年間で整理いたしました領内三十箇所の兵站帳簿の管理法、極寒期の燃料備蓄手順、さらには使用人たちの適性と配置図を網羅いたしました。どなたが次の奥様になられても、明日から滞りなく公務を執り行えるよう、詳細な手引きを作成してございます」
部屋の空気が、ふっと凍りついた。
ヴォルフラムの喉が、引き攣ったように小さく動く。
「……次期、夫人だと?」
「はい。そして、こちらが二冊目になります」
エレナはもう一冊の、さらに分厚い冊子をトン、と指先で押し出した。
そこには、達筆な文字でこう記されていた。
『閣下に相応しき後妻候補三名の身上調査書』
「契約満了の日まで、残すところあとわずかとなりました。私のような呪われた身代わりではなく、真にクロイツ辺境伯家に繁栄をもたらす正妻を、一刻も早くお迎えいただく必要がございます」
エレナは誇らしげですらあった。
この二週間、喀血の発作に耐え、眠る時間をすべて削って調べ上げた成果だった。
「筆頭候補は、西方の穀倉地帯を治めるヴェルナー侯爵家の長女殿です。実家からの食糧支援が期待でき、気立ての良さでも評判です。第二候補は、王立魔導院で兵站魔術を修めた理知的な令嬢。第三候補は、武門の名家で魔獣討伐の理解が深い令嬢。いずれも血筋、健康状態、魔力、実務能力において申し分ございません。閣下の血統を繋ぎ、この極北の防壁を盤石にするための最善の選択肢を揃えました」
エレナは胸元に手を当て、心からの忠誠を込めて微笑んだ。
「半年間、私のような者に温かな屋敷と重要な役目を与えてくださった閣下への、これが私からの最後の恩返しにございます。どうぞ、ご査収くださいませ」
***
「…………」
沈黙が、重く、鋭く、部屋を満たした。
暖炉の薪が爆ぜるパチッという音すら、まるで硝子が割れるような衝撃を伴って響く。
ヴォルフラムは、動かなかった。
机の上の書類を見つめたまま、微動だにしない。
だが、彼の両拳は白くなるほど強く握りしめられ、傷口の包帯からジュワリと新たな鮮血が滲み出していた。
(後妻……? 引き継ぎ……?)
ヴォルフラムの頭の中で、エレナの言葉が反響していた。
理解が追いつかない。
いや、理解したくなかった。
自分は、死線の上を這いずり回っていたのだ。
古代の魔獣の牙に腕を裂かれ、骨を折られ、吹雪に肉を凍らせながら、ただ彼女を生かしたい一心で、命を削って『不死鳥の心臓』を奪い取ってきたのだ。
彼女の呪いを解き、この過酷な運命から解放し、「私と共に生きてくれ」と請うために。
なのに。
彼女は――。
自分が血を流して戦っていたその間、エレナは「自分の代わりの女」を探していたというのか?
自分が去った後の、この城の未来を。
自分が愛するはずの、次の妻の座を。
なんの未練もなく、なんの躊躇もなく、完璧な手際で準備していたというのか?
「……お前は」
地獄の底から響くような、嗄れた声が漏れた。
「お前は、本気で……こんなものを、私に突きつけているのか?」
「はい? 何か不備がございましたでしょうか。身上調査に誤りがあれば、すぐに調べ直しますが――」
「ふざけるなッッ!!!」
轟音。
ヴォルフラムの拳が机を打った。
次の瞬間、彼が払い落としたのは『後妻候補三名の身上調査書』だけだった。
革紐が外れ、候補者の身上書が数十枚、白い雪のように床へ散らばっていく。一方で、領務の引き継ぎ覚書には手を触れなかった。
「あ……」
エレナの唇から、小さな声が零れた。
ヴォルフラムは肩を激しく上下させ、血走った眼でエレナを睨みつけていた。
その顔は、激しい怒りと――それを遥かに上回る、絶望に歪んでいた。
「誰がこんなものを頼んだ!? 誰がお前に、私の後妻を選べと命じた!? 領務の引き継ぎは受け取る。だが、私の次の婚姻までお前が決める必要はない!」
「閣下、ですが――」
「……今は、聞きたくない」
ヴォルフラムは机を強く叩いた。
傷口が裂け、床にポタポタと血の雫が落ちる。
「契約が終わるその瞬間までは、お前がこの家の夫人だ。自分が消えることを当然のように前提にして、私の先の人生まで整えようとするな……!」
言葉を吐くたび、ヴォルフラムの胸は千切れそうだった。
(違う、そうじゃない。消えてほしくないと言いたいんだ)と、心の奥で理性が叫んでいた。
言わなければならない。「お前が必要なんだ」「お前を死なせない」「これを飲んでくれ」と。
懐の秘薬を差し出せばいい。
だが――言えない。
今、この激情のままに彼女を抱きしめ、愛を叫べばどうなる?
呪いのルールが、冷酷に頭をよぎる。
『宿主が他者から向けられた強い情念を自覚した時、侵食速度は十倍近くまで跳ね上がる』
まだ薬は精製されていない。今ここで情を伝えれば、石化が致命的な段階まで進むかもしれない。
言えない。
触れられない。
怒りで突き放すことしかできない、この呪わしい現実。
「……今日は、下がれ」
ヴォルフラムは顔を覆い、絞り出すように言った。
「二度と、私の前で別の女の名を口にするな。今はこれ以上、話せそうにない」
***
「…………」
エレナは、舞い散る羊皮紙の真ん中で立ち尽くしていた。
激しい声。床に飛び散った夫の血。
エレナは思わず一歩、彼の傷へ手を伸ばしかけた。
けれど、自分に触れられることさえ迷惑かもしれないと思い、指先をそっと引っ込める。
その瞬間、呪いの痛みとは少し違う、細い痛みが胸の奥を走った。
(ああ……そうか)
エレナは、ゆっくりと考えた。
なぜ、閣下はこれほどまでに激怒されたのか。
答えは、あまりにも明白だった。
自分は、分を弁えていなかったのだ。
(私はただの、生贄として売られてきた身代わりの女。実家からも捨てられた、出来損ないの呪われ者……)
そんな立場の女が、領主である閣下の次の婚姻に口を出し、勝手に令嬢を値踏みして推薦するなど、どれほど出過ぎた真似だったか。
自分は良かれと思ってやったつもりだった。
だが、婚姻は彼自身が選ぶものだ。そこまで先回りして整えることは、確かに越権だったのかもしれない。
「……申し訳ございませんでした、閣下」
エレナは静かに、床に膝をついた。
感覚の麻痺した指先で、散らばった羊皮紙を一枚一枚、丁寧に拾い集めていく。
インクで汚れた紙、足元に散った紙。
どれほど時間をかけて調べたとしても、本人が望まない後妻候補の書類なら、役には立たない。
「出過ぎた真似をいたしました。私の浅慮により、閣下の御心を害しましたこと、平にお許しくださいませ」
拾い集めた書類の束を胸に抱え、エレナは立ち上がった。
その顔には、もう何の感情も浮かんでいなかった。
傷ついた素振りも、弁解の色もない。
ただ、主人の怒りを受け入れた従順な下僕の、完璧に無機質な礼儀正しさだけがあった。
「後妻候補の書類は破棄いたします。領務の引き継ぎ覚書は、ご指示に従ってお預けいたします。二度と、このような越権行為はいたしません」
エレナは深くカーテシーを一礼すると、一度も振り返ることなく、静かに執務室を辞した。
扉が閉じたあと、ヴォルフラムはしばらく動けなかった。
やがて床へ膝をつき、散らばった後妻候補の頁を一枚ずつ拾い上げる。
破り捨てることはできなかった。そこに注がれた時間も、彼女が自分の未来を案じてくれた事実も、灰にしてよいものには思えなかったからだ。
彼は領務の引き継ぎ覚書と、拾い集めた後妻候補の身上調査書――その二冊を黒革の箱へ収め、鍵をかけた。
***
それから、二日が過ぎた。
契約の半年が満了する、まさに前日。
侍女頭のマルタは、エレナの私室の掃除のために部屋に入り――その場で息を呑んで立ち尽くした。
「……奥様?」
部屋の中には、何もなかった。
持ち込まれていたはずの質素な私服も、机の上に置かれていた愛用の羽根ペンも、棚の上の小瓶も。
生活の痕跡のすべてが、綺麗さっぱり消え去っていた。
クローゼットの中には、嫁いできた時に着ていた純白の花嫁衣裳が一着だけ、埃よけの布をかけられて掛けられている。
机の上には、領地運営のすべての鍵と、帳簿の保管場所を記した一枚の目録。
そしてベッドの上には、小さなトランクが一つ。
その中身も、ほぼ空っぽだった。
まるで、最初からこの部屋に誰も住んでいなかったかのように。
あるいは――明日、この世から完全に消え去る者が、残された者に一切の片付けの手間を取らせぬよう、完璧に身辺整理を終えたかのように。
「どうして……こんな……」
マルタの背筋に、得体の知れない冷たい寒気が走った。
彼女は胸騒ぎに突き動かされるように、主塔の執務室へと走り出した。




