第56帳 胡瓜は冷やして夏を呼ぶ
大根騒ぎが落ち着くころ、江戸に夏が来た。
梅雨の雨は、まだ名残を残している。
だが、昼の空気が変わった。
重い。
暑い。
汗が乾かない。
湯屋町では、湯上がりの者が外へ出て、すぐにまた汗をかいた。
酒町では、汁物の売れ行きが少し鈍った。
宿町では、朝の膳に出すものを変えたいという声が出た。
森蘭丸は、額の汗を拭いながら言った。
「多米殿」
「はい」
「夏でございますね」
「夏でございます」
「大根の次は、何が不足するのでしょう」
「不足ではございませぬ」
多米殿は、荷捌き場の方を見た。
「今度は、来ております」
「何が」
「胡瓜にございます」
◇
荷捌き場には、青い胡瓜が積まれていた。
大根ほど大きくない。
南蛮芋ほど重くない。
丸芋ほど腹にたまらない。
だが、青く、みずみずしい。
江戸の夏の空気の中で、その色だけが涼しく見えた。
長可が、胡瓜を一本取った。
「これは飯になるのか」
蘭丸は答えた。
「飯というより、口を涼しくするものでは」
長可は胡瓜をそのままかじった。
ぽきり、と音がした。
「水だな」
可隆が言った。
「野菜だ」
「水の野菜だ」
「間違いではないが、雑だ」
多米殿は頷いた。
「長可様のおっしゃる通り、夏には水のあるものが売れます」
蘭丸は驚いた。
「今のでよいのですか」
「はい。言い方はともかく、正しいにございます」
長可は得意げにもう一口かじった。
「塩が欲しい」
多米殿の筆が動いた。
「塩」
蘭丸は、その動きに嫌な予感を覚えた。
◇
最初に考えられたのは、露天であった。
暑い日、道を歩く者は喉が渇く。
湯屋帰りの者は、体が火照る。
酒町へ向かう前の者は、軽く口へ入れるものが欲しい。
鍛冶町の職人は、汗で塩が抜ける。
そこへ、冷えた胡瓜。
多米殿は言った。
「井戸水で冷やします」
蘭丸はすぐに聞いた。
「井戸へ直接入れるのですか」
「入れませぬ。桶を分けます」
「なぜです」
「飲み水の井戸を汚してはなりませぬ」
「なるほど」
「井戸水を汲み、冷やし桶へ入れます。胡瓜はそこで冷やします」
桶は日陰に置く。
直日に当てない。
冷やす桶と洗う桶を分ける。
泥付きの胡瓜を冷やし桶へ入れない。
売る前に塩を振る。
蘭丸は頷いた。
「露天では、一本で売るのですね」
「はい。切れば早く傷みます」
「丸ごと冷やし、塩を振って出す」
「それが早うございます」
長可が言った。
「よい。歩きながら食える」
可隆がすぐに言う。
「歩きながら刀を振るなよ」
「胡瓜を持っている時に振るか」
「お前なら分からぬ」
◇
試し売りは、湯屋町の近くの日陰で始まった。
深い桶に、井戸水を張る。
そこへ洗った胡瓜を沈める。
桶の周りには、濡れた布をかけた。
直に日が当たらぬよう、葦簀も立てる。
売り子が声を上げた。
「冷やし胡瓜、塩でどうぞ!」
最初に来たのは、湯屋帰りの人足だった。
「本当に冷えておるのか」
「井戸水で冷やしてございます」
一本受け取り、塩を振られ、かじる。
ぽきり。
人足の顔が変わった。
「うまい」
次の者も買った。
その次も買った。
湯屋帰りの者が、次々に足を止める。
「熱い湯のあとに、これか」
「飯ではないが、助かる」
「塩がよい」
蘭丸は見ていて言った。
「売れておりますね」
多米殿は頷く。
「夏は、冷えた水気と塩が売れます」
「飯ではなく」
「飯の前にも、飯の後にも売れます」
長可は、二本目を食っていた。
「これは飯ではない。だが、止まらぬ」
可隆が言った。
「止まれ」
◇
露天の次は、店であった。
宿町と酒町の店は、丸ごと一本ではなく、柵に切って出したいと言った。
「客席で出すなら、切った方が食べやすい」
「酒にも合う」
「塩だけではなく、味噌が欲しい」
多米殿は、信濃味噌の壺を見た。
「味噌だれにします」
蘭丸は聞いた。
「味噌だけではなく?」
「はい。味噌を少しの水でゆるめ、江戸薄だれを少し合わせます。好みで葱を刻んでもよいでしょう。ただし、夏は傷みに気をつけます」
胡瓜を柵に切る。
器に立てる。
横に味噌だれを置く。
酒町では、それがすぐに売れた。
「これは酒の間にちょうどよい」
「焼きイカのあとに口が冷える」
「丸芋薄揚げの塩気とも合う」
風月町でも、女衆が喜んだ。
「食べやすい」
「衣を汚しにくい」
「味噌だれを少しだけつけるのがよい」
公家宿では、氏真がそれを見て言った。
「切り方を揃えれば、膳にも乗せられます」
蘭丸は言った。
「胡瓜にも礼がございますか」
「ございます」
「もう驚きませぬ」
氏真は、少し楽しそうに笑った。
「青きものは、夏の膳に涼しさを添えます」
「言い方が上品でございますね」
「胡瓜も、言い方次第でございます」
◇
問題は、冷やし桶だった。
売れれば、誰でも真似をする。
井戸端に勝手に桶を置く者が出た。
泥付きの胡瓜をそのまま冷やす者が出た。
昨日の水を使い回す者が出た。
塩を強く振りすぎる者も出た。
蘭丸は顔をしかめた。
「早いですね」
多米殿は答えた。
「売れるものには、粗い真似が出ます」
湯屋町の者が訴えた。
「井戸端が混んでおります」
宿町の者も言った。
「水が濁ります」
酒町の者は言った。
「安く売る者が、ぬるい胡瓜を出しております」
長可が怒った。
「ぬるい胡瓜は許せぬ」
蘭丸は頷いた。
「そこは同意します」
多米殿は、すぐに定めを作った。
冷やし胡瓜を売る者は、冷やし桶を届けること。
井戸へ直接入れるべからず。
洗い桶と冷やし桶を分けること。
水は日に二度替えること。
日陰に置くこと。
泥付きは売る前に洗うこと。
塩は売る時に振ること。
切り売りは店内に限ること。
味噌だれは作り置きしすぎぬこと。
蘭丸は、定めを見て言った。
「胡瓜にも、ここまで」
「水を扱う商いにございます」
「水」
「夏の水は、銭にもなり、揉め事にもなります」
◇
さらに、井戸番が必要になった。
冷やし胡瓜のために水を汲む者。
湯屋へ水を運ぶ者。
宿町で使う者。
酒町の店で使う者。
公家宿の水を汲む者。
夏の江戸では、水の取り合いが起きる。
多米殿は言った。
「冷やし胡瓜の桶は、井戸を塞がぬ場所に置きます」
「はい」
「井戸番に、水汲みの順を見せます」
「はい」
「湯屋町と冷やし胡瓜の水汲み時をずらします」
「なるほど」
「水を使う商いが増えるなら、水の刻限も要ります」
蘭丸は、思わず笑った。
「湯屋の次は、胡瓜で水の刻限ですか」
「はい」
長可が言った。
「水なら、川にある」
可隆が即座に答えた。
「飲む水とは違う」
「冷やすだけなら」
「泥臭くなる」
長可は胡瓜をかじり、真面目に言った。
「それは駄目だ」
蘭丸は驚いた。
「兄上が味のために水を選んでおります」
可隆は頷いた。
「成長かもしれぬ」
◇
御台様も、冷やし胡瓜に反応した。
古河公方江戸屋敷で、胡瓜の柵切りに味噌だれが出されたのである。
御台様は一口食べて言った。
「夏の口に、よいですね」
義氏が、少し身構えた。
「買うのか」
「買うというより、夏の膳に入れます」
「それは買うのでは」
「入れます」
多米殿は、即座に書いた。
御台様御選び、夏口。
胡瓜柵切り、味噌だれ添え。
義氏は頭を抱えた。
「また夏口か」
蘭丸は小声で言った。
「前に多米殿が書いておりました」
「なぜ止めなかった」
「止まりませんでした」
御台様は、涼しい顔で続けた。
「露天の一本胡瓜は、男衆や旅人に向きます。けれど、奥向きでは切って出した方がよいでしょう。味噌だれは、少し甘めもよいかもしれませぬ」
多米殿の筆が走る。
奥向き、甘味噌だれ試すべし。
義氏は、遠い目をした。
「胡瓜まで、奥に入ったか」
氏真は穏やかに言った。
「夏の膳として、よろしゅうございます」
義氏は力なく言った。
「皆、味方にならぬ」
◇
酒町では、冷やし胡瓜が新しい肴になった。
焼きイカ。
丸芋薄揚げ。
江戸だれ揚げ。
イカ大根は暑い日には少し重い。
その間に、冷やし胡瓜。
塩で一本。
味噌だれで柵切り。
酒の合間に、ぽきりと鳴る。
長可は言った。
「これは戦のあとにもよい」
可成が頷いた。
「夏の番飯にも入るな」
多米殿は書いた。
黒菱衆夏番飯、胡瓜塩振り。
蘭丸は言った。
「番飯に冷やし胡瓜ですか」
「汗をかく者には塩が要ります」
「なるほど」
「ただし、胡瓜だけでは飯になりませぬ」
長可が頷いた。
「米も要る」
可隆が言った。
「ようやく当然のことを言った」
◇
冷やし胡瓜は、思ったより広がった。
湯屋帰りに一本。
酒町で一本。
道場帰りに一本。
宿の朝膳に柵切り。
奥向きの夏膳に味噌だれ。
黒菱衆の番飯に塩振り。
夏の始まりに、江戸の口が変わった。
熱い汁で体を温めた春から、
冷えた水気で口を整える夏へ。
蘭丸は、日陰の露天で胡瓜をかじった。
ぽきり。
冷たい。
塩が効いている。
体の奥にこもった熱が、少し抜ける気がした。
「これは、売れますね」
多米殿は頷いた。
「売れます」
「ただの胡瓜なのに」
「ただの胡瓜を、夏の口にしたからにございます」
◇
夕刻、多米殿は冷やし胡瓜の控えをまとめた。
江戸胡瓜口定め。
露天では、井戸水で冷やした胡瓜を丸ごと売るべし。
塩は売る時に振るべし。
冷やし桶は日陰に置くべし。
井戸へ胡瓜を直接入れるべからず。
洗い桶と冷やし桶を分けるべし。
水は日に二度替えるべし。
井戸番は水汲みの刻限を見るべし。
湯屋町の水汲みと重ねすぎるべからず。
店では、胡瓜を柵に切り、味噌だれを添えるべし。
味噌だれは作り置きしすぎるべからず。
奥向きには、甘味噌だれを試すべし。
黒菱衆夏番飯に、胡瓜塩振りを加えるべし。
ぬるい胡瓜を冷やし胡瓜と称するべからず。
初例、森長可様、胡瓜を水の野菜と評す。
御台様御選び、夏口に入る。
夏の始まり、胡瓜より知る。
蘭丸は最後の行を見た。
「夏の始まり、胡瓜より知る」
「はい」
「なんだか、少し風流でございますね」
氏真が横から言った。
「よい言葉です」
多米殿は頭を下げた。
「控えに残します」
長可は三本目の胡瓜をかじっていた。
「夏は、これだな」
可隆が言った。
「三本は食いすぎだ」
「大根より軽い」
「そういう問題ではない」
義氏は、御台様が甘味噌だれを試しているのを見て、静かに呟いた。
「夏口……」
蘭丸は、その肩を見て少し同情した。
江戸の夏は始まった。
大根で道を学び、雨で蔵を学び、胡瓜で水を学ぶ。
暑さは、人を止める。
だが、冷えた胡瓜は、人をまた歩かせる。
日陰の露天で、ぽきり、ぽきりと胡瓜の音が鳴る。
その音は、江戸に夏が来た音であった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
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『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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