第58帳 江戸の鷹、初めて描かる
土岐頼次は、しばらく江戸へ戻らなかった。
上総へ戻ったのである。
頼次は、上総の土岐為頼のもとに身を寄せていた。
同じ土岐の名を持つ者のもとで、客分のように扱われていたらしい。
森蘭丸は、その話を聞いて少し安堵した。
「上総なら、江戸から遠すぎませぬね」
多米殿は頷いた。
「はい。戻る気があれば、戻れます」
「戻る気がなければ」
「そのまま怒って終わります」
蘭丸は、遠い目をした。
できれば、その方が楽かもしれない。
だが、そうはいかなかった。
数日後、頼次は戻ってきた。
しかも、一人ではなかった。
若い男を連れている。
まだ、顔に幼さが残っている。
だが、目だけは妙に鋭い。
頼次は、江戸礼式取次に入るなり、硬い声で言った。
「頼次、戻った」
蘭丸は頭を下げた。
「お戻りにございますか」
「美濃旧縁の聞書も持ってきた」
そう言って、頼次は紙束を置いた。
多米殿の目が光る。
美濃旧臣の名。
寺社の名。
父・頼芸の頃に出入りした者。
土岐の名を今も覚えている者。
逆に、頼芸の名を嫌う者。
粗い。
抜けもある。
だが、空ではない。
頼次は、少し悔しそうに続けた。
「それと」
若い男を前へ出した。
「息子の頼高だ」
蘭丸は、その若者を見た。
「頼高殿」
頼高は、ぎこちなく頭を下げた。
「土岐頼高にございます」
頼次は、長可の方を見た。
「わしは描けぬ。だが、息子は描く」
森長可の目が、ぱっと輝いた。
「ならば、描け」
◇
またである。
蘭丸は頭を抱えた。
「兄上、いきなりでございますか」
長可は当然のように言った。
「土岐が息子を連れてきた。描くと言った。ならば描けばよい」
「それはそうですが」
頼次は唇を噛んでいた。
前回、長可に「鷹を描け」と言われ、何も出せずに帰った。
その辱めを忘れていなかったのだろう。
だが、今度は空手ではない。
聞書と、息子を連れてきた。
今川氏真も座に入っていた。
氏真は、頼次へ静かに言った。
「頼次殿。まず聞書をお預かりします」
「うむ」
「そして、頼高殿の絵も見せていただきましょう」
頼次は、少しだけ顔を上げた。
「息子は、父とは違う」
長可が言った。
「それは見れば分かる」
頼次が睨んだ。
「そなたは何でも見れば済むのか」
「見えぬものを持ってくる方が悪い」
蘭丸は慌てた。
「兄上!」
可隆が静かに言った。
「長可、黙れ。今日は描いてもらう日だ」
「分かった」
珍しく、長可は黙った。
鷹を見るためである。
◇
鷹を描く場は、鞠庭の端に設けられた。
公家宿の近くである。
紙。
筆。
墨。
薄い色。
水。
重し。
頼高は、紙の前に座ると、しばらく動かなかった。
江戸の者が見ている。
黒菱衆もいる。
町人もいる。
氏真もいる。
長可も腕を組んでいる。
父の頼次は、後ろで息を詰めていた。
頼高は、一度だけ深く息を吸った。
そして、筆を置いた。
最初の線は、細くなかった。
むしろ、荒い。
都の座敷に飾られるような、静かな鷹ではない。
羽は強い。
首は鋭い。
目は、こちらを見ている。
爪は、紙の上から出てきそうだった。
蘭丸は、思わず黙った。
上品ではない。
だが、弱くない。
頼高は、迷いながらも描き進めた。
羽を重ねる。
目を入れる。
爪を足す。
止まり木を置く。
最後に、墨を少し強くした。
鷹が、そこに立った。
◇
しばらく、誰も声を出さなかった。
最初に口を開いたのは、長可だった。
「鷹だな」
蘭丸は反射で言った。
「それは見れば分かります」
長可は続けた。
「強そうだ」
頼高の肩が、少しだけ揺れた。
頼次は、長可を見た。
「それだけか」
「それだけでよいだろう」
「よくない!」
頼次は怒りかけたが、氏真が笑って止めた。
「頼次殿。森長可殿の『強そう』は、かなりの褒め言葉にございます」
可隆も頷いた。
「そうだな」
蘭丸も頷いた。
「そうでございますね」
頼次は、納得いかない顔をしていた。
だが、頼高は少しだけほっとしているようだった。
氏真は、鷹の絵に近づいた。
「都風ではございませぬな」
頼次の顔が強張る。
だが、氏真は続けた。
「しかし、江戸には合います」
蘭丸は聞き返した。
「江戸に」
「はい」
氏真は、鷹の目を見て言った。
「駿府の絵は、座敷で見せるもの。江戸の絵は、町で人を止めるもの。この鷹は、町で人を止めます」
多米殿の筆が、即座に動いた。
「町で人を止める絵」
「多米殿、そこですか」
「大事にございます」
◇
多米殿は、絵を商いの目で見た。
蘭丸は嫌な予感がした。
やはり、当たった。
「絵で品が分かれば、文字を読めぬ者にも売れます」
多米殿は真面目に言った。
「絵は、目で読む帳面にございます」
蘭丸は、深く息を吐いた。
「また帳面ですか」
「はい。ただし、今回は絵の帳面にございます」
氏真は、少し楽しそうに頷いた。
「よろしゅうございますな」
頼次は驚いた。
「土岐の鷹を、商いに使うと言うのか」
多米殿は首を振った。
「すぐに使うとは申しませぬ。まず、江戸絵所を置きます」
「絵所」
「はい。頼高殿の鷹を初例とし、江戸の品、店、荷、道を絵にする者を集めます」
蘭丸は、そこで少し理解した。
江戸には、すでに多くの品がある。
冷やし胡瓜。
南蛮芋蜜掛け。
丸芋薄揚げ。
江戸だれ。
焼きイカ。
湯屋。
酒町。
風月町。
御台様御選びの品々。
だが、文字を読めぬ者も多い。
遠くへ送る時、品の姿が伝わらぬこともある。
絵があれば、分かる。
店の看板。
品の見本図。
荷の扱い図。
道案内。
贈答の添え絵。
江戸の絵は、ただ飾るだけではない。
人を止め、品を知らせ、荷を動かす。
◇
頼次は、まだ不満そうだった。
「土岐を絵師扱いするのか」
氏真は、静かに頼次を見た。
「頼次殿。土岐の家督は、すでに頼道殿の筋に座がございます」
頼次の顔が固まった。
「それは、文にもあった」
「はい。頼道殿、濃乃殿、三郎丸様、四郎丸様。その道を揺らすことは、武田家中の奥を揺らすことになります」
頼次は唇を結んだ。
氏真は続けた。
「されど、頼芸公より続く鷹の名は、別の座を得られましょう」
「別の座」
「はい。土岐の家督ではなく、土岐の絵。美濃の旧縁ではなく、江戸の目を開く絵」
頼次は、頼高の絵を見た。
鷹は、紙の中でこちらを見ている。
氏真は、少し声を低くした。
「家を失った名を、何に変えるかです。所領に変えれば争いになります。絵に変えれば残ります」
頼次は、しばらく黙った。
今川氏真の言葉は、重い。
氏真もまた、家を失った男である。
だからこそ、失った家の名をどう残すかを知っている。
長可が横から言った。
「鷹が描けるなら、よいではないか」
頼次は怒鳴った。
「そなたは最初からそればかりだな!」
蘭丸は言った。
「兄上にしては、一貫しております」
可隆も頷いた。
「珍しくな」
長可は不満そうだった。
「褒めておるのか」
「少しだけ」
◇
江戸絵所の話は、すぐに広がった。
菱屋が最初に食いついた。
「品の絵があれば、遠くの店にも伝えやすい」
酒町も来た。
「焼きイカの看板絵が欲しい」
湯屋町も来た。
「湯屋の絵なら、旅人が分かりやすい」
御台様御選びの店も来た。
「品目絵があれば、奥向きへ見せられます」
多米殿は、次々に控えた。
品見本図。
看板絵。
荷扱い図。
道案内絵。
御台様御選び品目絵。
菱屋見本絵。
酒町肴絵。
湯屋案内絵。
風月町の表絵。
公家向け礼絵。
武家向け鷹絵。
蘭丸は呟いた。
「一枚の鷹から、ずいぶん広がりましたね」
多米殿は答えた。
「絵は広がります」
「言葉よりも?」
「はい。文字を読めぬ者にも届きます」
氏真が言った。
「ただし、絵にも格が要ります」
蘭丸は氏真を見た。
「やはり、そこへ戻りますか」
「戻ります」
氏真は、鷹の絵を示した。
「本絵。写し。看板用。見本用。贈答用。これらを混ぜれば揉めます」
頼次が、即座に言った。
「土岐の鷹を酒屋の看板にするな」
酒町の者が、少し残念そうな顔をした。
多米殿は、まったく怯まなかった。
「では、鷹そのものは武家向けといたしましょう。酒町には、焼きイカの絵を別に描かせます」
頼次は少しだけ安心した。
だが、多米殿は続けた。
「ただし、鷹の写しは、格を分けて扱います」
「写しならよいという話ではない」
氏真が穏やかに言った。
「写しを売るなら、格を分けましょう」
頼次は頭を押さえた。
「皆、売る方へ行く」
蘭丸は深く頷いた。
「江戸でございますので」
◇
頼高は、次に胡瓜を描かされた。
本人は戸惑っていた。
「鷹の次に、胡瓜でございますか」
多米殿は真面目に言った。
「夏口の大事な品にございます」
頼高は、少し困った顔で胡瓜を見た。
長可が横から言った。
「強そうに描け」
蘭丸は即座に言った。
「胡瓜は強くなくてよろしい」
「水の野菜だぞ。強い」
「そういう強さではございませぬ」
頼高は、笑いをこらえながら筆を取った。
胡瓜は、青く、みずみずしく描かれた。
切り口も描く。
塩を振る様子も描く。
桶に冷やされているところも描く。
見た者が言った。
「冷たそうだ」
多米殿が頷いた。
「よい絵にございます」
蘭丸も思った。
この絵は、人を止める。
鷹とは違う。
だが、確かに江戸の絵だった。
◇
夕刻、江戸絵所の仮定めが作られた。
江戸絵所控え。
土岐頼高、初例、鷹を描く。
土岐頼次、美濃旧縁聞書を持参。
頼芸筋、家督の座にあらず。
土岐の鷹絵、別の座を得る。
駿府の絵は、座敷で見せるもの。
江戸の絵は、町で人を止めるもの。
絵は、目で読む帳面にございます。
品見本図、看板絵、荷扱い図、道案内絵を整えるべし。
本絵、写し、看板用、見本用、贈答用を分けるべし。
土岐の鷹を酒屋看板に用いるべからず。
焼きイカは、焼きイカとして描くべし。
森長可様、頼高殿の鷹を強そうと評す。
蘭丸は、最後の行を見て言った。
「兄上の褒め言葉が正式に残りますか」
多米殿は頷いた。
「初例にございます」
頼高は、少しだけ恥ずかしそうだった。
頼次は複雑な顔をしていた。
嬉しい。
悔しい。
納得できない。
だが、息子の絵が認められたことは、否定できない。
氏真は、頼次へ言った。
「頼次殿」
「何だ」
「いつか三郎丸様が土岐を継がれる時、頼高殿の鷹がその席を飾ることもございましょう」
頼次は、はっとした顔をした。
「頼芸筋の鷹が、頼武筋の土岐継承を飾るというのか」
「はい」
「それで、我らは残るのか」
「残り方の一つにございます」
頼次は、何も言わなかった。
ただ、頼高の描いた鷹を見た。
◇
夜、蘭丸は江戸絵所の前に立った。
まだ仮の場所である。
筆も少ない。
紙も足りない。
絵師も頼高一人に近い。
だが、始まりはあった。
鷹。
胡瓜。
焼きイカの下絵。
湯屋の暖簾絵。
菱屋の品見本。
江戸に、また新しいものが生まれた。
飯で人を集めた。
酒で夜を作った。
湯で人を留めた。
礼で座を置いた。
そして今、絵で人の目を止めようとしている。
土岐の名は、所領を求めれば火になった。
だが、鷹を描けば、江戸の華になった。
蘭丸は、頼高の鷹を見た。
強そうだ。
長可の言葉は雑だったが、間違ってはいない。
その鷹は、江戸の町へ向けて目を光らせていた。
多米殿が横に来て、静かに言った。
「江戸は、絵も使います」
「はい」
「文字を読めぬ者にも、荷を動かします」
「はい」
「そして、古い名にも働き場を作ります」
蘭丸は頷いた。
上総から来た頼次は、家督を得たわけではない。
だが、息子の絵によって、土岐頼芸の名は別の座を得た。
それは、頼次にとって望んだ形ではなかったかもしれない。
しかし、消えるよりはずっとよい。
その時、長可が焼きイカの下絵を見て言った。
「このイカは弱い」
頼高が驚いた顔をした。
「弱い、でございますか」
「もっと焼け。もっと匂いそうに描け」
蘭丸は叫んだ。
「絵から匂いは出ませぬ!」
氏真が横で笑った。
「江戸の絵は、いずれ匂いまで描こうとするかもしれませぬな」
多米殿は、すぐに書いた。
焼きイカ絵、匂いを感じさせること。
蘭丸は、また頭を抱えた。
江戸絵画は、どうやら最初から大変な道へ進みそうであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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