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第55帳 大根は道で集めよ

 梅雨の雨が少し弱まったころ、江戸から大根が消えた。

 最初に気づいたのは、酒町の煮売りであった。

「大根がない」

 次に気づいたのは、湯屋町である。

「湯上がりの汁が薄い」

 その次に気づいたのは、宿町であった。

「朝の膳に、漬け大根が出せませぬ」

 そして最後に、森長可が気づいた。

「イカ大根はどうした」

 森蘭丸は、そこまで来てようやく事の大きさを知った。

「多米殿」

「はい」

「大根が、足りませぬ」

「足りませぬね」

「どれほど」

「江戸の飯が荒れるほどにございます」

 蘭丸は、大根を思い浮かべた。

 大根。

 ただの大根である。

 だが、江戸ではただの大根ではなくなっていた。

 イカ大根。

 汁物。

 漬物。

 煮売り。

 宿飯。

 酒町の小鉢。

 湯上がりの軽い膳。

 風月町の裏台所。

 黒菱衆の番飯。

 大根は、飯を支える。

 肉や魚ほど目立たない。

 南蛮芋蜜掛けほど喜ばれない。

 焼きイカほど人を止めない。

 だが、ないと困る。

 なくなると、すべての膳が少しずつ貧しくなる。

「例年なら、どうしていたのです」

 蘭丸が尋ねると、多米殿は帳面をめくった。

「冬の産地のものを使い切ったあとは、上野から細く入ります」

「細く」

「はい。多くはありませぬが、つなぎにはなります」

「今年は」

「遅れております。しかも少ない」

「なぜ」

「雨、道、江戸の食い過ぎにございます」

 蘭丸は、最後の言葉に黙った。

 江戸の食い過ぎ。

 たしかにそうである。

 酒町が食う。

 湯屋町が食う。

 宿町が食う。

 道場が食う。

 風月町が食う。

 古河公方江戸屋敷も食う。

 公家宿も食う。

 上杉がいた時にも食った。

 江戸は、人を集めた。

 そして今、その人の腹が大根を食い尽くしている。

     ◇

 最初に騒いだのは、宿町であった。

「漬け大根が出せませぬ」

「汁に入れるものがない」

「客に、また薄揚げを出すのかと言われました」

 次に酒町が騒いだ。

「イカ大根が出せませぬ」

「大根なしのイカ煮では、客が怒ります」

「汁だけではもたぬ」

 湯屋町も騒いだ。

「湯上がりに軽い汁が欲しいのです」

「丸芋ばかりでは重い」

 長可は、さらに騒いだ。

「大根を出せ」

 蘭丸は言った。

「兄上、出せと言われても」

「イカ大根は大根がいる」

「それは存じております」

「ならば集めろ」

「集められるなら、とっくに集めております」

 長可は腕を組んだ。

「米を食えばよい」

 可隆が即座に言った。

「米だけでは荒れる」

「腹は膨れる」

「膳が荒れると言っている」

 森可成が、静かに続けた。

「飯が荒れると、人が荒れる」

 その一言で、場が黙った。

 大根不足は、ただの献立の問題ではない。

 安く、量があり、誰でも食えるものが消える。

 それは、町の機嫌を悪くする。

 酒町の客は怒る。

 宿の客は不満を言う。

 人足は腹を立てる。

 番飯が細れば、黒菱衆も苛立つ。

 飯の不足は、槍より早く町を荒らす。

     ◇

 多米殿は、江戸中の大根を控えさせた。

 菱屋の蔵。

 宿町の樽。

 酒町の煮売り。

 湯屋町の裏台所。

 風月町の小竈。

 公方屋敷の台所。

 公家宿の膳所。

 残りは、思ったより少なかった。

 蘭丸は控えを見て、息を呑んだ。

「三日」

「はい」

「節約して、三日」

「はい」

「普通に使えば」

「明後日には荒れます」

 蘭丸は、多米殿を見た。

「これはまずいのでは」

「まずうございます」

 多米殿の顔は、いつも通り静かだった。

 だが、筆の速さが違う。

「急ぎ、御屋形様へ文を出します」

「吉田へ」

「はい。江戸の大根が切れると、町が荒れます」

 蘭丸は頷いた。

「大根で御屋形様へ文を」

「大根で町が荒れるなら、大根で文を出します」

「それもそうでございますね」

     ◇

 文は、急ぎ吉田へ走った。

 江戸、大根不足。

 冬の産地物、尽きる。

 上野よりの荷、遅れ、かつ少なし。

 宿町、酒町、湯屋町、番飯に影響あり。

 三日内に手を打たねば、飯荒れ、町荒れに及ぶ恐れあり。

 蘭丸は、文を見送った。

「大根不足で暴動とは、大げさでは」

 多米殿は首を振った。

「大げさではございませぬ」

「本当に」

「人は、腹が空いた時より、昨日まであったものが急になくなった時に荒れます」

 蘭丸は黙った。

 昨日まであった漬け大根。

 昨日まであった汁の具。

 昨日まであったイカ大根。

 それが急に消える。

 たしかに、怒りは起きる。

 まして江戸は、飯で人を集めた町である。

 飯で集めた町は、飯で怒る。

     ◇

 吉田からの返書は、早かった。

 義信の文である。

 江戸の大根不足、承知した。

 江戸だけで集めようとするな。

 江戸は食う口であり、集める口ではない。

 上野に集積場を作れ。

 上野を起点に、大根を集めよ。

 上野の村々、利根筋の荷、越後口へつながる荷を、まずそこへ寄せる。

 江戸へ直に流すな。細い道が詰まる。

 上野集積場は、大根だけの場にあらず。

 江戸からの荷、越後からの荷、信濃からの荷を積み替える場となる。

 乾き荷、濡れ荷、野菜荷、酒荷、紙荷を分けよ。

 上野の真田信綱には、こちらから話を通しておく。

 そちらで詰めよ。

 大根を侮るな。

 大根は、飯を支える。

 蘭丸は文を読み終え、しばらく黙った。

「御屋形様、大根でここまで」

 多米殿は深く頷いた。

「御屋形様は、腹の道を見ておられます」

「腹の道」

「はい。人の腹へ届かぬ荷道は、町を守れませぬ」

 森可成も文を読んだ。

「上野か」

「はい」

「江戸へ直に落とす道だけでは細い。上野で一度受ける。そこから江戸へ落とす。越後口ともつながる」

「さらに、越後と江戸の荷の積み替え場にも」

 可成は頷いた。

「よい。大根で北の道を太くする気だ」

 蘭丸は思わず言った。

「大根で」

「大根でだ」

     ◇

 すぐに、上野集積場の話が進められた。

 真田信綱へ文が走る。

 上野の大根を、村から江戸へばらばらに送るのではない。

 まず上野の集積場へ寄せる。

 量を控える。

 傷みを見る。

 束ね直す。

 大きさを分ける。

 江戸へ送るもの、宿町へ送るもの、酒町へ送るもの、漬けに回すものを分ける。

 上野の村々へも、別の文が走った。

 余り大根を買い上げる。

 ただし、根を傷めたものは早売り。

 太いものは煮物へ。

 細いものは漬物へ。

 葉付きは早く出す。

 葉を落とすものは別に束ねる。

 泥付きのまま運ぶものと、洗って出すものを分ける。

 蘭丸は、控えを見て言った。

「大根にも、これほど分け方があるのですね」

 多米殿は答えた。

「あります」

「太い、細い、葉付き、泥付き」

「はい」

「何だか、公家の座次より分かりやすいです」

「大根は文句を言いませぬ」

 蘭丸は頷いた。

「そこはありがたいですね」

 氏真が横から微笑んだ。

「ただし、置き方を誤ると傷みます」

「氏真殿、大根にも礼がございますか」

「ございます」

「あるのですか」

「包み、並べ、出す順。礼と大根は、少し似ています」

 蘭丸は、もう何でも似ているのだと思うことにした。

     ◇

 上野集積場の仮定めは、すぐに作られた。

 上野大根口。

 村々大根口。

 葉付き早荷口。

 漬け大根口。

 煮物大根口。

 江戸酒町向け。

 宿町向け。

 湯屋町向け。

 番飯向け。

 古河公方江戸屋敷向け。

 公家宿向け。

 そして、積み替え口。

 江戸から北へ送る荷。

 越後から来る荷。

 信濃から来る荷。

 上野で集める荷。

 それらを、ここで積み替える。

 多米殿は、絵図を広げた。

「上野は、大根のためだけに使うには惜しゅうございます」

 蘭丸は言った。

「御屋形様も、そうお書きでしたね」

「はい。大根を機に、北の荷道を作ります」

「大根を機に」

「はい。困りごとが大きいほど、道を作る口実になります」

 風魔小太郎が、どこからか言った。

「道ができれば、人も動く」

 蘭丸は、少しだけため息をついた。

「風魔殿も行かれますか」

「見る」

「大根を」

「大根を見るのではない。道を見る」

「でしょうね」

     ◇

 だが、江戸にはすぐ大根が要る。

 上野集積場が整うまで、三日では足りない。

 多米殿は、江戸の残り大根を配分した。

 一つ、宿町の朝膳を薄くする。

 漬け大根は小切りにする。

 汁の具は少なめにする。

 一つ、酒町のイカ大根は当面、日替わりとする。

 毎日は出さない。

 一つ、湯屋町の汁物は丸芋と菜を増やし、大根を減らす。

 一つ、番飯には必ず少し入れる。

 黒菱衆の飯を荒らさぬ。

 一つ、公家宿には、見栄えを崩さぬよう薄切りにして出す。

 長可が不満を言った。

「イカ大根を毎日出さぬのか」

「出せませぬ」

「客が怒るぞ」

「だから、怒らぬように別の品を出します」

「何を」

「イカ丸芋煮」

 長可は眉をひそめた。

「それはイカ大根ではない」

「はい」

「大根がないからか」

「はい」

「なら仕方ない」

 蘭丸は、少し驚いた。

「兄上が納得しました」

 可隆が言った。

「大根がないことは理解したらしい」

 長可は言った。

「だが、大根が来たら戻せ」

 多米殿は頷いた。

「戻します」

     ◇

 大根不足の知らせは、江戸の店々にも広がった。

 だが、騒ぎは思ったより小さかった。

 多米殿が先に触れを出したからである。

 大根、上野より集め中。

 三日より五日の間、宿町、酒町、湯屋町にて大根を減らす。

 値を吊り上げる者は、菱屋より取引を止める。

 隠し置く者は、名を控える。

 傷み大根を混ぜる者は、酒町、宿町へ出入りを止める。

 蘭丸は読み上げてから言った。

「なかなか厳しいですね」

 多米殿は答えた。

「不足の時ほど、悪い商いが出ます」

「隠して高く売る者ですか」

「はい」

「大根で」

「大根で」

 蘭丸は、大根を少し侮っていた自分を反省した。

 大根は、町を荒らす。

 だから、大根は守らねばならない。

     ◇

 二日目の夜、上野から早馬が来た。

 真田信綱からの返書である。

 上野の大根、少なきは事実。

 されど村々に残りあり。

 江戸直送は道細く、雨後の泥も深し。

 御屋形様の仰せ通り、上野集積場へ寄せる。

 こちらで詰め、道を分ける。

 越後口の荷とも、同じ場にて積み替えられるよう整える。

 信綱らしい、簡潔な文だった。

 森可成はそれを読んで頷いた。

「真田殿が動くなら、早い」

 蘭丸は聞いた。

「江戸へ直に送る方が近いのでは」

 多米殿が答えた。

「近くても、道が細ければ詰まります」

「遠くなることもあるのに」

「詰まらなければ早いのです」

 義信の言う、流れであった。

 近い道がよいとは限らない。

 太い道が、結局は早い。

 大根は、そのことを江戸に教えていた。

     ◇

 四日目、最初の大根荷が江戸へ入った。

 多くはない。

 だが、整っていた。

 太いもの。

 細いもの。

 葉付き。

 葉落とし。

 泥付き。

 洗い。

 傷みあり。

 早売り。

 上野で一度分けられていた。

 蘭丸は、荷を見て驚いた。

「すでに分けられております」

 多米殿は、少しだけ満足そうだった。

「上野集積場が働き始めました」

 酒町の者が走ってきた。

「イカ大根は」

「太いものを回します」

 宿町の者が来た。

「漬けは」

「細いものを回します」

 湯屋町の者が来た。

「汁物は」

「葉付きの早いものを」

 黒菱衆の番飯には、傷みのない中ぶりのものが回された。

 長可は、太い大根を見て頷いた。

「よい」

 可隆が言った。

「大根の良し悪しまで見るようになったか」

「イカ大根で分かる」

 蘭丸は少し笑った。

 江戸は、人だけでなく、長可まで育てているらしい。

     ◇

 その夜、酒町にイカ大根が戻った。

 客が笑った。

「これだ」

「これがないと、飯が寂しい」

「大根が戻ったぞ」

 宿町では、漬け大根が少し厚くなった。

 湯屋町では、湯上がりの汁に大根が戻った。

 黒菱衆の番飯にも、大根が入った。

 蘭丸は、町の空気が少し柔らかくなるのを感じた。

 大根一つで、人の顔が変わる。

 それは、少し不思議で、少し怖かった。

 多米殿は言った。

「間に合いましたね」

「はい」

「ですが、これは始まりにございます」

「始まり」

「江戸は、もう近場だけで食えませぬ」

 蘭丸は黙った。

 江戸は大きくなった。

 大きくなった町は、遠くの畑で支えられる。

 上野。

 越後。

 信濃。

 甲斐。

 駿府。

 江戸の膳は、江戸だけでは作れない。

     ◇

 夜更け、多米殿は大根不足控えをまとめた。

 江戸大根口定め。

 冬の産地物尽きる時期を控えるべし。

 上野よりの荷、例年より遅き時は早く触れるべし。

 江戸は食う口。集める口を別に置くべし。

 上野に大根集積場を置くべし。

 上野村々、利根筋、越後口の荷を、まず上野集積場へ寄せるべし。

 江戸直送にて細き道を詰まらせるべからず。

 太き大根は煮物へ。

 細き大根は漬けへ。

 葉付きは早荷へ。

 傷みは早売りへ。

 番飯を荒らすべからず。

 不足時、値を吊り上げる者、隠し置く者、傷みを混ぜる者は名を控えるべし。

 上野集積場は、江戸荷、越後荷、信濃荷の積み替え場にも用いるべし。

 上野真田信綱殿と詰めるべし。

 初例、大根不足により江戸荒れかける。

 御屋形様、大根を侮るなと仰せ。

 森長可様、イカ大根復帰を強く望む。

 蘭丸は最後を見て言った。

「兄上の望みは、いつも控えられますね」

 多米殿は頷いた。

「飯の流れを見るためにございます」

「本当にそれだけですか」

「おおむね」

 長可は、イカ大根を食いながら言った。

「大根は大事だ」

 可隆が答えた。

「ようやく分かったか」

「イカがあっても、大根がなければ足りぬ」

「そこからか」

 森可成は静かに笑った。

「だが、それでよい。腹で分かることもある」

     ◇

 数日後、上野集積場から次の荷が届いた。

 大根だけではなかった。

 干し菜。

 豆。

 薪。

 紙。

 山の物。

 そして、越後へ返す江戸の品を積み替えるための空き荷台。

 大根不足から始まった騒ぎは、北の荷道を太くし始めていた。

 蘭丸は、それを見て呟いた。

「大根で道ができましたね」

 多米殿は答えた。

「はい。大根は道で集め、道を作ります」

「御屋形様の文の通りですね」

「はい」

 江戸は、また一つ学んだ。

 飯の具が足りないだけで、町は荒れる。

 だが、その不足を追えば、道が見える。

 江戸は、食う町である。

 食う町は、遠くの畑を必要とする。

 遠くの畑は、道と集積場を必要とする。

 大根は、ただの大根ではなかった。

 江戸の腹と、北の道をつなぐ白い荷であった。

 蘭丸は帳面を閉じた。

「大根を侮るな、でございますね」

 多米殿は静かに頷いた。

「はい。大根を侮る町は、飯で転びます」

 その夜、酒町では久しぶりにイカ大根がよく売れた。

 長可は、それを三椀食べた。

 蘭丸は言った。

「兄上、三椀は食べ過ぎでは」

 長可は真顔で答えた。

「不足に備えておる」

 可隆が即座に言った。

「お前が不足を起こす」

 江戸の大根騒ぎは、まだ完全には終わっていなかった。



――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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