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私の寿命、ちょうどあと半年なので。  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話:氷の城の事務官と、見えない石化

 翌朝、七時五十五分。

 エレナはクロイツ辺境伯邸の執務室の前に立ち、呼吸を整えた。

 身にまとっているのは、昨夜のうちに自ら針を入れて裾を詰めた、質素な灰色の執務着だ。化粧気のない顔を冷水で引き締め、手首には感覚の鈍り始めた指先を支えるため、細い包帯を固めに巻いている。


 時計の針が八時を指した瞬間、扉を二度、正確にノックした。


「失礼いたします。エレナ・ランベールにございます」

「……入れ」


 部屋の中から返ってきたのは、昨夜と寸分違わぬ、温度の一切ない硬い声だった。

 扉を開けると、そこは戦場そのものだった。

 壁際まで積み上げられた羊皮紙の束、乱雑に積まれた穀物と燃料の受領書、そして不眠不休で作業していると思しき、目の下に濃い隈を作った三人の文官たちが、ギョッとしたようにエレナを凝視していた。


「時間通りだな」


 部屋の最奥、重厚な執務机に座るヴォルフラムが顔を上げた。

 彼はすでに軍服の上着を脱ぎ、腕まくりをしたシャツ姿でペンを走らせていた。その眼差しは、昨夜以上に鋭く冷たい。


「エレナ。お前にやってもらうのは、王都のサロンのような優雅なお茶会ではない。北方の冬を越すための、前線基地三十箇所の兵站帳簿の検算だ」


 ヴォルフラムが顎で示したのは、部屋の隅の長机だった。

 そこには、ゆうにエレナの背丈を超えるほどの書類の山が、不吉な巨塔のように聳え立っていた。


「直近三年分の未処理記録だ。前任の財務官が魔獣の襲撃で戦死し、帳簿の整合性が崩壊している。物資の横領、輸送中の破損、兵士への配給の過不足……すべてを照合し、今月末までに再集計しろ」


 その場にいた古参の文官長バルトが、いたたまれないといった顔で目を逸らした。

 三年分の未整理帳簿を、たった一人の令嬢に、しかも半月で。

 誰が見ても明白な、理不尽極まる嫌がらせ――あるいは、耐えかねて音を上げさせ、自発的に実家へ逃げ帰らせるための口実だった。


 文官たちの冷たい視線がエレナに突き刺さる。

(どうせ王都の温室で育ったお嬢様だ。数字の一つも読めず、初日で泣き喚いて逃げ出すに決まっている)

 誰もがそう確信していた。


 だが、エレナはその紙の巨塔を見上げた瞬間、ぱあっと双眸を輝かせたのだ。


「……こんなに、たくさん」

「何?」

「あ、申し訳ございません。あまりに重要な記録を任せていただけるのが嬉しくて、つい。承知いたしました、閣下。今月末と言わず、可能な限り迅速に仕上げてみせます」


 エレナは深く一礼すると、迷いのない足取りで長机へと向かった。

 椅子を引き、背筋を伸ばして腰掛ける。

 トランクから持参した自前の羽根ペンとガラスのインク瓶を取り出し、最初の束を手に取ると、一切の躊躇なく紙をめくり始めた。


「…………」


 ヴォルフラムは眉間に深い皺を刻んだまま、何も言わずに視線を自分の手元の書類へと戻した。

 部屋の中に、規則正しいペンの走る音だけが響き始めた。


***


(これは……思っていた以上に酷い状態ね)


 エレナは静かに眉をひそめながら、猛烈な速度で数字を照合していった。

 ランベール家は没落しかけた呪術貴族だったが、その実態は魔導具の密輸と裏帳簿でかろうじて保たれていた。エレナは幼い頃から「呪われた役立たず」として地下室に閉じ込められ、父から課される膨大な不正帳簿の計算と改竄の下働きを、暴力と飢えの中で何年も強制されてきたのだ。


 他人が見れば暗号にしか見えない乱雑な数字の羅列から、不正と計算ミスをあぶり出すことなど、エレナにとっては呼吸をするよりも容易い作業だった。


(第一防衛線の小麦の配給記録と、中央倉庫の出庫記録に三割のズレがあるわ。これは横領ではなく、極寒期特有の運搬中の凍結・損耗を計上していないだけ……。こちらの燃料用の魔導鉱石は、純度の違いによる燃焼効率の換算ミスね)


 カリカリ、カリカリと、驚異的な速さでペンが走る。

 午前が過ぎ、正午を回り、窓の外の光が白から鈍色へと変わっていく。

 文官たちが交代で粗末な昼食の黒パンをかじっている間も、エレナは席を立たなかった。

 ただひたすらに、山のような書類を「点検済み」「要確認」「領主決裁用」の三つに、淀みなく仕分けていく。


「お、おい……奥様」


 午後三時を回った頃、恐る恐る声をかけてきたのは、文官長のバルトだった。

 彼はエレナの机の上に積み上がっていく、完璧に整理された集計表を見て、額に冷や汗を浮かべていた。


「もう六時間もぶっ通しで作業されていますぞ。休憩を取られては……」

「お気遣いありがとうございます、バルト殿。ですが、キリのいいところまで終わらせてしまいたいのです。これ、先ほどまとめた第二補給基地の過去二年分の帳簿です。赤い付箋の箇所に運搬経路の無駄が集中していましたので、迂回路の提案を添えておきました」

「は……? 二年分を、もう……? それに、迂回路……?」


 バルトが震える手でその書類を受け取り、目を通した瞬間、息を呑んだ。

 そこにあったのは、単なる計算結果ではなかった。

 北方の険しい山岳地帯の地形を考慮し、魔獣の出没頻度と雪崩の危険度を過去の天候記録と照らし合わせた上で、輸送コストを二割削減するための具体的な代替案が、誰が見ても一目で理解できる美しい筆跡と図解でまとめられていたのだ。


「な、なんだこれは……。我が領の財務官ですら、これほどの分析は半年かけてもできんぞ……」

「前任者の方の記録がとても丁寧に残されていたおかげです。私はただ、数字を繋ぎ合わせただけに過ぎません」


 エレナはふわりと微笑んだ。

 自分を蔑んでいたはずの文官に手柄を譲り、微塵も驕る様子がない。

 バルトは顔を真っ赤にし、それから深く頭を下げた。


「……失礼いたしました、奥様。私どもは、とんでもない無礼を……!」

「いいえ、頭を上げてください。私はただの契約妻ですから、奥様ではなくエレナとお呼びくださいね」


 エレナはそう言って、再びペンを走らせ始めた。

 その顔には、隠しようもない充実感が滲んでいた。


(ああ……楽しい)


 生まれて初めてだった。

 自分が誰かの役に立っている。

 実家の冷たい地下室で、殴られながら押し付けられていた技術が、この極寒の地で戦う兵士たちの命を守る糧になっている。

 死ぬまでの半年間、こんなにも価値のある仕事に命を使えるなんて、自分はなんて幸運なのだろう。


 だが――代償は確実に、彼女の体を蝕んでいた。


(……っ、指が……)


 ズキリ、と心臓の奥が跳ねた。

 エレナは誰にも見えないよう、机の下で右手をきつく握りしめた。

 手首から先、親指と人差し指の皮膚が、まるで陶器のように冷たく硬直している。

 感覚がない。

 ペンを強く握りしめすぎて、皮膚が裂け、微かに滲み出た血が包帯を赤く染めていたが、痛みすら感じなかった。

 石化が、着実に神経を殺し始めている証拠だった。


(まだ動く。まだ、ペンは握れる……)


 エレナは歯を食いしばり、左手で硬直しかけた右手の指を無理やり揉みほぐした。

 感覚がないのなら、目で見てペンの角度を調整すればいい。

 命の蝋燭が燃え尽きる前に、この山をすべて片付けなければならないのだから。


***


 夜の十時。

 静まり返った執務室に、重い足音が響いた。


 軍議から戻ってきたヴォルフラムが、部屋の扉を開ける。

 すでに他の文官たちは退室していたが、部屋の隅の長机には、いまだに一本の蝋燭の明かりが灯っていた。


「……エレナ」


 低く、地這うような声。

 エレナはハッと顔を上げ、立ち上がって礼を取ろうとしたが、足の感覚が麻痺しており、わずかによろめいた。机に手をついて辛うじて体勢を保つ。


「申し訳ございません、閣下。お帰りでいらっしゃいましたか」

「……まだ残っていたのか。灯りの無駄だと言ったはずだが」


 ヴォルフラムが歩み寄ってくる。

 その視線が、長机の上に落ちた。


 三年分の書類の巨塔は、朝より明らかに低くなっていた。

 机の上には、まず全記録を年度と基地別に振り分けた索引、その横には緊急度の高い六基地分の再集計帳簿が整然と並んでいる。


「……これは、何だ」

「まず全体を走査し、欠損と不整合の多い箇所を危険度順に仕分けました。こちらの六基地分は照合と再集計まで完了しております。残りは、この索引に沿えば文官の皆様と分担して進められます」


 ヴォルフラムは無言で、一番上の帳簿を開いた。

 精度は申し分なかった。

 六基地分だけでも、熟練の財務官なら数日はかかる作業だ。しかも彼女は、残り全体を迷わず処理できる道筋まで一日で作っていた。


 パラリ、と頁をめくるヴォルフラムの指が、微かに震えていた。

 その顔は、驚嘆を通り越し、凄まじい怒りに似た色に染まっていた。


「……誰が、一日でここまで進めろと命じた」

「え……?」


 エレナは目を丸くした。

 ヴォルフラムの声音は、今朝よりもさらに低く、凍りついていた。


「今月末までと言ったはずだ。なぜ、そこまで急ぐ。なぜ……体を壊してまで、このような真似をする」

「閣下の手を煩わせるわけにはまいりませんから。それに、早く終わらせれば、それだけ領内の物資の無駄を早く止められます。兵士の方々へ、温かい食事を一日でも早く届けることができます」


 エレナは当然のことのように、微笑んで答えた。

 褒めてほしいわけではない。

 ただ、自分の役割を果たせたことが嬉しかった。


 だが、その無垢な笑顔を見た瞬間、ヴォルフラムの顎の筋肉がギリリと軋んだ。

 彼は帳簿をバタンと荒々しく閉じると、吐き捨てるように言った。


「……仕事としては合格だ。だが、明日から一人で抱え込むな。文官を使え」

「……はい。ご期待に沿えたようで、安堵いたしました」


 エレナは全く傷ついた様子もなく、誇らしげに頭を下げた。

 冷遇されることなど、彼女にとっては日常だった。罵倒されることもなく、「仕事としては合格」と能力を認めてもらえただけで、彼女の心は満たされていた。


「本日の業務はこれで終了ですね。それでは、失礼いたします」


 エレナは机の上を整頓し、自分のノートとペンを抱えると、静かに執務室を後にした。

 足を引きずるのを悟られぬよう、一歩一歩、慎重に歩きながら。


***


 パタン、と扉が閉まる。


 執務室に残されたヴォルフラムは、その場に縫い止められたように動けずにいた。

 彼の胸の奥で、ドス黒い感情が渦を巻いていた。


「……なぜだ」


 ヴォルフラムは机に歩み寄り、エレナが座っていた椅子を見下ろした。

 そこには、冷え切って一口も口をつけられていない白湯の入ったカップが残されていた。


 そして――机の端。

 エレナが感覚のない指先を確かめるために、無意識のうちに針で突いたのだろう。

 羊皮紙の片隅に、微かな、小さな、赤い血の染みが点々と残されていた。


「なぜ……そんな顔で笑うんだ……!」


 ヴォルフラムは机を両手で強く叩き、頭を垂れた。

 激しい呼吸が、冷え切った部屋に白い呼気となって広がる。


 褒めたかった。

 よくやったと、素晴らしいと、世界中の誰よりもお前は誇らしいと抱きしめたかった。

 冷え切ったその手を包み込み、暖炉の火のそばで温かいスープを飲ませてやりたかった。


 だが、できなかった。

 ほんの少しでも優しい声をかければ。

 ほんの少しでも情のこもった眼差しを向ければ。

 エレナの胸にある呪いは、その好意を糧にして、心核への侵食を一気に進めてしまう。


『宿主が他者から向けられた強い情念を自覚した時、侵食速度は十倍近くまで跳ね上がる』


 突き放すしかなかった。

 それでも、体を壊すまで働かせるつもりはない。


 翌朝、ヴォルフラムは「夜七時以降の執務禁止」「三度の食事を欠かさないこと」「単独で仕事を抱え込まないこと」を、あくまで業務命令として通達した。

 エレナはそれを『労働効率を落とさぬための合理的な規則』と受け取り、素直に従った。


 それから、五か月が過ぎた。


 エレナは文官たちと力を合わせ、三十の前線基地すべての帳簿を整理し、冬に備えた物資管理の手順まで整えていった。

 ヴォルフラムは相変わらず冷たかったが、彼女の机の白湯が切れればいつの間にか補充され、夜七時を過ぎれば問答無用で執務室から追い出された。

 エレナはその厳格さを、少しずつ心地よいものとして覚えていった。


 契約満了まで、あと十八日。

 その夜、長く探索を続けていた密偵から、ついに古代遺跡の最奥へ至る道が判明したとの報せが届いた。


「……待っていろ」


 ヴォルフラムは机の上の古い血の染みを、手袋越しにそっと撫でた。

 その瞳に、決意の炎が宿る。


「明日だ。明日の夜、吹雪をついて極北の遺跡へ出る。……必ず、特効薬を持ち帰る」


 冷血公と呼ばれた男は、闇の中で独り、拳を握りしめた。

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