第3話:夜更けの血痕と、猛吹雪の遠征
窓ガラスが、突風に軋んで悲鳴を上げていた。
視界のすべてを白く塗り潰す猛吹雪――北方の冬の始まりを告げる『白嵐』だった。
契約満了まで、あと十七日。
「半月、城を空ける」
城門の前で、漆黒の毛皮付き外套を羽織ったヴォルフラムが言った。
腰には抜き身の冷気を放つ大剣。その後ろには、極北の過酷な行軍に耐えうる選りすぐりの精鋭騎士が十名、死地へ赴くような張り詰めた面持ちで控えている。
「魔獣の巣窟となっている北の山脈を叩く。その間、城内の内政と防寒物資の差配はお前に任せる。……粗相を起こすな」
「はい。命に代えましても、領民と騎士の皆様の生命をお守りいたします」
エレナは胸元に手を当て、完璧なカーテシーを返した。
ヴォルフラムは彼女の顔を正面から見ようともせず、手綱を握る革手袋を軋ませた。
一言も労いや別れの言葉を残すことなく、彼は馬腹を蹴り、猛り狂う吹雪の闇の中へと消えていった。
「奥様、どうか中へ……! このような寒風に当たられては、お体が持ちません!」
慌てて駆け寄ってきたのは、侍女頭のマルタだった。
当初は「王都から押しつけられた政略結婚の令嬢」と距離を置いていた使用人たちも、エレナが五か月にわたり誠実に執務をこなし、使用人一人ひとりの家族構成や体調まで気遣った防寒着を手配したことで、今や誰もが彼女を心から敬愛していた。
「ありがとうございます、マルタ。ですが、休んでいる暇はありません。白嵐が来たということは、外縁部の開拓村で屋根の倒壊や燃料不足が起きるはずです。すぐに第二会議室へ文官と警備隊長を集めてください」
エレナは冷え切った頬に手を当て、毅然と顔を上げた。
その双眸に、迷いも恐怖もなかった。
***
それからの三日間、エレナの指揮は神がかり的だった。
「第三地区の炭鉱夫の宿舎に、魔導燃料を三十箱移送。同時に、孤児院と老人施設を城の地下大広間へ一時避難させてください。食糧の配給は一律ではなく、乳幼児と怪我人を優先。前線基地へは、昨日再計算した西側の迂回ルートを使って乾パンと干し肉を届けます」
机の上に巨大な領地地図を広げ、エレナは淀みなく指示を飛ばし続けた。
文官長バルトをはじめ、歴戦の兵站将校たちすらも、彼女の指示に一切の疑問を挟まなかった。
彼女の頭の中には、領内の倉庫の在庫、輸送馬車の数、道路の勾配に至るまで、すべての数字が完璧に叩き込まれていたからだ。
「奥様、外縁部の第一村落から連絡です! 雪崩で道が塞がれましたが、奥様の指示通り事前に備蓄していた倉庫から食料が配られ、一人の凍死者も出ずに耐え凌いでいるとのことです!」
「よかった……本当によかった」
伝令の報告を聞き、エレナは胸を撫で下ろして微笑んだ。
執務室に歓声が湧き上がる。
誰もが「新しい奥様が領地を救ってくださった」と称え、奇跡を喜んでいた。
だが――その熱狂の陰で、エレナの指先は小刻みに震えていた。
(……息が、苦しい)
胸の中央に、焼け火箸を押し当てられたような鈍い痛みが走る。
激務と寒気のせいか。
それとも、歓声とともに一斉に向けられた、領民や使用人たちからの強い感謝と好意を受け取ってしまったからか。
(だめ……。皆様の気持ちを、真正面から受け取ってはいけない)
エレナは冷たい机の角を掴み、誰にも悟られぬよう荒い呼吸を整えた。
呪いは、他者から向けられた強い情念を糧にする。
胸元の黒い茨が、周囲の好意に呼応して心臓を締め上げる感覚が生々しく伝わってきた。
「皆様、素晴らしい働きでした。本日の緊急対応はここまでとします。交代で休息を取ってください」
全員を退出させ、エレナは一人、寝室へと戻った。
重い扉を閉め、鍵を下ろした瞬間――。
「が、はっ……!」
足の力が抜け、エレナは冷たい絨毯の上に崩れ落ちた。
激しい咳き込みとともに、喉の奥から熱い鉄の味がせり上がってくる。
ゴホッ、と吐き出した手のひらには――どす黒い、粘り気のある血がべっとりと広がっていた。
咳は止まらず、純白のハンカチを赤黒く染め上げていく。
「……あ、あ……」
エレナは荒い息を吐きながら、震える手で胸元のボタンを外した。
鏡を見るまでもない。
鎖骨のあたりまでだったはずの黒い石の茨が、すでに喉仏のすぐ下まで這い上がっていた。
そして何より――心臓の鼓動が、驚くほど重く、鈍くなっている。
かつて神殿の最高司教は「あと半年」と言った。
だが、それは温室のような王都で、感情を殺して寝たきりで過ごした場合の話だったのだ。
極北の過酷な寒気と、領地を救うための激務。
エレナの命の蝋燭は、すでに最後の芯を燃やし始めていた。
(この進み方では……契約満了の日まで、持たないかもしれない)
冷たい床の上で、エレナは血にまみれたハンカチを見つめた。
死ぬこと自体は、怖くなかった。
だが、恐怖がなかったわけではない。
(閣下が戻られる前に……もし、ここで私が死んでしまったら?)
契約違反だ。
半年間、領地事務を完璧にこなすと約束した。
なのに、夫の留守中に勝手に吐血して死に、屋敷を血で汚し、縁起でもない死体となって発見されるなど、どれほどの迷惑をかけることになるか。
「隠さなきゃ……」
エレナは這うようにして暖炉へと向かった。
震える手で、血に染まったハンカチを赤々と燃える炎の中へ放り込む。
ジュッ、という鈍い音とともに、黒煙が上がり、証拠が灰へと変わっていく。
床に落ちた血の雫も、濡らした布で念入りに、痕跡一つ残さず拭き取った。
誰にも知られてはならない。
自分がもう、立っていることすら奇跡的な状態であることなど。
「急がなくては……。半年なんて、待っていられない」
エレナは机に向かい、震える指で新しい羊皮紙を広げた。
自分が明日死んでも、この領地が、そしてあの厳しくも公正な夫が困らないように。
残された時間の一分一秒すら、無駄にはできなかった。
***
その頃。
城から遥か数十里北、人間が足を踏み入れることを禁じられた極北の古代遺跡『嘆きの氷窟』。
「グオォォォッ!!」
地響きとともに、白銀の毛皮を持つ巨獣――吹雪を操るエンシェント・ベヒーモスが咆哮を上げた。
氷の洞窟に、鮮血が飛び散る。
「閣下!!」
「下がるな! 退路を塞げ!」
怒号を上げたのは、ヴォルフラムだった。
彼の漆黒の毛皮はズタズタに裂け、左肩からは大量の血が滴り落ちていた。吹雪によって負傷部位が瞬時に凍りつき、激痛が全身を苛む。
だが、彼の青灰色の瞳には、正気を疑うほどの狂気的な闘志が宿っていた。
魔獣討伐など、ただの建前に過ぎなかった。
この古代遺跡の最深部、魔獣が守護する祭壇に眠るもの――。
ザシュッ!!
一瞬の隙を突き、ヴォルフラムの大剣が怪物の急所を深々と貫いた。
巨獣が断末魔の叫びを上げて氷の床に崩れ落ちる。
「はぁっ……はぁっ……!」
剣を杖代わりにし、ヴォルフラムは膝をついた。
肩の傷から血がボタボタと落ちる。騎士たちが駆け寄ろうとするのを、彼は鋭い手制動で制した。
「触るな……。それより、祭壇だ」
ヴォルフラムはふらつく足取りで、凍りついた祭壇へと歩み寄った。
氷柱に囲まれた台座の上。
そこには、淡い緋色の光を放つ、拳大の宝珠が安置されていた。
触れるだけで周囲の氷を溶かすほどの神聖な熱量――古代の遺物、『不死鳥の心臓』。
あらゆる呪詛を焼き払い、宿主の肉体を蘇生させる奇跡の秘薬だった。
「……あった」
ヴォルフラムの唇から、震える息が漏れた。
彼は血に汚れた手袋を脱ぎ、神聖な宝珠を抱き抱えるようにして手に入れた。
「手に入れたぞ……エレナ」
極寒の氷窟の中で、彼の脳裏を満たしていたのは、ただ一人の少女の姿だった。
十年以上前、幼き日のヴォルフラムが戦場で魔獣の毒に倒れた時。
通りかかった小さな少女が、泣きながら自らの指を傷つけ、その血を彼の口に含ませて解毒してくれた。
その少女の胸元に、すでに小さな石の痣があったことを、ヴォルフラムはずっと覚えていた。
彼女を探し出し、ようやく妻として迎えることができた時には、彼女の命は残り半年しかなかった。
ランベール家の悪辣な父親が、余命わずかな彼女を結納金目当てで差し出したと知った時、ヴォルフラムは王都へ乗り込みたいほどの激情に駆られた。
だが、感情を表に出すことは許されなかった。
彼女の呪いは、他者からの強い好意を本人が自覚した時、石化の侵食を急激に加速させる。
だからこそ、氷の男を演じた。
愛情を悟らせないことで、彼女の心臓を石化の侵食から守り続けた。
「すぐに城へ戻るぞ!」
ヴォルフラムは傷口を荒縄で縛り上げ、叫んだ。
「これの精製には神殿の秘術が必要だが、核は手に入った。これでお前は生きられる。もう、あんな悲しい顔で笑わなくていい……!」
愛していると、言いたかった。
お前が生きているだけでいいと、抱きしめたかった。
あと少しだ。
城へ戻り、この薬を飲ませ、呪いを解いたその時――生まれて初めて、彼女に心からの愛を告げるのだ。
ヴォルフラムは胸元の宝珠を抱きしめ、猛吹雪の中を城へと急いだ。
***
それから十一日後。
崩落した峠を大きく迂回した遠征隊が、ようやくクロイツ城へ帰還する頃。
エレナは、机の上に積み上げられた分厚い羊皮紙の束を、丁寧に革紐で綴じ終えたところだった。
ヴォルフラムが残した「夜七時以降は執務禁止」の命令を、初めて何夜も破っていた。使用人たちを休ませたあと、一人で身辺整理を進めていたのだ。
寝不足が重なり、その顔色は蝋人形のように白く透き通っている。
だが、その瞳には、一つの大仕事を成し遂げた職人のような、清々しい光が宿っていた。
綴じられた冊子の表紙には、誰が見ても読みやすい、端正で気品ある文字が記されていた。
『クロイツ辺境伯領・次期夫人への引き継ぎ覚書』
――並びに、閣下に相応しき後妻候補三名の身上調査書。
「これで……よし、と」
エレナは満足そうに微笑み、そっと息を吐いた。
この冊子には、領内の全帳簿の閲覧手順、使用人たちの性格と適切な配置、極寒期における燃料配分の黄金比、そして――ヴォルフラムが好む食事の味付けや、執務の癖に至るまで、ありとあらゆる情報が網羅されていた。
さらに、自分が去った後、閣下が領地を治める上で最も助けとなるであろう、家柄と実務能力を兼ね備えた令嬢たちの推薦状まで。
「これなら……私がいつ死んでも、閣下が困ることはありませんね」
窓の外から、遠く馬の嘶きが聞こえた。
遠征部隊の帰還を告げる鐘の音が、城内に鳴り響く。
「お帰りなさいませ、閣下」
胸の奥に、ほっと温かなものが灯った。
遠征中、無事を祈るたびに浮かんだあの人の横顔を、また見られる。それがどうしてこんなに嬉しいのか、エレナはまだ知らなかった。
彼女は引き継ぎ書を胸に抱え、夫を迎えるために立ち上がった。
それが、夫の心を最も残酷に引き裂く引き金になるとも知らずに。




