第54帳 雨は品を選ばぬ
雨が、止まなかった。
朝から降る。
昼にも降る。
夕にも降る。
夜には一度弱まるが、明け方にはまた降る。
江戸の道は、ぬかるんだ。
荷車の輪は泥を噛み、馬の足は重くなる。
薪は湿り、紙は波打ち、布は重くなり、箱は歪む。
森蘭丸は、菱屋の荷捌き場で濡れた荷を見ていた。
「多米殿」
「はい」
「雨は、敵より厄介でございますね」
多米殿は、濡れた包みを開きながら頷いた。
「敵は斬れますが、湿気は斬れませぬ」
「まったく嬉しくない名言でございます」
荷捌き場には、御台様御選びの品が並んでいた。
南蛮芋蜜掛け。
丸芋薄揚げ。
江戸だれの小壺。
更紗。
針と鋏。
硝子の小瓶。
香。
小箱。
晴れていれば、どれもよい品である。
だが、雨は品を選ばない。
蜜掛けは湿りを吸う。
薄揚げはしなしなになる。
紙包みは波打つ。
箱は角が緩む。
だれ壺の口は湿って紐が甘くなる。
鋏にはうっすら錆が浮く。
蘭丸は、思わず天を仰いだ。
「御台様御選びが、御台様御湿りになっております」
「その名は売れませぬ」
「でしょうね」
◇
騒ぎは、古河公方江戸屋敷にも届いた。
足利義氏が、青い顔でやって来た。
「蘭丸」
「御公方様」
「奥の品が湿った」
「存じております」
「御台が怒っておる」
「それも、何となく分かります」
「家老も怒っておる」
「それは、いつものことでは」
「今回は二重だ」
義氏は、ひどく疲れた顔をしていた。
「御台は、よい品を台無しにしたと怒る。家老は、銭を出した品を湿らせたと怒る。わしは、その間に挟まれる」
蘭丸は深く頭を下げた。
「ご愁傷様にございます」
「弔うな」
そこへ多米殿が来た。
「御公方様、湿った品は江戸で引き取ります」
義氏の顔が明るくなった。
「まことか!」
「ただし、全てではございませぬ。売れるもの、直せるもの、試せるものに分けます」
「分けるのか」
「はい。雨に負けた品も、次の商いの師にございます」
義氏は、少しだけ嫌そうな顔をした。
「師にする前に、乾かしてくれ」
「乾かします」
多米殿は、すでに帳面を開いていた。
「梅雨口を作ります」
◇
梅雨口。
蘭丸は、その言葉を聞いて眉をひそめた。
「また口が増えましたね」
「雨の口にございます」
「雨にも口が要りますか」
「要ります。晴れの日の荷と、雨の日の荷は違います」
多米殿は、濡れた品を次々に分けた。
すぐ売るもの。
乾かして売るもの。
作り直すもの。
値を下げて出すもの。
贈答には回さぬもの。
江戸で食べ切るもの。
見本として残すもの。
丸芋薄揚げは、湿ると売りにくい。
「酒町で早売りにします」
「しなしなでも売れますか」
「焼き直して出します」
長可が、どこからか現れた。
「湿った薄揚げは許せぬ」
蘭丸は振り向いた。
「兄上、そこですか」
「そこだ。薄揚げは、ぱりっとしておらねばならぬ」
長可は、火鉢を持ってこようとした。
「炙ればよい」
可隆が即座に止めた。
「焦げる」
「焦げても食える」
多米殿が言った。
「売れませぬ」
長可は少し黙った。
「……売れぬのか」
「売れませぬ」
「では、軽く炙れ」
可隆が頷いた。
「それならよい」
蘭丸は驚いた。
「兄上が加減を覚えました」
長可は胸を張った。
「蹴鞠で学んだ」
「ここで生きますか」
◇
南蛮芋蜜掛けは、もっと厄介だった。
湿れば、包みが甘くなる。
甘い匂いが強く出る。
強く出れば、人は寄るが、虫も寄る。
蘭丸は顔をしかめた。
「これは早く食べるしかございませぬね」
多米殿は頷いた。
「梅雨の間は、大箱をやめます」
「小箱ですか」
「はい。少量に分け、早く食べ切れる包みにします。御台様御選びの梅雨口は、小箱を上といたします」
そこへ御台様が来た。
義氏の顔が、さらに青くなる。
「御台」
「聞きました。梅雨口を作るとか」
多米殿が深く頭を下げた。
「はい。御台様のお目をお借りしたく」
義氏が小声で言った。
「また買うのか」
御台様は、涼しい顔で答えた。
「雨の日に要る物を買わずに、いつ買うのです」
義氏は、何も言えなくなった。
蘭丸は思った。
奥向きに勝てる者は、まだ江戸にはいない。
◇
御台様は、濡れた品を見ていった。
「この蜜掛けは、大箱では駄目です。雨の日は、少しだけ食べる方がよいでしょう」
多米殿が書く。
蜜掛け、梅雨は小箱。
「布は、油紙で包まねばなりませぬ。けれど、油紙の匂いが移ると嫌がる者もいます。間に薄紙を入れなさい」
油紙包み、薄紙挟むべし。
「鋏と針は、錆を嫌います。湿ったまま箱へ戻してはなりませぬ。小さな炭を入れるとよいのでは」
炭入れ箱。
「硝子は濡れてもよいように見えますが、箱が傷みます。箱が傷めば、贈り物に見えなくなります」
箱、雨用に厚く。
「香は湿ると変わります。これは雨の日に売る品ではありません」
香、梅雨売り控え。
氏真も横で頷いていた。
「御台様のおっしゃる通りにございます」
蘭丸は氏真を見た。
「氏真殿、礼にも湿りがございますか」
氏真は真顔で答えた。
「ございます」
「あるのですか」
「装束が湿れば、礼が崩れます。紙が波打てば、文の姿が崩れます。香が湿れば、場の香りが崩れます」
「礼も湿るのでございますね」
「湿ります」
蘭丸は、また一つ嫌な知識を得た。
◇
公家宿でも問題が起きていた。
装束が湿る。
紙が湿る。
畳が重くなる。
香が変わる。
草履の鼻緒が緩む。
公家の一人が、悲しそうに言った。
「江戸は、雨が荒い」
蘭丸は少し困った。
「雨そのものは、駿府ともあまり変わらぬのでは」
氏真が横から言った。
「町が速いので、雨の害も速く出るのです」
「また速さの話でございますか」
「はい。江戸は品の動きが速い。包みも急ぐ。荷も急ぐ。急げば、雨支度が薄くなります」
多米殿は即座に書いた。
速き荷ほど、雨に弱し。
蘭丸はそれを見て頷いた。
「これは、分かります」
氏真は続けた。
「駿府では、整えてから出す。江戸では、売れたらすぐ出す。どちらも良し悪しにございます」
「では、江戸も少し駿府を学ぶべきですね」
「雨の日だけでも」
蘭丸は苦笑した。
「晴れたら忘れそうでございます」
「ですから、定めにするのです」
◇
雨蔵と乾き蔵が作られることになった。
雨蔵は、濡れた荷を一度受ける蔵である。
いきなり店へ入れず、荷を解き、傷みを見る。
乾き蔵は、乾かすための蔵である。
風を通し、灰や炭を置き、紙や布を休ませる。
蘭丸は、湯屋町から運ばれてきた灰を見た。
「湯屋の灰が、ここで働くのですか」
多米殿は頷いた。
「湯を沸かした後も、灰は働きます」
「灰は働き者でございますね」
「はい。灰を捨てる者は、銭を捨てる者にございます」
湯屋の灰は、湿り取りに使う。
炭は箱へ入れる。
濡れた板は、湯屋の余熱で乾かす。
だが、食べ物は近づけすぎない。
長可が言った。
「全部、湯屋で乾かせばよい」
可隆が答える。
「匂いが移る」
「湯の匂いならよい」
「よくない」
「食えればよい」
「売れぬ」
長可は、また黙った。
「売れぬは強いな」
蘭丸は小さく笑った。
最近の長可には、「売れぬ」という言葉が効くらしい。
◇
雨の道も問題だった。
荷道は泥になる。
客道も泥になる。
湯屋から戻る者は足を取られる。
風月町の女衆は裾を濡らす。
公家は草履を汚す。
多米殿は言った。
「板道を敷きます」
「板道」
「荷捌き場、菱屋、雨蔵、公家宿、古河公方江戸屋敷、湯屋町の間だけでも」
可成が頷いた。
「全部は無理だな」
「はい。まず要るところだけにございます」
長可が言った。
「泥なら担げばよい」
蘭丸は言った。
「公家をですか」
「軽そうだ」
氏真が笑顔で言った。
「森殿、それは礼が泥より崩れます」
長可は少し考えた。
「では、板でよい」
多米殿は書いた。
公家を担ぐべからず。
蘭丸は止めなかった。
必要だと思った。
◇
軒下市も始まった。
雨の日に、広い市を開くと品が濡れる。
ならば、軒の深い場所に店を寄せる。
雨の日に売る品を決める。
蓑。
笠。
足半。
下駄。
油紙。
縄。
炭入れ箱。
小箱の蜜掛け。
焼き直し薄揚げ。
温かい汁物。
湯屋帰りの乾いた手拭い。
御台様は、足半を見て言った。
「雨の日の奥向きには、見えないところの品も要ります」
義氏が小声で言った。
「また買うのか」
「買います」
「なぜだ」
「裾を濡らさず歩けるなら、買うでしょう」
多米殿が即座に書いた。
御台様御選び、梅雨口。
足半、雨の日に強し。
女衆用、小さめ要。
蘭丸は感心した。
「足半まで売り物に」
「雨の日は、足元から売れます」
多米殿が答えた。
「なるほど」
義氏は、さらに小さくなった。
「なるほどではない。銭が出る」
◇
長雨は、酒町にも響いた。
客は減るかと思いきや、減らなかった。
雨で仕事が止まった者が、酒町へ来る。
湯屋で温まった者が、酒町へ流れる。
濡れた体に、温かい汁物が売れる。
ただし、焼きイカの煙は雨で重くなった。
「煙が流れませぬ」
焼き場の者が困った。
多米殿は、焼き台の向きを変えさせた。
風の抜ける軒下へ寄せる。
濡れた薪は使わない。
煙の多い薪は湯屋へ回す。
焼きイカは少し減らし、イカ大根の汁を増やす。
長可は不満そうだった。
「焼きイカを減らすのか」
可隆が言った。
「雨の日は汁が勝つ」
長可は、イカ大根の椀を受け取り、食った。
「……勝つな」
蘭丸は驚いた。
「兄上が認めました」
「寒い日は汁だ」
多米殿は書いた。
雨の日、汁物強し。
◇
風月町では、衣と髪の問題が出た。
雨の日に客を迎えるには、乾いた衣が要る。
濡れたままでは、席の空気が沈む。
女衆の一人が言った。
「雨の日は、身支度に時間がかかります」
多米殿が頷く。
「では、風月町女衆の湯屋刻限を、雨の日だけ少し早めます」
蘭丸は言った。
「湯屋とつながるのですね」
「はい。雨の日は、湯屋、風月町、酒町、宿町が一つにつながります」
風魔小太郎が、軒下から言った。
「雨の日は、人の足が狭くなる」
蘭丸はもう驚かない。
「風魔殿、雨でも出るのですね」
「雨の方が、足跡が残る」
「それはそれで嫌でございます」
風魔は、泥のついた道を見ていた。
「雨の日に動く者は、理由がある」
蘭丸は、少しだけ背筋が冷えた。
雨は人を止める。
だから、雨でも動く者が目立つ。
風魔には、雨も道具らしい。
◇
三日目の夕方、ようやく雨が弱まった。
完全には止まない。
だが、空が少し明るくなった。
菱屋の前では、梅雨口の品が並び始めていた。
小箱の南蛮芋蜜掛け。
炭入れ箱。
油紙包みの更紗。
女衆用の足半。
濡れにくいだれ壺。
雨の日用の手拭い。
焼き直し薄揚げ。
温かい汁物。
御台様御選び、梅雨口。
その控え書きが置かれると、また人が足を止めた。
「雨の日用ですか」
「こちらにございます」
「御台様が?」
「はい」
「では、足半を」
「小箱の蜜掛けも」
「油紙包みを見せて」
義氏は、少し離れてそれを見ていた。
「売れておる」
蘭丸は頷いた。
「売れております」
「だが、御台も買っておる」
「買っておられますね」
「これは、勝ちなのか」
蘭丸は少し考えた。
「江戸としては勝ちにございます」
「わしとしては」
「分かりませぬ」
義氏は肩を落とした。
「正直でよい」
◇
その夜、多米殿は梅雨口の控えをまとめた。
江戸梅雨口定め。
晴れ荷と雨荷を分けるべし。
濡れ荷は雨蔵へ入れ、すぐ店へ出すべからず。
乾き蔵を置き、灰と炭で湿りを取るべし。
紙、布、装束、香は湿りに弱し。
蜜掛けは梅雨には小箱を上とする。
薄揚げは早売り、または焼き直すべし。
だれ壺は口を改め、漏れを見届けるべし。
鋏、針は錆を避け、炭入れ箱を用いるべし。
雨の日は軒下市を開くべし。
蓑、笠、足半、下駄、油紙、手拭いを揃えるべし。
板道を、菱屋、雨蔵、公家宿、古河公方江戸屋敷、湯屋町へ通すべし。
公家を担ぐべからず。
雨の日は汁物強し。
御台様御選び、梅雨口を設けるべし。
蘭丸は、最後から二つ目の行を見た。
「公家を担ぐべからず、は本当に要りますか」
多米殿は頷いた。
「長可様がおられますので」
長可は不満そうだった。
「軽そうだと言っただけだ」
氏真が穏やかに言った。
「軽くても、礼は重いのでございます」
長可は、少し考えた。
「それも前に聞いたな」
「何度でも申し上げます」
「面倒だ」
「礼ですので」
蘭丸は、少し笑った。
◇
雨は、まだ降っていた。
だが、江戸は少しずつ動き始めていた。
泥には板道。
湿りには乾き蔵。
濡れ荷には雨蔵。
傷む品には梅雨口。
寒い客には汁物。
濡れる裾には足半。
湿る装束には炭と風。
江戸は、晴れの日だけの町ではいられない。
飯も、酒も、湯も、礼も、買い物も。
すべて雨に濡れる。
ならば、雨の日の口を作るしかない。
蘭丸は、軒先から降る雨を見た。
「雨でも、町は増えるのですね」
多米殿は静かに答えた。
「はい。困りごとが増えれば、口も増えます」
「増えすぎではございませぬか」
「江戸ですので」
その答えは、もはや説明になっていない。
だが、蘭丸は少し納得してしまった。
雨は品を選ばない。
だが、江戸は雨の中で品を選び直した。
その横で、義氏が御台様の買い物控えを見て、また小さく震えていた。
「蘭丸」
「はい」
「梅雨はいつ明ける」
「それは、私には」
「早く明けてほしい」
蘭丸は、御台様が新しい足半を選んでいるのを見た。
「御公方様」
「何だ」
「明けたら、夏物が始まるのでは」
義氏は、雨より暗い顔になった。
多米殿は、静かに筆を取った。
夏物口、後日。
蘭丸は叫んだ。
「まだ書かなくてよろしい!」
雨の江戸に、その声だけが少し明るく響いた。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
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『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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