第1話:初夜の取引と、完璧な微笑み
「半年後に離縁する。それまでの白い結婚だ」
豪奢な天蓋付きベッドの前で、新郎は軍靴の泥も落とさぬまま、冷たく言い放った。
重厚な外套を翻して投げ出されたのは、一枚の羊皮紙――すでに彼の署名が走る『婚姻契約書』だった。
「お前を抱く気はない。私に情を求めるな。だが半年間、辺境伯夫人の務めと領内管理の事務を完璧にこなせ。そうすれば半年後、不貞も瑕疵もない円満な離縁として、実家へ戻らぬための生活資金を与えて放逐してやる」
北方の防壁を担うクロイツ辺境伯、ヴォルフラム。
凍てつく夜空色の髪に、人を寄せ付けぬ冷徹な灰青の双眸。戦場では「氷血公」と恐れられ、王都の貴族たちですら震え上がる男が、初夜の寝室で妻に突きつけたのは完全なる追放宣告だった。
普通の貴族令嬢なら、泣き崩れるか、理不尽に憤慨するところだろう。
だが、純白の花嫁衣裳を身にまとったエレナ・ランベールは、胸元で両手を合わせ、心底ほっとしたように花のような笑みを浮かべた。
「承知いたしました、閣下。……心より感謝申し上げます」
「…………何?」
ヴォルフラムの整った眉が、わずかに跳ね上がった。
「私の耳がおかしくなったのでなければ、お前は今、歓迎すべきでない宣告に感謝を述べたように聞こえたが」
「はい。感謝しております。閣下の提示された条件は、私にとってあまりにも寛大で、願ってもない救いにございますから」
エレナは微塵の嫌味もなく、深々と頭を下げた。
――だって、ちょうど半年後なのだ。
エレナ・ランベールという人間が、この世から消えてなくなる予定の日は。
***
事の始まりは、半月前だった。
呪術の名門として名ばかりが残るランベール子爵家。その当主である父は、エレナの前に書類を叩きつけ、汚らわしい害虫でも見るような目を向けた。
『北のクロイツ辺境伯が、領地の魔獣除けの結界を補強するための“生贄”を求めておられる。ランベール家の娘を差し出せば、多額の結納金が我が家に支払われる契約だ』
『……私を、ですか? 妹のエミリアではなく』
『当たり前だろう! エミリアは王都の侯爵家へ嫁ぐ大事な娘だ。誰がお前のような、古代の呪いに侵された出来損ないを王都に置くか!』
父の罵声は、エレナの胸を刺すことすらできなかった。もう疾うの昔に、心は傷つくことをやめていた。
エレナの胸元には、生まれつき『石化の浸蝕呪』が刻まれていた。
ランベール家の血に眠る古代の呪詛が先祖返りで発現し、心核に向かって徐々に肉体を石へと変えていく不治の奇病。神殿の最高司教から下された診断は、極めて残酷で明瞭だった。
『二十歳を迎える年の冬――あと半年で、心臓が完全に石化し、絶命するでしょう』
実母を早くに亡くしたエレナは、父と継母、そして異母妹のエミリアにとって、持参金どころか葬儀代すら惜しい「死に損ない」でしかなかった。
だからこそ、北方の荒野で魔獣と戦い続ける辺境伯家から「結界術の心得がある娘」との縁談が届いた際、父はその事情を都合よく捻じ曲げ、エレナを差し出すことにしたのだ。
『どうせ半年でくたばる命だ。辺境伯は冷酷非道で、女など道具としか思わぬ男だと聞く。貴様が向こうで死のうが魔獣の餌になろうが、我が家には知ったことではない。結納金さえ入ればそれでいい』
そうしてエレナは、着の身着のまま、粗末なトランク一つを持たされて極北の地へと送られた。
辺境伯の妻といえば聞こえはいい。けれど父からそう言い聞かされてきたエレナは、自分が魔獣の防壁を維持するための使い捨ての触媒なのだと、疑うことなく覚悟していた。
ところが――目の前の夫は、こう言ったのだ。
抱く気はない。
半年間、領地管理の事務をこなせば、半年後に離縁してやる、と。
(半年後に離縁……なんてありがたいのかしら)
エレナは胸の内で、静かに両手を組んだ。
魔獣の前に生贄として放り出されるわけでもなく、理不尽に地下牢へ幽閉されるわけでもない。
温かい屋敷で、生きている間は領地の事務仕事という「役目」を与えられ、そしてちょうど命が尽きる半年後に、書類上も綺麗さっぱり「無関係の他人」として離縁してもらえる。
実家の墓に入れられることもなく、辺境伯家の名誉に傷をつけることもない。
誰の足手まといにもならず、ただ静かに、綺麗に消え去ることができる。
これ以上の幸福な幕引きが、どこにあるだろうか。
***
「……契約書の中身を読んだのか」
ヴォルフラムの声が、室内の冷気を震わせた。
彼は腕を組み、冷ややかな視線でエレナを見下ろしている。その双眸の奥には、不可解なものを観察するような、研ぎ澄まされた警戒の色があった。
「はい、拝読いたしました」
「不服はないのか。お前は子爵令嬢だ。社交界の華やかな暮らしも、夫からの愛も、世継ぎを産む栄誉も、ここには何一つない。課されるのは極寒の地での過酷な帳簿付けと、半年後の追放だけだぞ」
「はい。十分すぎるほどでございます」
エレナは机の上の羽ペンを手に取ると、一切の手の震えもなく、契約書の末尾に自らの名を走らせた。
さらさらとインクが紙を滑る。
その指先は、すでに呪いの影響でわずかに青白く、温度を失いかけていた。だが、文字の筆跡は驚くほどに美しく、揺るぎがない。
「私はランベール家において、一度たりとも必要とされたことはございませんでした。ですが閣下は、私に『半年間の領地事務』という明確な役割を提示してくださいました。働いた対価として衣食住を保証していただけるのであれば、私にとっては過分な待遇です」
ペンを置き、インクを吸取紙で押さえる。
エレナは両手で丁寧に契約書を持ち上げ、ヴォルフラムへと差し出した。
「半年間、命ある限り……いえ、契約の切れるその日まで、全身全霊をもってお仕えいたします。閣下の手を煩わせるような私情は一切挟みません。どうぞご安心くださいませ」
それは、夫への忠誠というよりは、雇い主に対する完璧な執事の礼節だった。
取り乱しもせず、涙も流さず、色香を売る気配すら微塵もない。
「…………」
ヴォルフラムは差し出された紙を無言で受け取った。
受け取る瞬間、彼の手袋越しに伝わる指先の冷たさに、ヴォルフラムの肩が一瞬だけ硬直した。
彼は契約書の署名を見下ろし、それからエレナの顔を、穴が空くほどに見つめた。
その瞳の奥に去来した感情を、エレナは読み取ることができなかった。軽蔑だろうか、あるいは呆れだろうか。
「……長旅で疲れているだろう」
やがて、ヴォルフラムは感情を削ぎ落とした硬い声で言った。
「寝室はこの部屋を使え。私は執務室の仮眠室で寝る。明日の朝八時に執務室へ来い。領内の兵站記録と物資の帳簿をすべて引き渡す。音を上げるなら今のうちだ」
「かしこまりました。明朝八時、正確に参上いたします」
エレナが完璧なカーテシーを返すと、ヴォルフラムは短く息を吐き、背を向けた。
重い足音が扉へ向かう。
だが、ノブに手をかけたところで、彼は立ち止まった。振り返ることはなく、ただ背中越しに、ぼそりと落とすように呟いた。
「……部屋の暖炉は止めさせるな。北の夜は、凍えるぞ」
「お心遣い、感謝いたします」
バタン、と重厚な樫の扉が閉ざされた。
廊下に遠ざかっていく軍靴の足音を聞きながら、エレナはふう、と小さく息を吐き出した。
「……厳しいけれど、とても公正な方」
それが、エレナが夫に対して抱いた最初の印象だった。
実家の父のように理由もなく怒鳴り散らすこともなければ、卑しい目で値踏みすることもない。
仕事を与え、条件を提示し、暖炉の薪を気遣ってくれる。それだけで、エレナにとってはこれまでの人生で出会った誰よりも優しい人に思えた。
「さて……時間はありませんね」
エレナは一人きりになった広い寝室で、持ち込んだ小さな革のトランクを開けた。
中に入っているのは、替えの質素なドレスが二着と、使い慣れた帳簿用の羽根ペン、そして一冊の真っ白なノートだけだ。
彼女はそのノートの表紙を開き、最初のページに綺麗な文字で書き込んだ。
『クロイツ辺境伯領・事務引継ぎ並びに身辺整理録』
目標は明確だった。
半年後、自分が死ぬその日までに、領地の事務を誰が見ても一目でわかる状態に完璧に整備すること。
自分が去った後、閣下が次の正妻を迎える際に、何一つ困ることがないよう、あらゆる業務マニュアルを作成しておくこと。
そして――自分が死んだ際、この屋敷に私物を一つも残さず、立つ鳥跡を濁さず消え去ること。
「半年間、全力でお役に立とう。それが、この命の最後の使い道だわ」
ふつふつと湧き上がる充実感に胸を弾ませながら、エレナは寝室の鏡の前へと立った。
身につけていた豪奢なウェディングドレスの背の編み上げを、冷たくなった指先で器用に解いていく。
幾重もの絹が滑り落ち、白い肌が冷気に晒された。
鏡に映った自分の身体を見て、エレナは静かに目を伏せる。
左の鎖骨の下から、胸の中央へ向かって――。
黒く、硬質にひび割れた『石の茨』のような呪紋が、脈打つ心臓のすぐ上まで伸びていた。
触れると、そこだけが氷のように冷たく、皮膚の感覚がない。
石化は、すでに胸全体の三分の一に達していた。
時折走る、心臓を針で刺されるような鋭い痛み。神殿の司教の予言通り、この茨が心臓を完全に包み込んだ時、彼女の血は止まり、命は石となって砕け散る。
(あと、半年)
エレナはそっと、その黒い痣の上に手を当てた。
痛みは確かにある。死への恐怖が、全くないと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に「半年間の居場所」を得られた安堵のほうが、今の彼女にはずっと大きかった。
ドレスを脱ぎ捨て、質素な部屋着に着替えたエレナは、暖炉の火に手をかざして指先を温めた。
明日の朝八時。領地の帳簿との戦いが始まる。
閣下の期待を裏切らないよう、今夜はしっかりと休まなければならない。
エレナは天蓋付きの大きなベッドに潜り込み、毛布を引き上げて、久しぶりに安らかな眠りへと落ちていった。
***
同じ時刻。
城の最上階にある執務室では、荒れ狂う猛吹雪の音が窓を叩いていた。
「……っ、くそが……!」
ダンッ、と重い拳が執務机を殴りつけた。
書類が舞い散り、インク瓶が激しく揺れる。
机の前に立ち尽くしていたのは、ヴォルフラムだった。
初夜の寝室で見せた「氷血公」の冷徹な仮面は、そこには欠片も残っていなかった。
彼は乱れた前髪を乱暴にかきむしり、激しい苦渋と焦燥に顔を歪めていた。
「なぜ笑う……? なぜ、あんな死人のような目で……私に感謝などするんだ……!」
彼の脳裏に焼き付いて離れないのは、エレナのあの微笑みだった。
離縁を突きつけられ、愛さないと宣告され、過酷な労働を命じられたというのに、彼女はまるで極上の救いでも与えられたかのように笑ったのだ。
ヴォルフラムは震える手で、胸元から一通の極秘調査書を取り出した。
そこには、王都の密偵が命がけで探り出した、エレナ・ランベールの真実が記されていた。
『対象:エレナ・ランベール。心核石化の呪詛を宿し、余命は長くとも半年。実家は多額の結納金を目的に婚姻を強行。長年の虐待の疑いあり』
「半年……」
ヴォルフラムは呪わしいその数字を、血を吐くような思いで噛み締めた。
「半年後に離縁だ」と言ったのは、彼女を追い出すためではない。
エレナの体を蝕む古代呪詛――『浸蝕の呪い』には、恐るべき特性があった。
『宿主が他者から向けられた強い好意、愛情、情念を自覚した時、呪紋はその感情を糧とし、心核への侵食速度を十倍近くまで跳ね上げる』
今は、愛していると悟られてはならないのだ。
抱きしめることも、慈しみを言葉にすることもできない。強い好意として受け取られれば、それだけで石化が致命的な速度へ跳ね上がる恐れがある。
しかも呪術師の報告には、理由を説明して「あなたを守るために冷たくしている」と知らせることさえ、相手の愛情を自覚させる危険があるとあった。
だからこそヴォルフラムは、自らを「冷酷な夫」と偽るしかなかった。
憎まれてもいい、軽蔑されてもいい。情の通わぬ契約関係という冷たい氷の檻に彼女を閉じ込め、呪いの進行を極限まで遅らせる。
そしてその半年という猶予の間に――。
ヴォルフラムは机の上に広げられた、極北の禁忌地帯を描いた羊皮紙の地図を睨みつけた。
「古代遺跡の最奥……『不死鳥の心臓』。あれさえ手に入れば、お前の呪いは完全に消滅する」
呪いを解く。
そして自由の身となった彼女に、莫大な財産と、自分の庇護を離れても生きていけるだけの選択肢を渡す。
その上で、もし彼女自身が北に残ることを望んでくれるなら、今度こそ契約ではなく、自分の意思で求婚する。
妻として迎えたのも、父親の支配から法的に切り離し、実家へ連れ戻されない立場を作るためだった。
かつて幼き日の戦場で、名も知らぬ少女に命を救われて以来、それがヴォルフラムの抱き続けてきた唯一の誓いだった。
「半年待っていろ、エレナ。必ず……必ずお前を救ってみせる」
だが、ヴォルフラムはまだ知らなかった。
彼が命を賭して彼女を生かそうとしているその同じ時、
エレナは「半年後、自分がいなくなっても誰にも迷惑を残さないための準備」を、笑顔で始めたということを。




