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第57帳 鷹を描けぬ土岐殿

 冷やし胡瓜が江戸に夏を呼んだころ、妙な客がやって来た。

 武者ではない。

 商人でもない。

 公家でもない。

 だが、名乗りは重かった。

「土岐頼次」

 その男は、古い家の名を背負うようにして、江戸礼式取次へ現れた。

 土岐頼芸の子。

 美濃守護家の血を引く者である。

 森蘭丸は、その名を聞いた瞬間、嫌な予感がした。

 美濃は、武田が押さえている。

 しかも、土岐の名はすでに武田家中にある。

 土岐頼武の末である土岐頼道は、武田の高家として仕えている。

 頼道の一人娘、濃乃は御屋形様、武田義信の側室に入っている。

 濃乃の子である三郎丸と四郎丸は、土岐の血を継ぐ男子であった。

 いずれ三郎丸が元服すれば、土岐を継ぐ。

 その道筋は、すでに武田の中で置かれている。

 そこへ、頼芸の子が来た。

 軽く扱えば礼を損なう。

 重く扱えば、奥へ刺さる。

 蘭丸は、ひとまず今川氏真と多米殿を呼んだ。

     ◇

 頼次は、座に着くなり言った。

「武田家中に、土岐頼武の末がおると聞いた」

 蘭丸は慎重に答えた。

「土岐頼道殿のことでございましょう」

「その頼道とやらは、頼武の筋であろう。頼武は、父・頼芸と争った筋。美濃土岐の正統を名乗るなら、我ら頼芸の筋を差し置くことはできまい」

 蘭丸は、さらに嫌な予感を強めた。

 これは、美濃だけの話ではない。

 濃乃殿に刺さる。

 三郎丸様に刺さる。

 四郎丸様にも刺さる。

 そして、御屋形様の奥向きに刺さる。

 頼次は、まだ続けた。

「我らこそ、美濃土岐の正当なる血筋である」

 言葉は立派だった。

 だが、蘭丸には、その言葉の先が見えない。

 所領を求めるのか。

 官途を求めるのか。

 頼道を退けよと言うのか。

 三郎丸様の道を塞ごうとしているのか。

 頼次は、名だけを置いた。

 その名をどう使うかは、まだ言わない。

 多米殿の筆が、静かに動いている。

 氏真は、黙って頼次を見ていた。

     ◇

 そこへ、森長可が来た。

 来てしまった、と蘭丸は思った。

 長可は、頼次を見た。

「土岐か」

 頼次は少し顔を上げた。

「いかにも」

 長可は腕を組んだ。

「絵を描け」

 座が凍った。

 蘭丸は叫んだ。

「兄上!」

 頼次は目を見開いた。

「何のために」

 長可は当然のように言った。

「土岐頼芸といえば、土岐の鷹ではないか。描け」

 頼次の顔が赤くなった。

「わしは父とは違う」

「ならば、何ができる」

 長可の声は荒くない。

 ただ、真っ直ぐだった。

「血筋を持って来たのだろう。ならば、その血筋で何ができるか見せよ」

「我らは美濃土岐の正統である」

「それは聞いた」

 長可は、頼次を見下ろした。

「では、三郎丸様の前に何を出す」

 頼次の顔色が変わった。

 蘭丸も、息を呑んだ。

 三郎丸。

 御屋形様の三男。

 濃乃殿の子。

 土岐頼道の外孫。

 将来、土岐を継ぐであろう子。

 長可は、そこを雑に、しかし正面から突いた。

「土岐頼道殿には濃乃殿がおる。濃乃殿には三郎丸様と四郎丸様がおる。土岐の跡は空いておらぬ」

 頼次は拳を握った。

「我ら頼芸の筋を無視するというのか」

「無視はせぬ。だから聞いておる」

 長可は一歩前へ出た。

「三郎丸様の前に、何を出す。鷹か。名簿か。美濃の旧臣か。寺社の縁か。何もないなら、話にならん」

「無礼な」

「無礼でも何でもよい。美濃を動かす話なら、鷹一羽より重いものを持ってこい」

 蘭丸は、頭を抱えた。

「兄上、言葉が荒すぎます」

 長可は言った。

「荒く言わねば、分からぬ顔をしておる」

 頼次は立ち上がった。

「この辱め、忘れぬ」

 長可は鼻で笑った。

「忘れぬなら、次は何か持って来い」

 頼次は何も返さず、座を去った。

     ◇

 頼次が去った後、蘭丸は長可に詰め寄った。

「兄上、あれはあまりに無礼でございます!」

 長可は平然としていた。

「名で来たのだ。ならば、名で何ができるか見せればよい」

「それはそうですが!」

「三郎丸様の前に立つなら、なおさらだ」

 蘭丸は言葉を止めた。

 長可の言い方は、ひどい。

 だが、ここでも中身は間違っていない。

 土岐の家督は、ただの古い名ではない。

 すでに、頼道から濃乃へ。

 濃乃から三郎丸、四郎丸へ。

 武田の中で、道が置かれている。

 そこへ頼次が割り込むなら、血だけでは足りない。

 何を差し出すのか。

 それを問わねばならなかった。

 可隆が横から言った。

「長可」

「何だ、兄上」

「言い方は悪い」

「中身は」

「かなり厳しいが、正しい」

 蘭丸は顔を覆った。

「そこが困るのです」

 氏真は、静かに笑っていた。

「森長可殿は、時に刃のように物を切りますな」

 蘭丸は言った。

「斬りすぎでございます」

「ですが、切り口は見えました」

 氏真は、多米殿へ目を向けた。

「多米殿も、そう思われましょう」

 多米殿は頷いた。

「はい。頼次殿の言葉は、美濃へ刺さるだけではございませぬ。奥へ刺さります」

「奥へ」

「濃乃殿、三郎丸様、四郎丸様にございます」

 蘭丸は深く頷いた。

 そこを曖昧にしてはならない。

     ◇

 多米殿は、すぐに帳面を広げた。

 土岐筋控え。

 まず、土岐頼武の末、土岐頼道。

 武田高家としてあり。

 頼道の一人娘、濃乃。

 御屋形様の側室としてあり。

 濃乃の子、三郎丸、四郎丸。

 土岐の跡を継ぐべき筋。

 次に、頼芸筋。

 土岐頼次。

 さらに、美濃の旧臣。

 寺社。

 奉公衆。

 公家縁故。

 かつて土岐に仕えた者。

 土岐の名を今も覚えている者。

 蘭丸は、少しずつ理解した。

 頼次を土岐の正統候補として扱ってはならない。

 それは、三郎丸様の道を揺らす。

 だが、頼芸筋を無視してもならない。

 それは、美濃の古い名分を、武田の外へ追いやることになる。

 だから、座を分ける。

 土岐の家督は、頼道、濃乃、三郎丸の筋に置く。

 頼次は、頼芸筋の旧縁を知る者として扱う。

「美濃旧縁聞書、でございますか」

 多米殿は頷いた。

「はい。取次では太すぎます。聞書ならば、細い口で済みます」

 蘭丸は納得した。

 頼次に太い口を与えれば、三郎丸様の道を塞ぐ。

 だが、細い口なら、美濃の旧縁を拾える。

 氏真も言った。

「頼次殿は、父と違うと申されました」

「はい」

「ならば、違う働きを示さねばなりませぬ」

「働き」

「ええ。鷹を描かぬなら、何を描くか」

 長可が言った。

「美濃の名だろう」

 氏真は笑った。

「おおむね、その通りにございます」

 蘭丸は思わず言った。

「兄上の言葉が、なぜか整ってしまいました」

     ◇

 氏真は、頼次を追わなかった。

 そのかわり、文を用意させた。

 土岐頼次殿へ。

 美濃土岐の名は軽からず。

 されど、土岐の家督は空いておりませぬ。

 土岐頼道殿は武田高家としてあり。

 その娘、濃乃殿は御屋形様の側室にあり。

 三郎丸様、四郎丸様へ土岐の血は続いております。

 頼芸筋を軽んずるものにはあらず。

 されど、頼次殿を土岐家督の筋として扱えば、すでに置かれた座を乱します。

 頼次殿に求むるは、美濃旧縁の聞書にございます。

 美濃旧臣、寺社、奉公衆、公家縁故、土岐旧縁の名を示されたい。

 頼芸公の名を知る者ならば、その縁をもって美濃を鎮める助けとなるべし。

 所領を求むる前に、名を働きへ変えられよ。

 駿府高家所、ならびに江戸礼式取次にて、系図、文書、縁故を改める。

 今川氏真。

 蘭丸は、その文を見て言った。

「はっきり書かれましたね」

 氏真は静かに頷いた。

「曖昧にすれば、頼次殿のためにもなりませぬ」

「頼次殿のため」

「はい。望みを誤れば、また家を失います」

 その言葉は、氏真だからこそ重かった。

 氏真は、かつて今川家を失った男である。

 だからこそ、家を失った名が、何を求めれば火になるかを知っている。

 長可は文を見て言った。

「長いな」

 可隆が答えた。

「お前の言葉をそのまま出せば、短くて戦になる」

「鷹を描け、だけでか」

「お前が言うと、なる」

 多米殿は、別の控えを作っていた。

 土岐家督筋。

 頼道殿、濃乃殿、三郎丸様、四郎丸様。

 頼芸筋、頼次殿。

 家督筋にあらず、美濃旧縁聞書役候補。

 太き口を与えるべからず。

 細き口にて、旧縁を拾うべし。

     ◇

 その夜、長可は酒町で焼きイカを食っていた。

 蘭丸は、まだ気になっていた。

「兄上」

「何だ」

「土岐頼次殿に、なぜ鷹を描けと」

「土岐頼芸の名を出すなら、鷹だろう」

「それだけでございますか」

「それだけではない」

 蘭丸は少し驚いた。

 長可は、焼きイカを噛みながら続けた。

「血だの正統だのと言う者は、多い。だが、血は見えぬ」

「はい」

「鷹を描けば、見える。名簿を出せば、見える。兵を連れてくれば、見える。米を出せば、見える。道を知っていれば、見える」

「見えるものを出せ、と」

「そうだ」

 長可は、焼きイカの串を置いた。

「三郎丸様は子だ。だが、濃乃殿の子だ。頼道殿の孫だ。御屋形様の子でもある。その前に立つなら、見えるものを出さねばならぬ」

 蘭丸は黙った。

 乱暴だ。

 だが、長可は長可なりに筋を持っていた。

「では、頼次殿が次に何かを持ってくれば」

「話を聞く」

「鷹でなくても?」

「強いものならな」

「強いもの」

「役に立てば強い」

 蘭丸は、少しだけ笑った。

「兄上にしては、ずいぶん政治的でございますね」

 長可は嫌そうな顔をした。

「政治ではない。飯と同じだ」

「なぜ飯に」

「食えぬものを出されても困る。食えるものを出せという話だ」

 蘭丸は、妙に納得してしまった。

     ◇

 数日、頼次は戻らなかった。

 だが、その間に、多米殿は土岐の控えを集め始めた。

 頼道の系図。

 濃乃殿の輿入れの文。

 三郎丸様、四郎丸様の出生に関わる控え。

 美濃の旧臣の名。

 寺社の縁。

 公家との文のやり取り。

 美濃で、土岐の名をまだ使いたがる者。

 逆に、土岐の名を嫌う者。

 江戸は、遠い美濃の火種を帳面に移していった。

 蘭丸は言った。

「江戸にいて、美濃の話まで扱うのですね」

 多米殿は答えた。

「江戸は、人と荷が集まる町にございます。人が集まれば、古い名も集まります」

「厄介ですね」

「はい。ですが、集まるなら、控えられます」

 氏真も言った。

「名は、放っておけば勝手に歩きます。ならば、座を与えた方がよい」

「座」

「ええ。土岐の名にも、座が要ります。ただし、頼次殿の座は、家督の座ではございませぬ」

 蘭丸は頷いた。

「美濃旧縁聞書の座」

「はい」

 座とは、腰を下ろす場所ではない。

 格の置き場である。

 土岐という古い名にも、置き場が必要だった。

     ◇

 その日の夕刻、頼次から返書が届いた。

 短い文だった。

 美濃旧縁の名、思い出せる限り書き出す。

 父とは違う働きを示せとの言葉、承知した。

 土岐の家督については、なお思うところあり。

 されど、まずは聞書を持参する。

 ただし、鷹は描けぬ。

 蘭丸は読み上げて、少し笑いそうになった。

「最後に、鷹は描けぬと」

 長可が聞いて言った。

「描けぬのか」

「まだそこですか」

「大事だ」

 氏真は、文を見て静かに言った。

「戻りますな」

「頼次殿が」

「はい。おそらく、何かを連れて」

 多米殿が筆を止めた。

「何か」

 氏真は微笑んだ。

「人か、物か、名か。いずれにせよ、今度は空手では来ますまい」

 長可は、焼きイカを置いた。

「ならば、話を聞く」

 蘭丸は、少しだけ頼次に同情した。

 最初は、名だけを持って来た。

 それを長可に斬られた。

 氏真に整えられ、多米に細い口へ通された。

 次に来る時、頼次は何かを持って来なければならない。

 土岐の血を、働きに変える何かを。

     ◇

 夜更け、多米殿は帳面を閉じた。

 土岐筋控え。

 土岐頼道殿、武田高家。

 濃乃殿、御屋形様側室。

 三郎丸様、四郎丸様、土岐家督筋。

 頼芸筋、土岐頼次来訪。

 頼次殿、美濃土岐正統を主張。

 森長可様、鷹を描けと仰せ。

 頼次殿、描けず。

 今川氏真殿、家督の座にあらず、美濃旧縁聞書の座を示す。

 頼次殿、聞書持参の意あり。

 土岐の名、所領に戻せば火。

 細き口に入れれば火消し。

 蘭丸は最後の二行を見て、静かに頷いた。

「土岐の名、所領に戻せば火。細き口に入れれば火消し」

「はい」

「江戸は、火種まで帳面に入れるのですね」

 多米殿は答えた。

「入れねば、どこかで燃えます」

 外では、夏の夜風が吹いていた。

 酒町の声。

 湯屋の湯気。

 風月町の歌。

 公家宿の灯。

 胡瓜をかじる音。

 その中に、遠い美濃の古い名が一つ、江戸へ入った。

 土岐。

 それは、ただの古い名ではない。

 使い方を誤れば、美濃を揺らす名である。

 奥を傷つけ、三郎丸様の道を塞ぎかねぬ名である。

 だが、使い方を変えれば、美濃を鎮める名にもなる。

 頼次は、いったん帰った。

 だが、帰る背は敗者だけのものではなかった。

 何かを思い出そうとする者の背でもあった。

 蘭丸は、帳面を閉じて呟いた。

「次は、何を持って来るのでしょうね」

 長可は、当然のように言った。

「鷹だろう」

 蘭丸は、もう何も言わなかった。




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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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